第7話 広尾(車内)

 ――秋雨前線の活発化と、南からの台風十四号の接近により、関東では一昨夜から累計四〇〇ミリ以上の降水を観測しています。

 すでに二十三区でも善福寺川、神田川周辺や、その他あちこちで冠水の被害が相次いでおり、これからさらなる浸水、河川の氾濫や土砂崩れなどのおそれが高まっています。

 現在台風十四号は南海上にあり、中心気圧九一〇ヘクトパスカル、風速五十六メートル。瞬間最大風速六十二メートルという猛烈な勢力で、時速四十キロという、自動車並の速さで北上を続けています。

 このままの速度を維持した場合、関東地方への上陸はおよそ夕方頃になると予想されます。現在各地に発令されている警報は、以下のとおりに――


 駅の改札前のディスプレイで、男性アナウンサーが喋っていた。

 航治の目の前には閉鎖された地下鉄の改札と、立て札があった。


 お知らせ

 台風十四号にともなう豪雨のため、現在地下鉄線は以下の区間で運転見合わせ中です。

 日比谷線 全区間

 丸ノ内線 全区間

   ・

   ・

   ・

 以上、ご不便をおかけして大変申し訳ございません。

 東京メトロ


 航治は大きく肩を落とした。

 ドライバーの男、辻から電車賃を借りて、地下鉄に乗って行く算段を立てたのだが、どうやら一足遅かったようだ。改札前は閑散とし、現在立っているのは航治だけだ。

 スマートフォンを操作し、SNSを見るが、やはり誰からもメッセージは届いていない。

 駅員がやって来て声をかけた。

「お客様。申し訳ございませんが、そろそろ外の出口を閉鎖させていただきますので」

「ああ、はい、わかりました」

 返事をすると、航治はスマートフォンを二枚のビニール袋で元のように二重に巻くと、合羽の下のジーンズのポケットに収めた。

 回れ右をして、さっき入ってきた出入口へ引き返す。階段を上った先では、作業員らしき四十男が立ち、無線機を手に、何事かを話していた。航治が出てくる姿を認めると、

「今最後の退出者を確認しました。はい、ええ、はい、直ちに作業にとりかかります」

 と言って、相棒らしき若い作業員とともに、そそくさと防水壁の設置に取りかかった。

 航治は叩きつけるように激しい雨の中へと戻った。

 雨が合羽のフードに当たり、耳を聾する音を立てる。時折身体がよろめくほどの突風が吹き、雨滴が石礫いしつぶてのように顔を打つ。路面はもうほとんど広大な浅瀬と化し、その水面にはどこからか飛んできた木の枝や、折れた傘の残骸が葦のように突き立っている。そこを航治の背丈ほどの水飛沫を上げて、車が走っていく。路肩の排水口はその役割を果たすべく、懸命に水を吸い込んでいるが、降る量の方が圧倒的に勝っているように見えた。

 今のところ歩道にまでは水は及んでいない。だが航治が家からずっと履き続けてきたスニーカーの中は壊滅的な浸水状態で、靴下の隅々にまで水がしみ込み、歩くたびにぐっぽぐっぽと蛙の鳴き声のような音を立てていた。

 ワンボックス車まで戻ってくると、航治はドアを開け、後部座席に乗り込み、早々に合羽を脱いだ。こもっていた熱が放たれ、汗が湯気となって白く立ちのぼる。ついでに忌々しい靴と靴下も脱ぎ、窓を開け手を出して雑巾のようにしぼった。

 辻が訊いた。

「どうしたの? やっぱり地下鉄は駄目だったのかい」

「はい。運転見合わせだそうです」

「そうか。残念だったね」

「これ、さっき借りたお金です」と、借りた千円札を差し出そうとした航治に、彼は手を振ってみせ、

「いいって。何かのときのために取っておきなよ」そして「君もさ、色々あって家を出てきたクチなんだろう?」と言って笑ってみせた。

「それからさ、悪いんだけれど、早いところ行き先を決めて欲しいんだ。いい加減社に戻らないと、上も心配し始めるから。それとも、決定権は折口さんのほうにあるんですか?」

 航治は辻の言葉に少なからず驚く。折口さん? 今確かに辻はそう言ったが。どうして勤め人である辻が、一介の路上生活者である折口を「さん付け」で呼ばねばならないのだろう。

 そんな航治の疑問をよそに折口は、

「いや、決めるのは俺じゃなくって、この二人のほうなんだが」

 と言って、航治たちに目をやった。

 航治の隣では少女がシートの上に体育座りをし、膝の間に顔を埋めていた。

 折口がいかにも戸惑ったように、(兄ちゃん、こりゃ俺にはお手上げだ)と表情で伝えていた。彼はポケットに手を突っ込み、シケモクを出すと、火を付け、薄い煙を吐いた。

けむい」少女が顔を伏せたまま呟いた。

「あ、ああ、そうか。ごめん、悪かったな」折口は慌てて、ちびた煙草を灰皿にこすりつけて消し、またポケットの中へ大事そうにしまった。

「ええと、まあ、じゃ、とりあえず、辻君に頼んで、兄ちゃんの用事の方を先に済ますか」おどおどとした口調で、折口が言った。はい、と航治は答え、

「そうしてもらえると助かるんですけど」

「で、荒川のどこに行けばいいんだ?」

「橋です」

「橋?」

「そうです。なるべく早い時間に、荒川沿いのどこかの橋の、西岸に降ろして欲しいんです」

「どこかの橋? それって、どこの橋でもいいっていうことか?」

「はい」

「ほおう」折口が口をアルファベットのOの字に開き言った。「橋ならどこでもいいから連れてってくれなんて。それに、よりにもよってこんな日にか。いや、なんとも変わった頼みだな。もしよかったらな、この俺に事の次第を話してくれないか?」

 航治は黙った。折口はそのあいだ、凝った肩をほぐすように、左に右にと頸を傾けながら、とりたてて急かす様子もなく、航治の答えを待っていた。

 たっぷり時間をかけ折口の様子をうかがった後、航治は口を開いた。

「友達が、いるんです」

「友達?」折口が聞き返した。「そいつは男か? 女か?」

 航治は答えた。「男の友達です」

「ふむ」折口は深めに頷くと、先を促した。「それで?」

「その人――彼は荒川沿いに住んでいるんです。そして今多分、深く眠っています。それで僕は、彼の目を覚まさなきゃならないんです」

「ふむ」首を傾げつつ、折口は、「ううん。悪いけど俺にはまだ話が全然見えねぇな。なんで兄ちゃんが今日に限って、そいつのところに行かなきゃならないのか。あんた、そいつを起こして一体どうするつもりなんだ?」

「起こして、部屋から連れ出すんです」

「どうしてだい?」

「それは」

 航治は言葉を切って横を見た。少女は相変わらずぴくりともせず、膝の間に頭を伏せていた。

「荒川が、今日、決壊するからです」

「ほう」

 折口が両眼を見開いた。

「荒川が決壊する。凄い話だな。一体どうしてそう思うんだい? 何がどうなって、そんな大騒ぎになっちまうのか、ちょっと詳しく説明してくれないか?」

「詳しく、ですか?」

「そうだ」

「でも、ちょっと難しい内容ですよ?それに長くもなるし」

「いいんだよ。兄ちゃんが考えたことを、俺もぜひ知りたい」

 折口はくしゃりと顔に皺をつくって笑った。航治はまた少しの間、戸惑ったが、結局口を開いた。

「一昨日から昨日にかけて、台風十三号が接近、遠ざかっていきました。この十三号は、勢力こそ大きくはありませんでしたが、そのゆっくりした速度によって、温かくて湿った空気を長時間、持続的に日本列島上空に流し続けました。このため、列島に横たわっていた秋雨前線が強く刺激され、大量の積乱雲が相次いで発生しました。この積乱雲が関東地方各所に降らせた雨量は大変なものでした。そして雨はまだ止んでいません。十三号に続く台風、十四号の接近によって、むしろどんどん強まっていこうとしています。もちろん各自治体は地下河川や貯水池を稼働させ、それら雨水を処理しようとしています。が、それも、いつかは満杯になってしまうと思われます」

「――オタク」

 少女の声が聞こえた。彼女はいつの間にか顔を上げていた。

「あんた、気象オタクだったのか」

「オタクかどうかは知らない。けど、昔から好きだよ。天気とか気象のことは」

「あんたらしいよ。暗いところがいかにも。さあ、どうぞ続けなよ。『世界の終わり』についての予言を」

 そう言った後、少女は顔を伏せると、また黙り込んだ。航治は説明に戻った。

「荒川は、昔、暴れ川だった今の隅田川の水量を調節するために作られた放水路、人工河川です。そのためかなりのキャパシティをもって川も堤防も造られています。ですが」

「兄ちゃんは、決壊すると思うんだな?」

「そうです」航治は頷いた。

「問題は、十四号が東京に上陸する時間帯なんです。気象庁によれば、夕方頃ということですが、もしそれが現実になれば、大変なことになります」

「どうしてだい」

「高潮の吹き寄せ効果と、満潮の重なりです」

 航治はきっぱりと言った。

「十三号と違って十四号の勢力は猛烈に強いんです。このため台風の下の海面が、上昇気流による吸上げ現象によって、通常時よりもずっと高くなります。十四号みたいな強力なものなら、なおさらです。これが、高潮です。この高潮、隆起した海面が今日、台風の進行にともなって真南から東京湾に押し寄せることになります。つまり『吹き寄せ効果』の発生です。そしてこの吹き寄せ効果は、湾の奥になるほど強くあらわれる。波がより高くなるんです。さらに十四号の上陸予想時間の夕方は、ちょうど東京湾の満潮の時間帯です。高潮の吹き寄せ効果と、満潮が重なることになります」

 航治は言葉を切ると、また続けた。

「高潮による水位上昇は、最終的に数メートルになると予想されます。それが東京湾に押し寄せ、各河川、荒川に流れ込み、川上へと逆流していきます。これと上流から流れてくる増水した水流とがぶつかって、荒川、隅田川の水位は急激に上昇し、堤防から溢水(いっすい)、水漏れが始まると思われます。いや、それ以前にこの雨です。もしかしたら高潮の到来を待たずに溢水がはじまるかもしれません。ともかく、水漏れが徐々に堤防を削り、最終的に荒川を決壊に至らせます。それが僕が考えたことです」

 航治は口を噤んだ。獣の遠吠えのような風の音と、雨滴が間断なく路面を叩く音が耳に飛び込んでくる。折口は何か考えているのか、じっと眼を閉じている。少女は顔を伏せたままだ。

「隅田川と荒川に挟まれたデルタ地帯である、墨田区のハザード・マップによれば、荒川が決壊すれば、多くの地域で五メートル未満の浸水被害が出ると予想されています。

 でも僕は、これは甘い予想だと思います。墨田区に限らず、荒川沿いの多くの場所で、六メートルに達する濁流が人家を襲うんじゃないかと思っています。もちろん、彼の住む部屋にも」

 航治は大きく息を吸い込むと、一気に吐き出し言った。

「不思議で仕方ないんです。こんなに危険な状況なのに、人はほとんど行動――避難を起こそうとしていない。そんな状況を見ていると、一瞬、おかしいのは彼らじゃなくって僕のほうで、考えていることが荒唐無稽な妄想なんじゃないかって思えてくるんです」

「だが兄ちゃんは、最終的に、自分の考えていることの方が正しいって思っているんだな?」

「そうです」

 航治は頷いた。

「決壊は起きます。だから僕は、行かなきゃならないんです。荒川が破堤する前までに、彼のところにまで行って、眼を覚まさせ、部屋から連れ出さなきゃならないんです」

「自分でやらせればいい」

 再び少女の声がした。彼女は顔を上げ、航治を睨み付けていた。

「あんた、何そんな過保護なこと言っているの? そんなの、そいつが自分で判断して逃げるのに任せておけばいいじゃん。区の広報車だって回るだろうし、いくら寝坊な奴でも、起きて避難するに決まってるよ」

「多分、それはできないと思う。彼はとても深く眠ってるから」

「どんな眠りよ」

「薬だよ。眠剤を沢山飲んでるんだよ。そしてもう一つ、ペナルティを負っている」

「何さ」

「病気さ。彼は、身体の関節を思うように動かせないんだ」

 少女は、はっ、と息を吐くと、何も言わず、両脚の間にまた顔を伏せた。

 折口はしばらくのあいだ、宙を見ながら、顎に生えた無精髭をもぞもぞといじくっていたが、やがて、「よくわかったよ」と言った。

「だが兄ちゃん。どうして場所の指定がそんなに適当なんだ? もっときちんと、そいつの住所のところまで送ってくれって言えばいいだろうに」

「それは――」

 航治は口ごもりつつ、

「僕は、彼が住んでいる場所を知らないんです」

 突然、くつくつという笑い声が聞こえてきた。少女が顔を上げ、肩を大きく震わせ笑っていた。

 折口は少女の様子を横目で見つつ、

「ああ、兄ちゃんさ、住所なんて、その、今持ってるスマホを使って、電話して聞けばいいんじゃないのかい? というかさ、そうやって起こしたついでに、消防署に電話して避難所まで運んでもらうよう、そいつ自身に手配させたらいいだろうに」

「違うよ。爺さん。こいつは知らないんだよ。住所だけじゃなくって、その男の電話番号まで。ねえ、そうなんでしょ?」

 航治は頷いた。「そうさ。僕は知らない。彼の電話番号さえ。僕と彼とは、SNS上だけでの付き合いなんだ。そして今彼は、朝のメッセージを最後に、返信をしてこない」

「馬ぁ鹿」

 少女が嘲った。

「もしかしてあんた、川沿いの家を一軒一軒全部ノックして回るつもり? そんな方法じゃ、いくらやっても辿り着けるわけないじゃない」

 折口も深刻な表情だった。

「悪いが俺もそう思うぞ。どうやってその友達のところに行き着くつもりなんだ?」

「手掛かりはあるんです。今までのメールのやりとりの中で、彼は何回か、自分の住んでいる場所に関係するようなことを書いてくれました」

「どんなことだい」

「以前一度、自分が出入口共同の、古い木造アパートに住んでいるっていうことを書いていました。それから荒川のすぐ近くに住んでいるっていうこと。よく、家のすぐ近くの土手で、楽器の練習をすると書いていました。それと、西にずっと行けば、隅田川があること。アパートの東には、荒川にかかる橋があるっていうことも書いてくれてました。

 つまり彼は隅田川と荒川にはさまれたデルタ地帯の中でも、荒川の西岸、いずれかの橋がかかっている場所にある、出入り口共同の古い木造アパートに住んでいるはずなんです」

「はぁ? たったそれだけ? それっぽっちの手掛かりで人捜しをしようとするなんて、あんた、頭おかしいんじゃないの?」

 ううん、と唸り、折口も言った。

「確かにそれだけでは難しすぎる。荒川にかかる橋はいくつもある。それに、話から察するに、もしかしたら兄ちゃんは、そいつの名前も知らないんじゃないのか?」

「それは――そうです。ハンドルネームしか知りません」

 少女が身を反らせて笑った。

「笑うなよ」

 航治は言った。だが少女はやめようとしなかった。

「笑うに決まってるでしょ、そんなの。要するにただのネット上での友達を助けに台風の中、あてどない旅に出ようとしてるわけだ。あんた、正真正銘の馬鹿だよ」

 航治は苛立ちつつ、

「何とでも言えよ。僕はどうしても、何もしないでいることはできなかったんだ。ともかく荒川まで行って、橋の東岸にある古いアパートを捜していく。誰が何と言おうと」

「すごーい。大変な冒険だ。本当すごい。笑えるよ」

 さらに大声をあげて少女が笑った。

 折口はしばらくの間、それまでに見せたことのない酷く険しい顔をつくり、無精髭をいじくっていた。一、二分のことだったろうが、航治には随分と長く感じられた。やがて折口は運転席の方を向き、ぼそりとした声で言った。

「辻君」

「何ですか」

「悪いんだけど、車を小石川までやってくれないか」

「小石川?」

 辻が驚いたように言った。

「折口さん。もしかして」

「そうだ。何も言わないでやってくれ。頼むよ」

 辻はしばし黙っていたが、車のエンジンをかけた。

 少女が目を大きく見開き、折口に言った。

「あんた、一体どうするつもりなのよ」

「ちょっとな。車を調達するんだよ。この兄ちゃんのために。決壊が起こらなくとも、この雨量じゃどこに行ってもじきに水浸しだ。防水性が高い車じゃないと、動きがとれないだろ」

「まさか! 爺さん、こいつの言うとおりにするつもり?」

「そうだよ」

 折口はゆるく笑みを浮かべた。

「信じられない。そんなのできるわけないじゃない」

「そりゃわからん。兄ちゃんの言うとおり、やってみなきゃ」

「狂ってる」

 少女は吐き捨てた。

「あんたら、二人して狂ってる。大体爺さん、どうしてあんたみたいなのが、こんな馬鹿の世話を焼くのさ」

「おかしいかい? 路上生活者が世話焼じゃあ」折口が首を傾げつつ言った。

「姉ちゃん、一口に路上生活者っていっても、色んな奴がいるんだぞ。他人と関わりたい奴。関わりたがらない奴。礼儀正しい奴。図々しい奴。まあどっちかというと、自分勝手に生きたいと思って路上生活者やってる奴は、そんなに多くない。でもって俺は、他人と関わりたい路上生活者。その中でも結構お節介なクチなんだ」

 折口は、薄い笑みを浮かべた。

 少女は鼻を鳴らすと、何も言わず元のように体育座りになり、顔を伏せた。


 辻が車を発進させると同時に、後方から猛然と水飛沫があがる音が聞こえてきた。

 航治はシートに背中を預けながら思う。折口は「小石川に行ってくれ」と辻に言った。「車を調達する」とも。

 小石川というとつまり、文京区の谷中か。折口はそこに知人でもいて、車を借りようとしているのかな。まさか路上生活者が自分の車を持っているとは考えられないから。

「兄ちゃん」

 折口の声がした。航治は思考を中断して答える。

「何ですか」

「安心しろ。兄ちゃんの感覚は正しい。あんたは妄想に怯えているわけじゃない。ただ正常なだけだ」

「あの、折口、さん」航治は初めてこの路上生活者を名前で呼んだ。

「どうしてそう思うんですか?」

「ちょっとな。まあ、詳しいことはそのうち話すから、な」

 そう言うと折口は、また黙った。

 航治は横を見た。少女は相変わらずうずくまるようにして座っている。

 ふと思いつき、航治は声をかける。

「あのさ。君、名前は何ていうの?」

 少女は黙ったきり、答えなかった。

「僕は、ニシザトコウジっていうんだけれど。東西の西、山里の里、航海するの航、治療の治。それで西里航治」

 少女は黙ったままだった。予想通りの結果に、航治は「わかった。もういいよ」と言って、眼を閉じた。

 そのときだった。

「エミ」

 少女の声がした。

 眼を開けると、少女が錐のような眼差しで航治を見ていた。

「オダガキエミ。小さい小に、田んぼの田、垣根の垣。下はカタカナでエミ」

「ああ、ええっと、そう、そうなんだ」

「そうだよ」

 それだけ言って、また少女――エミは顔を伏せた。

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