第17話 繭ふたたび

 夕暮れが日曜の部屋を染めていた。

 航治はリビングの入口に立って、変わりゆく部屋の色合いを眺めていた。

 傾いた太陽が放つ光は、壁を、家具を、そこに立てかけられた、先週幼稚園で描いた一家の絵を、そしてソファにもたれ、眠る母の顔を照らし出していた。

 色は黄色から、ゆっくりと橙へ変わっていく。

 母は深く眠っていた。起きる気配はない。多分、目覚めるのは日が暮れきって、部屋が濃い紫に染まってからだろう。


 塀の外を、子供たちが嬌声をあげつつ、通り過ぎていった。

 ふいに航治の心の中に、痛みが生まれた。


 航治はゆっくりと階段を登り、子供部屋へ向かう。

 段を登る間にも、痛みは増していく。

 それをこらえ、脚を上に運ぶうち、身体にもう一つの不快感があらわれはじめた。

「しびれ」だった。

 末端から血の気が退いていくような、嫌な感覚とともに、四肢が震え始める。

 初めて感じたその不気味な感覚に、航治は恐慌状態に陥りかける。

 一歩。また一歩と足を運び、やっとの思いで航治は部屋へとたどり着く。

 ベッドの上には掛け布団が、朝、航治が中から抜け出たときそのままの状態で置かれていた。

 首の辺りがこんもりと盛り上がり、中に洞穴のような空洞を残したその形に、ふと、以前庭で見た、蝉の抜け殻を思い浮かべる。

 航治は誘い込まれるように、身をすべり込ませた。


 空洞の中は、温かかった。

「まゆ」という言葉が思い浮かぶ。確かカイコの幼虫がつくる、身をくるむ殻だ。彼らはその殻にこもることによって、外界の脅威から身を護るのだ。

 そのイメージは、航治の心に大きな安堵をもたらした。

 眼を閉じる。空想の中で、自分の身体の周囲に、糸を一本、また一本と巻きつけていく。

 瞬く間に自分を包んでいく「まゆ」の中で、航治は、痛みをはじめとする、先ほどまで感じていた種々の不快感が、心と身体から急速に消失していくのを感じていた。


「何をしているの?」


 どこからか声がした。航治は繭の中を見る。だが誰もいない。声は繭の外から聞こえてきているようだった。航治は答える。

「まゆを作っているんだ」

「繭?」

「そう。繭」

「そこにいると、楽なの?」

「うん」航治は頷く。「これのおかげで僕は、嫌なことや辛いことから、自分自身を護れるんだ」

「ふうん」

 そう言って、しばらくの間、声は黙った。航治はその沈黙に、不安を覚えた。

「あのさ、いいこと教えようか」

 再び声が言った。

かいこはね、完全に人間によって家畜化された昆虫なの。脚が退化してるから、葉に貼り付くことも、移動することもままならない。繭だって、人がつくった枠に入れてやらないと、つくれない。成虫になっても、翅が退化していて、翔ぶことすらできない。野性で生きていくことは決してできない、不完全な生物なのよ」

 声はそこでしばらく間をおくと、強い口調で言った。

「航治。あんたはそんなものになりたいの?」

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