第14話 小石川~隅田川

 折口がキーを回すと、身体を震わすような唸りをあげ、ジープのエンジンが回転をはじめた。

「迫力がありますね」助手席から航治は言った。

「まあ、アメ車だからな。でもこれでも改良されて、随分静かになったんだぞ? 以前のジープなんて、ちょっと長くふかすと、すぐに隣から苦情がきたんだからな」

 折口に航治、そしてエミの三人を乗せたジープは、ゆっくりとガレージを出て走りはじめた。

 家を出るときに振り返って、航治は後ろを見た。そこにはガレージの出口にさっそく土嚢を積み上げようとしている折口の息子の姿があった。

 走り出してすぐ、航治は車のエンジンの響きを忘れた。天井に張られた幌(ほろ)を打ちつける雨の騒音が、すべてをかき消してしまったからだ。

 路地から大通りの入口まで進んだところで、折口が車を止め、足下から青・緑・黄色で塗り分けられた地図を取り出し、広げた。文京区のハザードマップだった。

 雨音に対抗し、折口が大声で言った。

「兄ちゃん、相談だ。本当ならこの春日通りを南に行くのが一番近道なんだが、そうすると途中で区役所の辺りを通らなきゃならねぇ。だが、あのあたりは今もう多分、冠水しているはずだ。この先の道程のためにも、車に冠水地域をくぐらせるのは、なるべく避けておきたい。わかるな? 俺としては春日通りを北上して、不忍通りを大きく回り、いったん日暮里に抜けてからまた台東に戻って、隅田川に向かいたいんだが」

「いいです!」

 航治も大声で返した。

「折口さんの考える通りに行ってください」


 雨音は壮絶だった。航治はカーラジオの気象情報を聞きとるため、ボリュームを一杯にまで上げなければならなかった。

「――繰り返します。以下の区で避難指示が発令されています。墨田区、江東区、江戸川区、荒川区、台東区、文京区――。住民の皆さんは、河川の増水や暴風に注意しながら、各地域指定の避難所に、すみやかに避難をしてください――」

 ともすれば風に流されそうになる車体に気を遣いながら、折口がジープを徐行で走らせているのが、航治にもわかった。どうやら川にたどり着くには、まだ時間がかかりそうだ。航治は深く息を吸って吐き、気を抜けば全身を支配しようとする、あの忌々しいしびれをなんとか抑え込んだ。

 滝のように雨水が流れるジープの窓ガラス越しに外を眺めていると、荷物を抱え、三々五々歩道を歩いていく人々の姿が目に入ってきた。おそらく避難所に向かう途中なのだろう。多くが家族連れのようだった。

 特に航治の目をひいたのは、巨大なリュックを背負い、前には乳児を抱きかかえ、さらに右手で小学校低学年くらいの男の子の手を引き、危なっかしい足どりで歩いていく中年女性の姿だった。

 車が女性を追い越していってから少し経った頃、エミが後ろから小さな声で言った。

「あの、折口、さ」

 折口が少し驚いたような声で答えた。

「ん? どうしたんだ姉ちゃん。改まって」

「ああ、うん」

 航治は後ろを向いてエミを見た。彼女は少しの間、口ごもっている様子だったが、やがて意を決したような表情になり、言った。

「あのさ、あんたの母親が死んだときの台風って、どんなものだったの?」

「駄目だよ、そんなこと訊いちゃ」航治は慌てて言った。

「ああ、いいんだよ、兄ちゃん。気にするな」

 折口は笑んでみせると、大きな、低い声で話しはじめた。


 昭和二十二年――一九四七年の九月十一日、マリアナ諸島西方五〇〇キロに、その年十一番目の台風の発生が確認された。GHQの連合気象隊は、十一番目のアルファベット、Kの頭文字をとって、これにKathleen(カスリーン)と名付けた。

 この中心気圧九九四ミリバールの台風――カスリーンは誕生後、成長をしながら北上を続け、九月十三日には、硫黄島の西方に達した。

 また、それに歩調を合わせるように、本州南海上にあった温暖前線も、活発化しながら、日本列島に近づきはじめた。これにともない、東北や関東で、暴風雨がはじまった。

 十五日の午前六時には、カスリーンは浜松の南方一七〇キロメートルの遠州灘沖合に迫り、同日午後九時には房総半島南端の館山を通過。十六日の午前三時には、銚子東方一〇〇キロメートルの海上を通り、三陸沖から北海道南東海上へと去っていった。

 秩父での三日間総雨量は六一〇ミリ。秩父連山から北関東山岳部など、他の地域にも豪雨をもたらした。

 と、まあデータだけをとってみればこんな感じのできごとだ。だが当然、被害の実態はこんな乾燥無味なもんじゃない。うんざりするくらい生臭い話だ。

 折口は言葉を句切ると、ポケットからちびた煙草を取り出して口の端にくわえ、火をつけずに喋りはじめた。

「その年、関東では春から夏にかけて、干魃(かんばつ)が続いていた。八月中旬の埼玉では、雨乞いの儀式までやったほどだ。その頃、俺たち家族は埼玉県東村という、利根川の目と鼻の先のあたりの村に住んでいた。家業は農家。家族含め、近所の人間誰もが、慈雨を望みこそすれ、そんなどでかい雨がいきなりやってくるのなんて、想像もしてなかったし、もちろん心構えなんてなかった。俺たちの意識も低かったが、当時の日本全体の河川の治水状況も、相当お寒いものだった。戦後の食糧不足を補うため、堤防や河川敷は、あっちこっちで芝生が引きはがされ、耕されて畑になっていた。土地ごと切り崩されて、堤防の形も残っていない箇所さえあったくらいだ。河川上流の山は伐採で荒れ果てていたし、各地の消防団員は戦争による徴用で数が減っていて、救助体勢もまるでできていなかった」

 そこで折口は話を止め、ライターを取り出し煙草に火を付けようとした。が、何度か試した後、すでにそれがポケットに浸み込んだ雨によって、もはや二度と着火不能なほどにぐずぐずに湿っていることを悟ったらしく、舌打ちをしてそれを屑入れに突っ込んだ。

 航治は外を見る。車はいつのまにか、不忍通りに入っていた。

「あの日のことは今でも、はっきりと憶えている。不思議なもんだ。当時俺はまだ、小学校に上がったばかりだったのにな。雨筋を照らす懐中電灯の光線の色も、闇の中から聞こえた人々の悲鳴も、濁流の轟音も、まるで壜詰めにしたように、ここ――」

 そう言って折口は、こめかみをつついてみせた。

「頭の中に、そのまま残っている」

 折口がまた話しはじめた。

「ひどい雨だった。家の中にいても、屋根を叩きつける雨音がうるさくて、家族の会話さえろくに聞き取れないんだ。停電はその前の夜から断続的に起こっていて、家々では蝋燭ろうそくを灯してそれをしのいでいるようなありさまだった。親父や上の兄貴たちは、ラジオのボリュームを目一杯にあげて耳を傾けていたが、電波状態が悪いのと、雨音がやかましいのとで、気象情報がよく聞こえないと始終ぼやいていたっけ」

「その時点でもう、避難をはじめようとはしなかったんですか?」

 航治は訊ねた。折口が首を振った。

「田畑があるんだ。そう簡単に放り出しては行かないよ。それに何より、これは多分、当時の日本人全体に言えたことだと思うんだが、人々は『災い』というやつに対して、感覚が麻痺してしまってたんだ。長い戦争を通じてな。だがそのうち、一番下の妹が、怖い怖いと泣きはじめた。雨音にまじって、地響きのような音がするというんだ。だが、家族皆して耳をすましても、よくわからない。ここで一家の意見が二つに分かれた。お袋は、そんな幼い子の言うことを真に受ける必要はないと言った。親父のほうは、小さい子の方が敏感な耳を持っている。これはきっと堤防が切れる予兆だと主張した。そうやってしばらく言い争ったが、結局親父に従うことになり、一家で荷物を抱えて外に出た。まだ夕方だというのに、辺りは夜中のように真っ暗だったよ。そして、その頃にはもう、俺を含め家族誰の耳にもはっきりと聞き取れた。利根川の土手から、地を震わすような鳴動が聞こえてくるのがな」

 折口はハンドルをぎゅっと握り締めると、

「さすがに皆、悟ったよ。これは間違いなく、決壊するだろうってな。『走れ!』っていう親父の怒鳴り声を聞くまでもなく、全員で走り出していた。目的地は、一番近くにある地主の屋敷だ。そこは他よりも高台にあって、土台にも盛り土がしてあった。俺は泣きじゃくる一番下の妹に無理やり懐中電灯を持たせ、おんぶして走った。ぬかるんだ土に脚を取られ、何度も転びそうになり、そのたびに自分も泣きそうになった」

 折口は口元をわずかに歪めてみせると、

「後ろからは、お袋が悲鳴混じりの声をあげて走ってきていたが、やはり同じように脚を取られ、中々思うように進めないでいるのが音でわかった。数十秒くらい経ったときかな。いや、多分もっと短い時間だったんだろう。前を行く親父たちに取り残されないよう、必死で足を前に進めていた俺は、気づいたんだ。後ろから聞こえていたはずのお袋の声が、いつの間にか聞こえなくなっていることに。俺は振り返って、お袋の姿を探そうとした。泣く妹をどやしつけて、闇の中、懐中電灯をぐるぐると回させた。だがどこにもお袋の姿はない」

 航治は折口の眼を見た。だが瞼が伏せ気味になっているため、表情はそこから見てとれなかった。折口は短く息を吐くと、

「『何してる! 早くしろ!』親父の声が前から聞こえた。だが俺は声をかぎりにお袋のことを呼び、影を探し続けた。そのときだった。どうん、という腹の底を蹴り上げるような嫌な音が辺りに響きわたった。『つつみが切れた!』と、どこかで誰かが絶叫するのが聞こえた。俺はお袋を探すのを止め、屋敷に向かってまっしぐらに走った」

 折口の横顔が、わずかに歪んだ。

「怖かったよ。親父から何度も明治の大洪水のときのことを聞かされていたからな。背中から泥の塊がやってきて、俺も、背中の妹も、まとめて呑み込んじまう様子が、何度もなんども頭をかすめたよ。だがその想像はまんざらオーバーでもなかった。屋敷にたどり着き、震える脚で梯子をつたって、屋根の上にのぼった数秒後に、どでかい衝撃とともに、建物が大きく傾いだ」

「水は、徐々にじゃなくて、一気にやってくる」

 航治はそう言って、唾を飲み込んだ。

「そうだ」

 折口が頷いた。

「濁流が唸りをあげて、屋根のまわりを流れていた。もちろんさっきのぼってきた梯子なんぞ、とっくの昔に吹き飛ばされちまったらしく、どこにも見えない。俺は屋根の上を這いつくばるようにして歩き、家族の姿を確認してまわった。妹が懐中電灯を落としちまったせいで、辺りは真っ暗で、それは随分と骨の折れる仕事だった。嫌な予感は的中した。お袋の姿はどこにもなかった。俺は何度もくりかえし、お袋のことを呼んだ。声ががらがらになるまで呼んだ。だが濁流の向こうからは泥水のうねる音しか聞こえてこなかった」

 折口は口を噤むと、車を止めた。見ると前の信号が赤を示していた。誰も渡る者がいない横断歩道の前で、ジープは停止し続けていた。

「それで、どうなったの?」

 エミが訊いた。折口はジープを発進させると、相変わらず無表情のまま、喋りはじめた。

「揺れ続ける屋根の上で、俺たち家族と地主一家は、一夜を過ごした。誰も一睡もできなかった。翌朝の空は、今まで見たこともないくらいの見事な青だった。そしてその下に、汚い泥水に浸かった村が広がっていた。俺たちは水が引くのを待って、慎重に屋根から柱をつたって下に降りた。辺りは土砂と泥まみれで、元の面影はかけらも残っていなかったな。そこら中に、何かが腐ったような異様な臭いが満ちていたっけ。しばらくして、いくつか遺体が運ばれてきた。どれもこれも口の中まで泥まみれで、顔の判別もつかなかった。だが俺にはわかった。その中の一体が、雨の中ではぐれたお袋のなれの果てだっていうことが」

 再び赤信号の前で、折口が車を止めた。彼はまたポケットをまさぐり、中から何本もシケモクを取り出しては、どれが一番乾いているか品定めをするように、それを見つめていたが、やがて一本を選び口にくわえると、車を発進させ、話しはじめた。

「あのとき、妹が最初に危機をしらせたとき、家族全員で素直に親父の意見に従って、逃げるべきだったんだ。なのにお袋はそれに反対して、ひとり泥水に呑まれて死んじまった。考えようによっちゃ、自業自得なわけだが、もちろんどんな捉え方をしたところで、俺の気持ちが納得するわけがない。いつまで経っても。そんなわけで俺は、川と、台風に対する恨みを持ったまま、大人になった。そして恨みを晴らすのに燃えるあまりに、自分がつくった家族を放ったらかしにして、あげくの果ては実の息子に罵倒されるような爺いになって、今に至るというわけだ」

 折口は、口を噤んだ。

 しばらくの後、エミが訊ねた。

「もしも、今度の台風で、航治が言う通りに、東京で荒川が決壊したら、どうなるの?」

 折口が口を開いた。

「以前、政府の中央防災会議が試算したことがある。荒川流域が三日間で計五五〇ミリの豪雨にみまわれ、都内の荒川右岸が決壊した場合、最悪で約十分後に地下鉄などに浸水がはじまり、十二時間後に東京駅、十五時間後には銀座・霞ヶ関駅に水が到達する。さらに六日目までに路線の七割近い十七線と九十七駅が浸水し、うち霞ヶ関や銀座駅など八十一駅では、トンネル内や、改札がある上階が天井まで水没するそうだ。電話はもちろん不通になり、それより前に停電も発生。各種ホスト・コンピュータが軒並みダウンすることにより、ATMは全国で停止。市場もストップ。東京は物理的にも経済的にも壊滅的打撃を受け、影響は全世界に及ぶとしている」

「死者数は、どれくらい?」

 折口が顎の無精髭をいじりつつ、答えた。

「避難率四〇%で、墨田区墨田の堤防が破堤した場合、想定死者数は二一〇〇人。カスリーン台風のときの、関東全域の死者行方不明者を合わせた一九三〇人よりも多い数字だ。もちろん雨量がより多ければ、死者もさらに多く跳ね上がるだろう」

「今までの雨量って、どれくらいなのよ」

「この数日で、総雨量六〇〇ミリ近く。五五〇ミリはとっくに超えているはずだな」

 再び車内に沈黙が訪れた。航治の耳には、幌を叩く雨の音が、さっきよりもさらに強く、暴力的になったように聞こえた。

「いいのかな」

 気がつくと航治は、呟いていた。

「どうした?」

 折口が前を向いたまま言った。

「僕は、いいのかな。そんな大変なときに、自分の友達のことばかり考えていて。おまけに、折口さんたちまで巻き込んじゃって」

 エミが深い溜め息とともに言った。

「今さらそんなこと言うなって」

「まったくだ」

 折口も言った。

「兄ちゃん。大勢のことを考えて行動するのと、自分にとって一番大切な人間のことだけを考えて行動するのと、どっちが偉いことなのかなんて、俺にだってわからん。国交省にいた頃なら、間違いなく『大勢』の方を選んだろうが、今になって考えてみればそれだって『大勢のため』なんかじゃなくて、結局は『自分のお袋の仇をとってやる』なんていう、まるで個人的動機から発してのことだしな。ともかく今、これだけは言える。大勢のことについては、頼りなく思えるかもしれないが、自治体連中に任せるしかない。そのためにあいつらは存在しているんだからな。今のあんたにできることは、友達を助けることだけだ。他に何かやろうとしたって、それしかできない。そうだろう?」

「はい」

「じゃあ、それに精一杯手をつくせ。そうしないと、下手すると俺みたいに一生後悔することになるぞ。好きでのこのこついてきている俺なんざ、あごで使ってやりゃいいのさ」

 やがてフロントガラスを流れる水の向こうに、疾駆するような速さで左から右に流れる泥色の帯と、そこにかかる橋が見えてきた。

「さて、ここが隅田川だ。橋を渡った向こうに、デルタ地帯の北端、墨田区がある」

 そう言うとなぜか、折口はブレーキを踏んでジープを停めた。

「どうしたんですか?橋は渡らないんですか?」

 訊ねた航治に、折口が指で示した。前方で、全身をダークブルーの雨合羽に包み、右手に赤色の誘導棒を持った男が、道に立ち塞がっていた。

 警官だった。

 航治は言った。

「何だか、嫌な予感がする」

「あたしも」

 エミが言った。

「俺もだ」

 折口も言った。

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