第15話 検問

 折口が車を停止させると、待っていたように警官がジープの方へと近づいてきた。いよいよ猛々しさを増す風に抗してか、身を低くかがめ、探るような足どりで歩を進めている。

「何をしようとしているのかな」

 航治の呟きに、折口が答えた。

「多分、交通規制だろう。川の水位が危険域に達しちまってる。それに橋の上は、遮るものがなくて、風の力をもろに受けるからな」

 航治は改めて川を見た。上流で土石流があったせいだろうか。多くの流木にまじって、椅子や戸棚にはじまる家具や家電製品。鍋などのキッチン用品。その他、人の生活をイメージさせるような様々なごみが浮きつ沈みつして、泥褐色の水に流されていくのが見えた。

 橋のほうに目を向けると、ほとんど真南から弾幕のように雨が吹き付けていて、橋の中央部が、ゆっくりとたわむように左右に揺れているのがわかった。

「しかし、これはちとまずいな」折口が言った。

「やっぱり危険なんですか? 橋を渡るのは」

「いや。今俺、免許を持っていないんだ」


「気に入らないわね」エミが言った。

「何が?」航治が訊ねた。

「あんた、わかんないの? あの男、口元だけで笑ってて、目は全然笑ってないでしょ。あれは表面だけ愛想よくって、いざとなると全然融通がきかなくなる奴の典型ね」

 航治は改めて、近づいてくる警官の顔を見た。なるほど、エミの言うように男は角張った顔の下半分にだけ不自然に笑みを浮かべている。確かにあまり親近感を持てるような顔つきではない。

 男はジープの横まで来ると、窓を開けさせ、車内に向け大声で喋りはじめた。

「お急ぎのところすみません。今、この橋は」

 そこまで言ったところで、男は口を噤んだ。航治は再び警官の顔を見た。頭に被ったフードの奥で、男の表情は一変していた。

 ついさっきまで顔の下半分にあった笑みはきれいさっぱり剥ぎ取られ、代わりに今は、すぼまった鼻腔と、強く横に引き結ばれた唇がそこに陣取っていた。

 今や航治も、警官がその心に抱いているものを、エミの講釈を聞かずとも読みとることができた。

 懐疑だ。

 無理もない。運転席に座る、明らかに路上生活者然とした、青黒く頬を腫らした穢い男と、隣に座った、年の頃中学生と思われるレインスーツ姿の少年。そしてその後ろに座る、同じく中学生らしき少女。何かいわくがあるのではないかと思われても仕方のない組み合わせだ。

 絶体絶命、という言葉が航治の頭に浮かぶ。何しろ折口は免許不携帯。振り返って見るとエミも、眉間に皺をつくって、折口と警官とを見比べていた。

「どうした? お巡りさん。話の続きを聞かせてくれないか」

 のんびりとした口調で折口が言った。

 男は、猛禽類のように鋭くなった視線を動かし、折口を睨めつけると、さっきまでとは著しく異なる切り口上で語りはじめた。

「現在、隅田川にかかる橋には全て、交通規制がしかれている。緊急の用件を持つ車輌以外、侵入は許されない」

「ほう」

 折口が感嘆するような声をあげた。

「さすが役所だな。手回しがいい。確かにこの状況で橋を渡るのは、危険極まりない行為だからな。いや、感服したよ。だが、その制限、うちらには関係がないみたいだな」

「緊急の用事があるんです」

 航治はすがるように言った。

「荒川近くに、病気の友達がいるんですけれども、避難勧告に従っていないらしいんです。だからこれから、一刻も早く助けにいかないといけなくて」

「まあ、そういうわけだ」

 折口が引き継いだ。

「なにしろ急がなきゃならん。じゃあ、そういうことで、行かせてもらうよ」

 そう言って折口がキーに手を伸ばそうとしたときだった。警官が折口の腕をがっきと掴んだ。

「緊急車両というのは、消防や自治体の車だけだ。あんたらみたいな私的用件しか持たない民間人を、通すわけにはいかない」

「私的、ねえ」

 腕を掴まれたのに動じた様子もなく、折口が言った。

「用事なんてそもそもみんな私的なものじゃないかね。救急車だって消防車だって、結局は個人か、あるいは個人の集まりである住民の要請を受けてかけつけるわけだろう? そう思えば、俺たちにだって、充分に橋を渡る権利があるようには思えないか」

「友達の命がかかっているんです」

 航治は拝んでみせた。

「電話で救急車を呼びなさい。それに来てもらって、助けてもらえばいい」

 およそ感情というものを感じさせない声で警官が言った。

「この馬鹿。それができないから、こうやってくそ激しい雨の中、あたしたちやって来てんじゃん」

「何か言ったかい」

 警官がエミを見た。エミが昂然と視線を投げ返す。

 警官は折口に目を戻すと言った。

「免許証を提示しなさい」

 もうとっくに前から、航治の身体にはしびれと、それからくる震えが起こっていた。もう駄目かもしれない。そう思う航治の横で、折口がゆっくりと喋りはじめた。

「おや? それはおかしいな。お巡りさん。俺たちは今まで、橋を渡ることについて、話していたんじゃなかったのか?なのにどうしていきなり、免許証の提示なんて話になるんだ。文脈が違うと思わないかい」

「免許証を見せなさい」

 折口の言葉を無視し、男がまた言った。

「それでもあんた、見せられない理由でもあるの?」

「いいや。だがこの場合、交通規制とは関係ないと思うが」

「ここからは職務質問だ。いいから、免許証を見せなさい」

「俺の記憶では、職質は任意であって、断ることが可能なはずだが」

「見せるんだ。そうしないとあんた、もっと面倒なことに」

 警官が言いかけたときだった。突如として暴風が襲った。

 ジープは左右に激しく揺さぶられ、航治とエミは思わず悲鳴をあげ、シートにしがみついた。

 ふと気づくと、警官の姿が消えていた。

 航治は周囲を見廻してようやく、だらしなく道に突っ伏している男を発見した。

 突然、笑い声が聞こえてきた。エミが大口を開け、けたたましく笑っていた。

「何がおかしい!」

 男は憤然と起きあがると、瞳に怒りをたぎらせながら言った。

「だって、笑うでしょ。普通」

 なおもくつくつと笑いながら、エミが言った。

「棚から落ちたぬいぐるみみたいに、みっともなく転がっちゃって。ただの狐のくせに、虎のつもりでいきがってるから、そういうことになるのよ」

「あんたら、一体何のつもりだ」

 凄味をきかせた声で警官が言った。

「散々おちょくって。その気になれば、公務執行妨害で引っ張ることだってできるんだぞ。さあ早く免許証を出せ。出すんだ!」

 警官が自制心を失っていく過程を、航治は悪夢でもみるかのように眺めていた。

 折口は何を考えているのだろう。免許不携帯がばれれば、彼をはじめ、もちろんのこと航治たち全員が、ここで車を降ろされる。そうなったらこの暴風雨の中、歩いて荒川まで行かねばならない。いや、その前に航治もエミともども、「保護」をされてしまうかもしれないのだ。

 だが隣に座る折口からは、怯えや苛立ちの気配は漂ってこなかった。さっき息子相手にびくびくしていた様子からはまるで想像できない腹のくくりっぷりだ。

 彼は警官に向かって肩をすくめてみせると、免許を探してみせるように、ゆっくりと懐をまさぐりはじめた。

 一方警官は、すでに勝ち誇ったような笑みを口の端に浮かべていた。折口のなりと、最前の反抗的態度からして、免許不携帯を確信しているのかもしれない。

 震えが止まらなかった。航治は警官に気づかれないように、両膝に手を伸ばし、必死で力を込めて抑え込んだ。

 落ち着け。折口のことだ。何かきっと策を用意している。でなければ、こんなにも余裕を持っているはずはない。

「まだか」

 警官が折口を促した。折口は、

「ああ、もうすぐ見つけるから、待っていてくれ」

 と、今まで通りの飄々とした声で答える。

「それはそうと、お巡りさん。風下にあるあの会社のビルの窓、ずいぶんと震えているじゃないか」

「何?」

「ほら、あれ。南向きの窓がずらっと並んでいる、大きなビルだよ。窓の前を社員さんたちが歩いたり、立ち止まって外なんか眺めたりしている」

 航治も首をのばし、折口の言った方角を見た。橋のたもとのすぐ側に、中規模の工場と、それに付随する社屋らしき五階建てのビルが建っていた。折口の言うように、たくさんの窓が、真南に向けて張られている。窓は、どういうわけか一枚一枚魚の鱗のように、ちかちかと光っていた。

 航治ははっと気づく。風だ。強風によって建物全体が歪み、はめられた窓ガラス一枚一枚を、たわませ、光らせているのだ。

 折口は「いけねぇ、やっぱり免許、バッグのほうにしまったかな」などと言いつつ、後部座席から袋を取り出し、今度はその中をまさぐりはじめた。

「しかしさ、ありゃかなり危ないな。働いている奴らは、まるで自分たちは平気だと信じているみたいだけれど、もしガラスが割れると、大変なことになるぞ。あんたら、注意しに行かなくていいのかい?」

「あんたはそんなことを気にしなくていいんだ。さっさと免許を出せ」

 折口はわかったわかった、と言いながらなおも袋の中をまさぐりつつ言った。

「あのさ、お巡りさんさ」

「何だ」

「俺は、今はこんなだが、昔は役所に勤めてたんだ」

「何が言いたい」

 怪訝そうな表情で男が言った。折口は言葉を続けた。

「その頃にもな、いたんだよ。あんたみたいな石頭が。昔の役人然とした傲慢さばっかりやたらあってな。自分の持ち場の仕事以外は、まるで他人事。窓口に切羽つまった人がやって来たとしても、『私の仕事とは関係ありません』てな態度の一点張りだ」

「おい、あんた」

 警官が赤みを増した眼で睨みつけた。

「何を喋っている」

 折口はまっすぐに男の眼をみつめ、

「悪いことは言わん。今すぐあのビルに行ってさ、『仕事なんか放っぽらかして、窓のない部屋に避難しろ! 何があっても絶対に、南向きの窓は開けるな! 開けると急激に室内の気圧が上がって大変なことになるぞ』って注意するといい。そうするだけで、怪我人が出る可能性をぐっと減らすことができる」

「俺を舐めているのか?」

 男が怒鳴った。

「免許なんて最初から持っていないんだろう。だからこうやって、グダグダと時間のばしをしているんじゃないのか!」

 そのときだった。窓の前に立ち、外の様子をうかがっていた一人の男性社員が、これから窓を開こうとするように、窓枠に手をかけるのが見えた。

「危ない! 窓を開けちゃ!」

 出せる限りの大声で、航治は叫んでいた。

 だがもちろんその声は届かない。男が窓を半ばほど開けたと同時に、ぱぁん、という甲高い爆発音を発し、ビルの全てのガラスが、外に向けて粉々に吹き飛んだ。

「どうした!」

 突然の大音響と悲鳴に、警官も振り返った。

 折口はその背中に向かって、

「じゃあ、俺たちは行かせてもらうよ」

 と呟くと、車のキーを回し、エンジンを始動させるとともに、アクセルを深く踏み込んだ。

「おい待て!」

 叫ぶ警官に目もくれず、折口は橋に向かってジープを突進させた。

 どう、と吹き付ける風によって大きく傾き、車線を逸脱しつつも、ジープは隅田川を渡りきった。そして、呆気にとられ立ち尽くしている対岸の警官の横を通り過ぎると、そのまま道を曲って街へと逃げ込んだ。

 航治はジープに揺られながら、橋を渡っているときに見た、眼下の光景に心とらわれていた。

 濁流は地底に閉じ込められた獣の唸りのような音をたてながら、猛烈な速さで橋のすぐ真下を流れていた。一瞬見ただけで、吸い込まれてしまうような恐怖を感じた。

 まさに危険水位だった。ほんのわずかな「一突き」があるだけで、薄いコンクリート壁でつくられた隅田川の堤防は破れ、巨大な泥水の塊が、新たな支流となって流れ出していくだろう。

 しかも、これでもこの川の水量は、荒川に比べて、圧倒的に少ないのだ。

 ジープは、隅田区の街並みの中を、荒川に向かって走った。

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