第16話 荒川
航治は荒川の土手に立っていた。
眼下を、幅五〇〇メートルにおよぶ長大な泥の帯が
日没を目前にした暗がりの中、手当たりしだいにあらゆる色の土砂をとかし込んだような、汚らしい色の濁流は、暴風によって波立ち、豪雨によって飛沫をあげながら、野球場や緑地などの河川敷の施設を根こそぎ呑み下し、怒声とも咆哮ともつかぬ轟々という唸りをあげながら、土手の頂き近くを畏ろしい速さで流れていた。
航治の足は震えていた。
今朝、部屋のパソコンのディスプレイで視たものなど、問題にならない猛々しさだ。今の荒川は、航治にとって、全く未知の、畏怖を起こさせる存在にほかならなかった。
いや、航治にとってだけではない。おそらく、河岸に住まうほとんどの人々にとっても、今のこの荒川の姿は、想像すらしたことのないものだったろう。
左右を広々とした緑の河川敷にはさまれ、その間をゆったりと流れる穏やかな川――それが、過去を忘れた現代の人々の思い浮かべる、「荒川」だったはずだ。
しかしそんな親しげな姿は、今のこの濁流には微塵もなかった。そこにあるのは、「荒川」という名が示す本来の意味、目の前にあるものをことごとく呑み込んでいく、「荒ぶる川」としての姿だった。
航治の立つ場所から川下に、京成電鉄押上線、八広(旧・荒川)駅へと渡された鉄橋があった。
川は鉄橋のすぐ下を、隅田川と同様に、流木や材木などの大小さまざまな塵芥を浮かべながら、寸刻も速度をゆるめることなく、どうどうと流れ続けていた。
「危ない」
吹きすさぶ雨風に顔を打たれながら、誰にともなく航治は呟いた。
もしも大きな浮遊物が一つでも鉄橋に掛かることがあれば、それをきっかけとして、後からきた塵芥が続々と橋につかまっていってしまう。障害物によって堰き止められた水流は、膨れあがるように高さを増し、手近な出口、橋の両端から溢水(いっすい)をはじめることだろう。
あふれた水は瞬く間に土手の土を削り取り、最終的には巨大な決壊を惹き起こす。
ぶるり、と身体が震えた。今にも足下の土が崩れ去り、大量の汚泥の中に呑み込まれていってしまうイメージが頭をよぎった。
「航治」
エミの声に、我にかえった。振り向くと、土手から下の道路へ降りる階段の頂きに、手すりにつかまり、彼女が立っていた。
「折口がさ、用意できたって」
「ああ、うん」
航治が返事をすると、エミは背を向け、階段を降りていった。航治も川から離れ、階段に向かって歩きはじめた。
まるで細い梁の上を歩くかのように、一歩一歩、慎重に歩を進め、土手を離れた。階段にたどり着くと、手すりを握りしめながら、やっとの思いで、川面よりずっと低い海抜ゼロメートルの地面に降り立った。
航治は息を吐き、地の揺るぎなさを両の脚で感じようとした。
だがそれはかなわなかった。すでに
「ねえ。これってさ、川のどこかから溢れた水が溜まってんの?」
エミの質問に、航治は首をふって答えた。
「違うよ。下水で処理しきれない水が、地表に出てきているんだ。
エミは肩をすぼめ、もううんざりだというように頭を左右に振ってみせた。髪についた大量の滴が周囲に散った。
二人は身体を打つ豪雨の下、近くの街灯の元へと歩いた。日は完全に暮れ、灯は白い光を放っていた。街灯の下にはジープが停められ、その傍に折口が立っていた。ジープの車体は間断なく叩きつける雨の飛沫によって、本来のオリーブグリーンではなく、緑がかった白に見えていた。
折口は二人を迎えると、「来たか」と言って、説明をはじめた。
「今見てきてわかっただろうが、状況は相当押している。目的の『彼』をなるべく早く探し出す。だがその前に、自分たちまで遭難をしちまわないように、準備をしていかなきゃならない。わかるな?」
「はい」
航治は頷いた。
「まず組み分けだ。全員一緒に行くのが一番安全なんだが、急いでいる以上、そうもいかない。ここは俺一人の組と、兄ちゃんと姉ちゃんとの二人の組と、二手に分かれて行くことにする。いいな?」
「わかりました」
「いいわよ。本当は
「OK。姉ちゃん。その台詞が本音かどうかはともかく、納得してくれてありがとうよ」
折口は笑んでみせた。
「次に道具だ。これを身につけて持っていってくれ」
折口はあらかじめ袋から出しておいたらしい物を、航治たちに渡していった。ライトつきヘルメット。ゴーグル、ロープ、ホイッスル、そしてステッキ。
「ヘルメットとゴーグルについては、言わないでもわかるだろ。あとホイッスルは絶対に身につけろ。ステッキもだ。もう日も暮れたし、それにいつ停電になってもおかしくない。いきなり足を深みにとらわれないよう、歩くときは絶対に、前をつつきながら進むんだ。もし『彼』を見つけたら、マンションみたいな鉄筋造りの建物の三階以上に速やかに避難しろ。それ以下の高さだと沈んでしまうし、木造家屋なら全壊か、家ごと流される」
「ねえ、そんなに早く決壊するかもしれないの?」
「わからない」
折口は首を振った。
「もうすぐかもしれないし、しばらく先かもしれない。もし決壊が起きても、反対側の左岸かもしれない。いや、決壊自体起きないかもしれない。もちろん俺は起きないのを願ってる。ともかくどっちみち、やるしかない。そうだな? 兄ちゃん」
「はい」
航治は頷いた。折口も頷き、
「よし、じゃあ俺は八広駅の北側を探す。二人は南側をあたってくれ。探すときはいつでも避難用の建物を見つけ、視界に入れておくようにするんだ。水位が急に上がりはじめてから焦って逃げ場所を探しても、まにあわないからな。それから確認だが、『彼』は本当に川のすぐ側に住んでいるんだな?」
「はい。ぶらぶら歩いても土手まで三分とかからないって、言っていました」
「よし、じゃあ捜索時間は、帰ってくる時間も含めて、四十分もあれば足りるだろう。今から駅に一番近い一ブロックを四十分あたっても『彼』をみつけられなかったら、ここにまた戻ってくること。そうしたら、別の鉄橋に移動しよう」
「無事にそいつを見つけられた場合は、どうするの?」
「そのときは戻ってこなくていい。高所に避難させて、事が過ぎて安全になるまで、そのまま『彼』と一緒にいろ。俺の方が『彼』をみつけた場合も、同じようにする。あんたたちが戻ってきたとき、ここに俺の姿がなかったら、無事『彼』を見つけて、避難していると思え。そしてあんたたちだけで避難しろ」
「わかりました」
「よし、じゃあ今から四十分だから、七時ちょうどまでだ。二人とも気をつけてな。絶対に無理をするなよ」
小枝、木の葉、ポスター、トタン、アンテナの残骸、傘の衣、ペットボトル、看板、レジ袋。自然物、人工物の入り混じった雑多な物体たちが、凶悪な大気の唸り声とともに、街の通りを、我が物顔で
襤褸たちは、豪雨に叩かれては落ち、樹木にかかり、再びやってきた風に乗ってはまた宙に舞い上がりと、同じ行為を延々と繰り返していた。
電線は震え、女の悲鳴のような音を立て、上空の大気は、ぶつかり合って遠鳴りのような音を大地に響かせた。風はそれでも飽きたらず、街灯を軋ませ、家々を歪ませ、物置小屋に破壊的な震動を起こさせては、道をよろめきながら歩く航治の心に、恐怖を与えつづけた。
雨はもはや、全方向から降りかかっていた。航治は折口に感謝した。渡されたゴーグルがなければ、一瞬たりとも目を開けていることなどできなかったろう。顔は叩きつける雨によって痛み、口の中は、海水をたっぷり吸い上げた雨水の浸入によって、粘膜がひりつくほどに塩辛かった。
街には古く、背の低い木造家屋が多く建っていた。航治は探り棒を使って前に進みながら、家屋の入口を見、路地を覗き込み、「彼」がメールに書いていたような「出入口共同の古い木造アパート」らしきものがないか、ブロックをくまなく探して歩いた。もちろん折口の言った「いざというときに逃げ込める、背の高いマンション」を探し、視野に留めておくことも忘れなかった。
通りに人の姿はなく、建ち並ぶ木造家屋にも、灯りはほとんどともっていなかった。もうすでに粗方の人が避難を終えてしまったのだろう。
当然だろうな、と航治は思う。今この状態で、避難所にも行かず、家に留まりつづけるのは、あまりに危険な行為だ。
突然、ひときわ強い暴風が襲った。
うわ、と叫びをあげ、エミが思いきり尻餅をついた。
「畜っ生」
そう言って、倒れたまま毒づくエミに、航治はゆっくりと手を差しのべた。
エミは一瞬驚いたような表情をみせたが、すぐに航治を睨みつけ言った。
「何よ、それ」
「つかまりなよ」
エミは少しの間、ためらってみせたが、結局、頬を膨らませながらも、航治の手につかまって身体を起こした。
「あの、さ、提案があるんだけど」
「何よ――って、そんなことより、あんた、早くあたしの手を離してよ!」
振りほどこうとするエミの手を握りしめつつ、航治は必死で言った。
「あのさ、これから先もさ、転ぶ危険がたくさんある。風も強いし、足下もおぼつかない。だから、二人して手をつないで行くことにしない?」
たちまち、ゴーグルの向こうで、大きなエミの瞳が、さらに大きく見開かれた。
「何言ってんのよ、このスケベ!」
無茶苦茶腕を振り回し、手を振りほどこうとするエミに、航治は言った。
「別に変な気持ちで言ってるんじゃないよ! 本当に危険だからと思って」
エミは振り回していた腕を宙で止めると、航治の目を覗き込み言った。
「本当に?」
「当たり前じゃないか。こんなときに嘘をついてどうするんだよ」
「わかったわよ」
しばしの沈黙の後、航治を睨みながら言うと、エミは手を下におろした。そして航治の腕を引っ張るようにして、自分から先に歩きはじめた。
それから少し歩いたところで、航治たちは、探していたものに近い、古びた木造アパートを見つけた。
電気は消えていた。二人して真っ暗な中に入っていくと、低い上がり框の上の廊下は、もうすでに浅く水が浸水していた。
「あたし、上を見てくる」
言うと、エミは航治の手をふりほどき、ごみの浮かんだ水を蹴散らしながら一階奥へ行き、そこから階段を上って二階へ向かった。
間もなく、どんどんと力任せに木製のドアを叩きまくる音が聞こえてきた。
「ほら!いるなら起きなさいよ!『なんとかディレクション』さん!あんたの友達が心配して、わざわざここまでやってきてるよ!」
起きろ起きろとドアを叩いて、エミはわめいた。航治も、一階に並んだドアを叩きはじめた。
「僕だよ!『いつか晴れる』の航治だよ!そこに眠っているのなら、目を覚まして!」
折口との約束の四十分近くが経過したのに気づいたのは、ちょうど三軒目のアパート、おそらくブロックの中で最後の一軒を見回り終えた後のことだった。
航治の心には失望が満ちていた。
いくつもある候補、鉄橋の中から、とりあえず選んでやってきた場所だ。過度の期待を持たないよう、あらかじめ心に命じてはいた。だがそれでも、「彼」を見つけることができなかった落胆は大きかった。すでに内水氾濫が起こり、荒川の水位もあれほどまでに高くなっている今、これから、そういくつもあちこちの鉄橋の周りを見てまわることはできないだろうことが、容易に想像できたからだ。
一体、ほんとうに自分は、「彼」のことを見つけることができるのだろうか。
それとも、やはり無理なことなのだろうか。
――おそらく、無理なのだろう――
その考えは、土手の一角を砕いた小さな水流が、瞬く間に堤を根こそぎ決壊させる奔流に変わるように、たちまち航治の心に巣くい、浸蝕していった。
そうだ。これは最初から不可能な計画だったのだ。
〈あいつ〉、母親が言うように、能なしの自分には。
答えはあらかじめ、用意されていた。自分はそれを見ないようにしていただけだったのだ。
ふと、風の唸りが、自分に向けた嘲笑の音に聞こえた。
航治は思う。もし、もしも、何も果たせずに家に帰ったら、〈あいつ〉は嗤うだろうか。
多分、嗤うだろう。
でもそれがどうだっていうんだ。勝手に嘲笑えばいいじゃないか。今までと変わらない。自分はいつもどおり、部屋に逃げ込むだけだ。
それだけのことだ。
「航治」
エミの声に、航治は振り向いた。彼女はいつになく、気遣わしげな表情を浮かべていた。
「折口のところに戻らなきゃ」
「そう、だね」力なく言って頷き、エミの手を握ってアパートの玄関を出、道路へと足を踏み出したときだった。
足下から、重たい金属どうしが擦り合わされるような低い音が聞こえたかと思うと、次の瞬間、どうん、という地鳴りのような爆発音が響きわたった。
足をすくわれて倒れながら、航治はエミの悲鳴を聞いていた。
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