第9話 広尾からの車中
ひときわ強い風が吹いた。
航治は車窓に向かって殴りつけるように降る雨滴の様子を眺めると、さっきまで見ていたスマートフォンの待受け画面にまた目を落とした。
ディスプレイには満開に咲く桜の姿があった。
「なんだ、桜か」
突然、横から声がした。いつの間にかエミが近づき、ディスプレイを覗きこんでいた。
「な、なんだよ。なに覗いてるんだよ」
航治は急いでスマホを伏せ、狼狽もあらわにエミに言った。しかし彼女は航治の問いにとりあうことなく、身体を離すと、再び
航治は手脚にしびれを覚えた。今度はさすがにエミに指摘されずとも、それの意味するところが理解できた。彼女への怒りだ。
喉元に、エミに対する文句の言葉がせり上がってきた。が、結局航治はそれらを口にすることなく、胸の奥へ飲み下した。下手に相手をなじった挙げ句、また暴力の応酬になってしまうのはごめんだと思った。
航治は眼を強く瞑り、開けると、相手を刺激しすぎない程度に慎重に口調を調整し、それでも目一杯の皮肉を込めてエミに訊ねた。
「あのさ、たまにはさ、君自身に関する話をしない?」
「どうして」
「別に。ただの好奇心だよ」
「へえ」
エミが顔を上げながら言った。
「気象オタクの引きこもりにも、一丁前に他人への好奇心があるんだ」
「まあね。一応、君みたいな人に対してもね」
「なるほど。わかったわ。それで航治君、あなたは何を知りたいのかしら?」
エミが子供を相手にするような口調で言い、小首を傾げてみせた。航治は胸に起こる苛立ちをかわしつつ、
「じゃあね。まず、どうして君はさっき、図書館なんかに行こうとしたの?」
「そんなの決まってるでしょう。本が好きだからよ」
「そうだね。本が嫌いな人間があんな場所をわざわざシェルターにしないだろうね。じゃあ次の質問にいこうか」
「あら、まだあるの?」
「当たり前じゃないか。君は一つ質問に答えただけだろう? 僕はね、君がどんな人で、どんな理由であのスーパーの前にいたのか、それを知りたいんだけどね」
少女は少しの間眼を細めて航治の顔を見ていたが、やがてゆっくりとした口調で話しはじめた。
「そう。わかったわ。じゃあ話してあげる。あたしの全てを。ねえ、あんた、『公安調査庁』って知ってる?」
「知らない」
「駄目ねぇ」
エミは薄笑いすると、話しはじめた。
公安調査庁、公庁っていうのはね、簡単に説明すると、国の安全を脅かす可能性がある団体に対し調査、情報収集、まあ要するに諜報活動をする法務省の外局組織よ。あたしはね、その公安調査庁に通じる人間。つまりスパイなの。
あたしは今、都内某所に家族とともに住んでるわ。でもそれは、偽の家族なの。あたしだけじゃなく、父も母も、祖母も祖父も、互いに血のつながりは全くないの。
でね、今日まであたしは公庁の上の命令で、ある
その娘には、あたしとは別に、親しい友人、B子がいた。でもそのB子も、あたしと同様、A子にとっての心からの友人ではなかったの。
B子は、警視庁公安部という、公安調査庁とは似て非なる、別組織の飼い犬だったのよ。そしてA子は、B子に頼まれて、あたしの動向を内偵していたの。馬鹿みたいな話よ。騙しているつもりで、自分が騙されてたんだから。A子とB子は、あたしのことを拘束したの。歌舞伎町にある雑居ビルの一室よ。あたしは財布とスマホを取り上げられ、窓のない部屋に監禁されたわ。
でも幸運なことに、その部屋には天井近くに通風口が開いていたの。あたしはその穴に身体をすべり込ませて、ビルから脱出した。そしてあたしは、走りに走った。やがて息が切れて、あのスーパーの前でへたり込んだの。
その後、あんたたちが、お節介にもあたしに声をかけてきた。あたしは思ったわ。こいつらは使える。利用して目的地に連れて行かせれば、上の人間と連絡が取れる、ってね。
エミが話し終えた。心なしか得意げに口元が吊り上がっている。
航治はエミが話を終えたらしいことを確認してから、口を開いた。
「そう。そしてその目的地が都立中央図書館だったってわけ」
「そうよ。あそこの書架の一角には、公庁との連絡専用無線機が隠してあるのよ。でも連絡はとれなかった。誰かさんに邪魔されたお陰でね」
「へえ。でもそれってさ。全部嘘なんでしょ?」
「さあね。どうかしら」
エミはあさっての方向を見ている。
「ま、信じるか信じないかは、あなたの自由よ。でも、せっかく耳を傾けて聴いたんだから、そこに幾分かは真実が含まれているって考えた方が、自分にとって得だと思わない?」
「どうだろうね。だって公安の内部事情って秘密なんだろう? そんなにきわどい情報を僕なんかに話すっていうのは、あり得ないんじゃないの」
「それは相手があんたたちだからよ。引きこもりと路上生活者、それから、しがない配送ドライバーを相手に喋るのなんて、山奥の樹にとまっている昆虫に向かって秘密をささやくのと同じくらい安全なことよ」
突然、あっはっは、という笑い声が聞こえた。辻だった。
「言うね、君。いい喩えだよ。折口さんや航治君についてはどうかしらないけれど、僕に限っていえば、話してもまったく無害な人間だからね」
「あら、聞いてたんだ」
エミがたった今そこに辻の存在を確認したかのように言った。航治は苛立った口調で、
「笑い事じゃないですよ。嫌な気持ちにならないんですか? こんな酷い言われようをして」
「ああ、いや悪かったよ。つい可笑しくてね」
なおも笑いながら辻が言った。折口は何も言わず助手席で俯いていた。
「じゃあ、西里航治君。特別にね、あんたにいいアドバイスをしてあげる」
エミは膝の上にひじをついた。
「この話の骨子はね、スパイ同士がどうしたこうしたっていうことじゃないの。そんな設定はまったくもって些末な問題なのよ。少なくともあんたにとっては。学ぶべきことはこう。スパイという極端な関係でなくとも、そもそも人間関係というのは、徹頭徹尾腹の探り合いなの。なぜなら、他人どうしが本当の意味でその心理を理解しあうことは、小説か映画の中でもないかぎり、絶対不可能だからよ」
エミはゆるゆると首を振り、
「人は自分の寂しさや、その他欲求を埋めるため、勝手な思いこみに基づいて、他人から時間と感情を搾取する。そして搾取された方は、自分も相手から同様の搾取を行なう。その、搾取したりされたりする相互利用行為を、『友情』とか『愛情』って呼ぶの。あんたがあんたの『お友達』をどう思っているのかは知らない。でもね、『望むべき完璧な友人』や『完全に理解し合った関係』なんて、この世にあるかどうかはかなり疑わしい。そんなもの期待しない方がいいっていうことは、肝に銘じておいた方がいいと思うわね。これ本気の忠告よ?」
「知ってるよ。そんなこと」
航治は呟き、口を噤んだ。短い沈黙が訪れた。
「――そう」
エミが沈黙を破った。
「そうね。考えてみれば、あんた引きこもりだもんね」
「まあね」頷くと、航治はポケットからスマートフォンを取り出した。そしてメッセージをチェックした。
航治が望んでいる、「彼」からのメッセージは、依然としてなかった。その代わりにずらりと〈あいつ〉からのメールが並んでいた。
航治はメールを開封もせずにすべてスワイプして削除し、受信拒否設定にしてしまうと、スマホをポケットへと仕舞った。
「で、どんな奴よ」
エミの声がした。
「なんだって?」
航治は訊きかえした。エミは少し苛立ったように早口で、
「あんたのその特別かつ大切な人が、どんな奴で、どうして引きこもりのあんたが、そこまでしてそいつに世話を焼こうと思うようになったのかって、訊いてるのよ」
「知りたいのかい」
「知りたいから訊いてるんでしょ」
航治はエミを眺めつつ思う。なんだかんだ言って自分の身の上話をねだってくるこの少女は、もしかして好奇心が強い性格なのかもしれない。
そう思いつつ聞くと、我が道を行く、というような表情や、喧嘩を売っているような口調は、その好奇心を隠すためのポーズのように感じられて、少しばかり航治に優越感を抱かせた。
「なにニヤついてんのよ」
「いや、別に。なんでもない。気にするなよ」
そして航治は話しはじめた。
「僕は止められたんだ。自殺しようとしているところを」
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