第10話 飯田橋~水道橋

 航治が話をはじめようとしたときだった。

 突然、上の方から錆びた金属が擦り合わされるような、嫌な音が聞こえてきた。

 続いて辻の短い叫び声がし、同時にブレーキ音とともに車体が大きく横滑りした。

 間を置かず、近くで何か大きなものが落下し、潰れ、飛散するような音が轟き、車内に、エミの甲高い悲鳴が響きわたった。

 車が完全に止まったのを確認すると、動悸が治まるのを待って、航治は折口とともに外に降り立った。

 ビルの上から落下したのだろう。前方に一辺四~五メートルもある、消費者金融の大きな看板が転がっていた。その手前で、看板にぶつかったらしい乗用車と、それに乗っていたらしきドライバーが、呆然と立ち尽くしていた。

 どうやら、放っておけば前の車に追突しようとするところを、すんでのところで辻がハンドルを切り、避けたらしい。

 辻が降りてきて、車体をチェックしはじめた。クラッシュは免れたが、前方の車と、バンパーが接触してしまったようだった。

「困ったことになりましたね。すみません、折口さん。これは社に連絡して、警察を呼んでからじゃないと、動けそうにありません」

 警察どころか、テレビ局が来るレベルの事故なんじゃないか、と内心で航治が思っていると、折口が言った。

「仕方ない。もう飯田橋界隈まで来てるようだ。小石川までそんなに距離もないことだし、すまないが歩いてくれないか。兄ちゃん」

 つづいて、いつの間にか車から降りてきていたエミに、

「姉ちゃんもさ、そうしてくれないか?」

 エミはわざとらしく溜め息を吐きながら、

「何でこうなるかな。あんたたちに声をかけられたばっかりに」


 三人は出発した。航治はあの忌々しい湿った靴下を、精一杯きつく搾った後に、不快さをこらえて再び履き、破れたビニール合羽を羽織ってボタンをとめた。

 エミは折口が与えたレインコートを着た。彼女は最初のうち、路上生活者の所有物であるそのコートに露骨に嫌悪をあらわしていた。だが結局は、ばしゃばしゃと音をたて降ってくる雨の勢いには勝てなかったらしく、文句を言い顔をしかめながらも、コートを羽織って歩きはじめた。

 ほどなく、一行は水道橋に行き着いた。

 神田川両岸に設置されたスピーカーが、耳障りな女性の声で、繰り返し危険を通行者に告げていた。


 ――通行の皆様。現在すでに神田川は危険水位を越えております。橋および川に近寄るのは、なるべくお避けください。なお、周辺住民の方には、避難勧告が発令されております。指定避難所にすみやかに避難をはじめてください。繰り返します。通行の皆様――


 航治は警告を無視して、橋の上で立ち止まり、神田川を上から覗き込んだ。

 泥混じりの黒い奔流がどうどうと脈打つように、航治のすぐ足下を通っていた。

 水面は橋の下ぎりぎりをかすめるように過ぎ、時折波打ち、橋にぶつかっては、高々と飛沫しぶきをあげた。

 流れは走るよりも速く、じっと見つめていると、そのまま中に吸いこまれ、水の一滴となって、知らぬ間にくらい、この世ではない場所へと運び去られてしまうような気がした。

 航治は身を引きはがすようにして、欄干から離れた。見ると、エミも同様の思いを抱いたらしい。半ば呆然とした表情で、橋の中央に立ち尽くしていた。

 航治は折口の姿を探した。折口はぼんやりと突っ立ったまま、途方に暮れたような背中で東京ドームの方を眺めていた。これまでの飄々とした雰囲気とはまるで違う。何かを恐れているような様子だった。

 もしかして、折口も川を見たのだろうか。そして魅入られてしまったのだろうか。

「どうしたんですか」

 問いかけた航治に、折口は、授業中に意ならずも教師に指名されてしまった少年のように身を震わせた後、引きつった笑いを浮かべた。

「ああ、兄ちゃん、悪かったな。ついぼんやりとして」

 言うと、また先頭に立って歩きはじめた。


「で? 話の続きは?」

 神田川を過ぎてしばらく経った頃、エミが航治に話しかけてきた。

「話って?」

「車が止まる前に言いかけたでしょう? あんたの大切な人が、あんたを自殺から救ってくださったっていう、お涙頂戴の話よ」

「ああ、そうだったっけ」航治は歩道の水溜まりに無惨に倒れ、沈んだ、煙草の吸い殻入れをまたぎ越えると話しはじめた。

「今年の春、僕は自殺しようとしたんだ」

「何で」

「上手く言えないんだけれど。僕は、僕をやることに疲れちゃったんだ」

「何それ。ずいぶん恰好つけた言い方するじゃない。『僕は僕であることに疲れてしまった』まるで村上春樹の下手糞な真似みたい」

「あのさ、頼むから茶化さずに聞いてよ。僕だって、『彼』以外にこの話をするのは初めてだし、すごく勇気の要ることなんだから」

「ああ、そう、わかったわよ」

 エミはわざとらしく肩をすくめてみせた。航治はいくつかの文句の言葉を飲み込み、話を続けた。

「今はそうでもないけど、小さい頃の僕は、病弱だった。それこそ毎日のように高熱を出す。頬に体温計を軽く触れさせただけで、数値がみるみる上がっていく。それくらいの虚弱な子だったんだ。そのせいで親、特に母親がとんでもなく過保護になった。でもそれは無償じゃなかった。母親は、僕に世話を焼くと同時に、それに見合うだけの『結果』を要求したんだ。『これこれこの分だけお前に尽くしてやってるんだから、それを恩義に感じろ。そして後で必ず恩に見合うだけの結果を出せ』そんなふうに、まるで餌付けのようなやり方で。僕はその期待に応じるために一生懸命努力した」

 はっ、とエミは息を吐いた。

「何それ。逆らおうって気はなかったの?」

「そのときは思い浮かばなかった」

「まるで人形ね。あたしそういう奴、大嫌い」

「そうだね。僕も嫌いだ」

 エミは少しばかり眉を上げ、航治の眼を覗きこんだ。が、やがてまた視線を前に戻した。

「それで?」

「僕は人形みたいに、母親の望むようにあろうと、努力した。そうしないと、自分が親に捨てられてしまうんじゃないかって、本気で思ってたんだ。実際母は、僕を叱るときに、『捨ててやる』っていう脅し文句をよく使ってたしね。でも僕はいつまでも、母の望むような『優秀』な子じゃいられなかった。中学に入ってしばらくたった頃、僕は虐められっ子になった。理由はさっき言ったとおりさ。僕はもちろん、そのことを母親から隠そうとした。でも結局バレてしまった。そして母――『あいつ』は、僕にとって一番やって欲しくないことをした。学校に乗り込んできて、教師に向かって虐めっ子たちを糾弾したんだ」

「モンスター」エミが言った。

「そう。で、当然の成り行きで、僕はもっともっと酷く虐められるようになった。母は食卓で、毎晩のように虐めっ子たちと担任教師のことを口汚くののしった。でもそれ以上に激しく、僕の駄目さ加減を責め立てた。で、僕は引きこもるようになった。母親が、そして母親に言いなりの父親や、クラスメイトを含むみんなが、僕のことを駄目人間だって言っているように思えたから」

「何よそれ。あたしなら、そんな奴らに、こっちからNOを叩きつけてやるよ。『お前らなんて要らない』って」

「君ならそうするだろうね。でもそのときの僕には、そんな方法は思いつかなかったんだ。自殺しか逃げ道がないように思えた。で、僕は、首を吊ろうとした」

「でもできなかった。根性がなくて」

「そうだね。あのとき、本棚にくくりつけたネクタイの輪に首を通す前までの僕は、死ぬことがどんなものなのか、ぼんやりとしか想像できていなかった。せいぜいが、苦痛からのリセットとか、自分が死んだ後の周囲の態度の変化とか、そういうものだった」

「あんたらしいわ。どうせ、自分が死んだ後、周りが哀れんでくれるようになるんじゃないか、なんて期待してたんでしょ」

「そこまではいかないけれど、確かに僕は、自分のいなくなった後の他人の行動とか、それをどこからか眺めている自分のことを、何となくイメージしてた。でも輪に首を通したとき、突然、僕は思ったんだ。この向こうに、ほんとうに、全く何もなかったらどうしようって。母も父も、クラスメイトたちも誰もいない。一切の何もない。闇さえない。『何もない』っていう言葉さえない。もちろん『死んでいる自分を観察している自分』なんていうのもない。幽霊も、魂も、ともかくどんなものも、そこにはない。死ぬことが、続きのある『リセット』なんかじゃなくて、『完全な無・消滅』だったとしたら」

 航治は口を噤んだ。エミは珍しく何も言わず、話のつづきを待っているようだった。

「そのときはじめて、僕は本気で、死ぬことを怖いって感じたんだ。でも僕は台の上に立ったまま、降りることができなかった。死ぬのは怖かった。だけど生きのびる理由も見つけられなかったから。やっとのことで台から降りたとき、死のうとする前よりももっと、僕は自分のことが嫌になってた。そのとき、僕がたった一通だけ書いて送った、遺書みたいなメッセージに、『彼』が返信をくれているのを見つけたんだ。メッセージで彼は、『絶対に間に合って欲しい』っていう前置きをして、こう僕に語ってくれてた。『死ぬな。世界中の奴が君に向かって要らないって言っても、蛆虫だって言っても、死ね死ね死ねって百万べん繰り返しても、この僕のために、生き続けるんだ。僕のたった一人の話し相手の君に、死ぬことは絶対に許さない。そんなに死にたければ、僕が殺してやる。それ以外に絶対に君に死ぬことは許さない。勝手に死んだら、未来永劫君のことを軽蔑し続けてやる。もちろん哀れんだりなんて絶対しない。心の底から呪ってやる』って」

 航治は上を向いた。街灯が大きな軋み音をあげつつ、前後左右に頭を振っていた。

「それは君の言うとおり、ただの『互いに感情を搾取したりされたりするだけのやりとり』だったのかもしれない。でも僕は、彼のおかげで、自分が生き続ける理由を得ることができたんだ。だから今度は僕が彼を――あの頃と違って、今は弱ってしまった彼のことを、助けたいんだ」

「馬鹿らしくって笑っちゃいそうね」

 吐き捨てるようにエミが言った。

「自分がこの世に存在するのは、自明の現実よ。それを他人に肯定されてやっとこさ、意義をみつけるなんて、あたしには絶対理解できないし、したくもない。あたしは誰に求められなくても、のうのうとゴキブリみたいに生きてやる」

「ねえ、君さ」

「何よ」

「どんな事情があるのか知らないけれどさ、君も相当屈折してるんじゃない」

 エミは立ち止まり、きっと航治を睨み付けた。航治も佇み、エミを見返す。

 怒りに満ちた彼女の顔を、無数の雨の滴が伝っていた。ずいぶん大きな瞳をしているんだな。航治はそんなことを思った。

 エミとともに再び歩き出しつつ、航治は言った。

「じゃあ、今度は君の番だよ」

「何。どういう意味?」

「決まってるだろ。君が、君の本当の身の上について、話す番だっていう意味だよ。今までほとんど、僕ばっかりずっと話させられてるじゃないか。実際もう、僕が君に喋った量は、この三年間に他人相手に喋った量を、とっくの昔にオーバーしてるんだ。少しは君も話してくれよ」

 エミはしばらく黙った後、小さく呟いた。

「そんなの、もうとっくに言ってあるよ」

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