第8話 自室(半年前)

 〈あいつ〉が夕方の買い物をするために外に出て行くと、家の中に響くのは、航治が操作するパソコンの音だけになった。

 航治は下書きフォルダを開き、「彼」に向けて書いたメッセージを読み返す。

 しばらくためらった後、送信をクリックし、「彼」にメッセージを送った。そしてそのままパソコンの電源を切った。

 少し息苦しかった。

 室内の温度は、カーテンの隙間から差し込む午後の陽と、この数時間点けっぱなしだったパソコンの放熱とによって上昇していた。

 カーテンを開け窓を開くと、外から冷気とともに、春を目前にした浮ついた匂いを含む三月の空気が流れ込んだ。

 見上げると空の高い場所に、白い絵の具を真新しい水に垂らしたときのような、見事な巻雲が幾筋も広がっているのが見えた。庭には桜の木が、傾いた陽をいっぱいに浴びて立っていた。その姿は航治が幼い頃見たものと、ほんのわずかも異っていないように見えた。

 桜は蕾をつけていた。あともう四~五日すれば開花がはじまるだろう。

 そっと窓を閉めた。これ以上眺めていると、咲く花たちを今年も見たいという欲求が込み上げてきそうに思えたから。

 作業に戻る。

 机の前の椅子を持ち、背の高い本棚の前に行くと、椅子を置いてその上に乗った。そして〈あいつ〉がいないときに物置から持ってきた金槌を手にし、本棚の上の枠に、同じく物置にあった五寸釘を打ち付けていった。

 釘を打ち終えると、そこにネクタイを固く結びつけ、下に輪を作った。中ほどを握って引っ張り、本棚が倒れたり、釘が抜けたり、ネクタイがほどけたりするなどという、不測の事態が起こる可能性がないか確認した。

 行為を失敗した挙げ句、〈あいつ〉に恩着せがましく世話を焼かれるという展開になることだけは、絶対に避けなければならなかった。

 充分に「安全」を確認すると、椅子から降り、それを机の前に戻した。かわりに部屋の隅から背の低い電気ストーブを持ってきて、本棚の前に置いた。

 上に登る台としては、あまり適しているとは言い難かったが、ほんの一瞬しか使わないものだ。何とかなるだろう。

 航治は机の前まで行くと椅子に座り、丸一週間かけて丹念に掃除をした部屋の中を見渡した。棚や抽斗ひきだしは、苦労の甲斐あって綺麗に整頓されていた。所々にある空白のスペースは、〈あいつ〉に見られては困るものを処分したために生まれた空間だった。

 ふと思う。やはり「彼」以外に対しても遺書を書いた方がいいのかと。

 航治はその考えをすぐに打ち消した。

 この一週間に何度も書こうとして、結局書けずに諦めたじゃないか。

 たぶん僕には、書くことなんて何もないのだ。クラスの連中が言うとおりだ。僕の人生はつまらなく、誰にとっても(僕自身にとっても)必要のないものなのだ。だから何の文面も浮かんでこないんだ。

 ただ二人、〈あいつ〉たちは、まるでかけがえのない大切なものを失ったかのように、僕の死後思うことだろう。だがそれは「生きて、自分の意志で行動する人間」にではなく、あくまで彼らの「愛玩具」に対してだ。


 そろそろ死ななければ。

 四時半を指した時計を眺め、航治は思った。

 早くしないと五時になる。そうすると「あの曲」が窓の外から流れてきてしまう。

 航治は夕方の学校から流れてくる、帰宅を促す音楽が大嫌いだった。最後の日にまで、あの忌々しい曲を聞くなどというのは、ごめんだった。

 ゆっくりと椅子から立ち上がると、本棚の前に行き、吊るされたネクタイの輪と、電気ストーブの踏み台を交互に見た後、右足を先にかけ、台の上へと登った。幸いなことに、台は昨日試した通り、少しばかり軋み音を立てただけで、ぐらつくことも、倒れることもなかった。

 輪の左右を両手で掴み、その中にゆっくりと頭を通した。

 後は足下を蹴ってぶら下がるだけだ。

 迷った末、航治は「彼」に向けてだけ、小さく「さようなら」と呟いた。

 そしてネクタイから手を離し、電気ストーブを蹴り倒そうとした。

 数十秒が経過した。

 航治はまだ電気ストーブを蹴っていなかった。ネクタイの両端も掴んだままだ。

 手脚がしびれ、ふるえていた。いや、四肢だけでない。全身が細かく震えていた。

 それは、この期に及んで死に怯える自分に対して発せられた、もう一人の自分からの嘲りのように感じられた。

 気がつくと、頬を涙が伝っていた。ぬぐってもぬぐっても、流れつづけた。

 陽が落ち、室内が暗くなってからも、航治は独り泣き続けた。

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