第13話 ガレージ(2)
四肢のしびれが治まったのは、それからまた幾つかの突風がやってきて、去ってからのことだった。
そのあいだエミはずっと、穏やかな笑みを浮かべながら、航治の頭に手を置いていた。
「何してんだ。二人して」
突然、横から声がした。折口だった。
エミが「はっ」とも「あっ」ともつかぬ短い声をあげて、後ろに跳び退るようにして航治から離れた。航治は突然の事態に対処できず、その場に立ちつくしていた。
折口は少しの間、珍しい生き物でも見つけたかのように突っ立っていた。が、やがて顔面の筋肉を総動員してにんまりと笑みを浮かべ、言った。
「なぁんだ。ようやく二人、仲よくなれたか。いや、よかったよかった。青春だなぁ」
エミが顔を真っ赤にして反論した。
「馬鹿! 勘違いするな、エロ爺い!」
「照れるな、照れるな」ひひひ、と笑いながら折口は近づいてくると、両手で抱えてきたカーキ色の布袋を、ジープの後部座席に投げ入れた。
「なんですか?それは」
上気してしまった顔を見られぬよう、顔を心持ち伏せつつ、航治は訪ねた。
「浸水地域に侵入するだろうからな。そのための装備を揃えてきた」そう言って折口は袋の中を見せた。様々なものが入っていた。
防水ラジオ。懐中電灯数本。スマホ充電器。折りたたみ式ナイフ。ライター数個。ステッキ(これは浸水した道を歩くときに足下を探るための「探り棒」だと折口は言った)。
身体をくくりつけるためのロープ。掌に滑り止め凹凸のついた軍手。互いを呼び合うためのネックレス型ホイッスル(吹くと指笛を一オクターブ高くしたような鋭い音がした)。
ヘルメット。眼を雨水から守るためのゴーグル。高保温性のアルミ製ブランケット。弁当箱大の簡易救急箱。工具箱。何枚もの洪水ハザードマップ。タオル。新聞紙一束。現金三万円。しっかりとした生地のレインスーツ数着。そしてそれらを仕舞うためのナップザック――。
「すごい」
航治は言った。エミも興味深そうな顔で荷物を見ていた。
「昔はこれが仕事だった」
折口は偉ぶるでもなく、自嘲的にでもなく、ごく普通の口調で言った。
「さて、荷物のことはここまで。そろそろ出発しなきゃな。だが、言うまでもないことだが、川沿いを闇雲にあたっていっても、目的を果たすのは難しい。荒川にかかる橋は沢山ある。時間だって、台風上陸まであともう少しと、相当押してきている。全部まわるのなんて、不可能だ。だから、ここはぐぐっと、ポイントをしぼって行く必要がある。わかるな?」
折口は眉間に皺を寄せ、険しい顔を作った。
「だから、兄ちゃん。そいつの住まいを探し出すのに、何か手掛かりになる情報が欲しい。なんでもいい。思い出せることがあったら、この俺に言ってくれ」
「そう、ですね」航治は言った。「前にも言ったように、彼は荒川・隅田川に挟まれたデルタ地帯沿いの、荒川にかかる橋の近辺にある、出入口共同の古い木造アパートに住んでいます。それ以外の情報は」
そう言いながら、航治はスマートフォンを取り出した。
「ここに書かれています」
航治が映したのは、一番最近に彼から送られてきたメッセージ、つまり最後のメッセージだった。
航治はスマートフォンを折口に渡した。折口と、そして横からエミが、文面に目を落とした。
――――――――――――
clear_someday さま
返事がずいぶん遅れてしまって、すいませんでした。
実は何日も前から、書こうと試みていたのですが、どうしても取りかかれず、結局こんなに遅くなってしまいました。
そのあいだ、君にたくさん心配をかけたようですね。
こんなふうに待たせて、心配もさせたうえ、面白くもないしらせしか君にできないことを、とても残念に思います。
君の勧め通り、予約を繰り上げて病院に行きました。飯田橋にある、例の総合病院です。
君の心配は、的中していました。
急性増悪です。かなり高い数値が出ていました。前のピークだった昨年秋の値を軽々と越えていました。
何度も書いたように、この病気の特徴として、原因は不明。治療は炎症を抑え、進行を遅らせることがメインで、現在のところ根治は不可能です。
しかも医師が説明したところによれば、今回、以前にくらべ、進行が「かなり早い」らしいのです。
つまり、ついこの間、ようやく痛みも治まり、このまま寛解するかと僕が勝手に思い込んでいた(そして今はすっかり節くれ、こわばってしまった)指の関節が元の形に戻り、前のように、自由自在に動かせるようになる確率は、(医師の言葉によれば)「高くない」らしいのです。
痛みをこらえ、病院から帰る道すがら、僕はずっと口元に嗤いを浮かべていました。
周囲の人が、僕に対して薄気味悪そうな視線を向けるのがわかりましたが、嗤いを止めることはできませんでした。
そのときの僕には、自分のこの運命が、心から滑稽に思えて、しかたがなかったのです。
だってそうでしょう? せっかく痛みが消え、まるで完全に治ったみたいに思わせておいて、急転直下、こんな地獄を見せるのですから。
もし神様がいるのなら、その性格は、酷くいいかげんか、逆に酷く粘着質で几帳面か、どちらかとしか思えません。
でも部屋に帰りつき、独りになると、程なくして嗤いは消え、代わりに逃れようのない無力感が押し寄せてきました。
何度も書きましたが、僕には、さまざまな「音」を言葉と同等にとらえ、読み取り、そこからインスピレーションを受けて曲をつくったり、演奏したりする能力がありました。
それこそが、与えられた唯一の自己表現手段であると、ずっと思い、育ってきたのです。
でもそれはもう過去のことになってしまいました。
病は、今や急速に進み、僕から表現――演奏の手段を奪っていくのです。
僕の聴力だけを無傷で残して。
最初の発症で、"sous la direction" を続けられなくなったときは、君の沢山の助けがあって、何とか僕は自分の心を保つことができました。
「グループは駄目でも、ソロとして、今の自分でも弾けるような運指の曲を作り、演奏を続けることができるんじゃないか」という君の言葉に、僕はどれだけ救われたことでしょう。
あのときのことは、ほんとうに感謝しています。
でも今回は、君の助けを借りることもなさそうです。
自分でわかるのです。今度ばかりは、誰に手を差し伸べられようとも、僕は浮きあがることができそうにありません。
繰り返しになりますが、僕にとっては、音というものはすべて、一連の意味を持った「言語」でした。
荒川沿いで子供たちが野球をする音も、毎朝窓の外を訪れる鳥たちのさえずりも、そしてもちろん、電車の音も。
それら、色んな人工音や自然音は、おおげさな言い方だけど、世界そのものが、僕に向けて発した、啓示みたいに感じられました。
僕は降り注ぐ音を、身体いっぱいに浴び、そこから沢山の曲を紡ぎ出し、奏でることができました。
僕は音を音楽へと変換する、生きた触媒たりえたし、その役割に大きな喜びを感じていました。
でも今の僕は違います。
音の出口は封鎖されてしまいました。
音は僕の中に勝手に入ってきて、これまで感じたことのない「重み」を伴って、際限なく沈澱していきます。
僕はそれを感じるばかりで、何らの形でも取り出すことはできないのです。
不能者が面前で、絶え間なく性的誘惑を受けているようなものでしょうか。
すべての音が僕に、「お前はもう、何もできないんだ。ただ際限なく俺たちの囁きを聞き続けるだけなんだ」と繰り返し言い続けているように聞こえます。
音はもう、僕にとって啓示ではありません。
呪いの文言です。
死にたいと思いながら、この数日を過ごしていました。
僕を嘲笑ってください。
あんなふうに、君に「死なないでくれ」と訴えたのに、今度は自分が死ぬことばかり考えていたのです。
でも僕は、死ねませんでした。
決して、生きたかったからじゃありません。
ただ、死という「苦痛を伴う関門」をくぐるだけの、勇気を持っていなかっただけです。
僕にできたのは、ありったけの眠剤を飲んで眠る、ということだけでした。
眠りはいいです。ともすれば浮かんでくる、健康な人々への嫉妬を感じずに済みますし、何よりも、音というものを一切聴かずにすみますから。
かつて好きだった響きでさえ、今は、早朝から深夜まで続く拷問としてしか捉えられなくなってしまった僕には、もってこいの避難場所です。
長くなってしまいました。そろそろ文章をしめましょう。
君にはほんとうに悪いと思っています。あるときは勝手に励まし、あるときは勝手に自分の中に逃げ込んで。
でも、許して欲しいのです。
今の僕には、こうしていることしかできません。
山ほどの薬を飲み、擬似的な死としての眠りに逃げ込むという方法でしか、自分を保っていることができないのです。
何度もくりかえしメールをくれてありがとう。
次に起きたとき、気力があれば、またメールをします。
H_direction
――――――――――――
「勝手な奴」
エミが吐き捨てた。
「一応謝ってるふりしてるけど、結局は自分の言いたいことだけ言って、相手の言葉を聞く意思はまるでなし。あんたさ、こんなものもらって、それでもこいつを『友達』だなんて思うの?」
「思うよ。もちろん。彼は僕のことを見守っていてくれた。死のうとしたときは、止めてくれた。今はたまたま不調なだけさ。そして不調な時期は、誰にでもある」
「そういうのを、『ものは言いよう』っていうのよ」エミが言った。「ともかくね。あたしはこいつのことを嘘つきだと断定した。もうそれに決まり」
「そうかな。僕はそう思わないけれど」
折口は航治とエミの一連のやりとりを聞き流し、メッセージを一心に読み返していた。が、ようやく顔を上げて、航治に質問をした。
「兄ちゃん。この人の病気って、なんなんだ?」
「関節リウマチです。
「この人の症状は、相当ひどいのか?」
「昨年の秋に発症して、それから後、薬を
「でも、この人は自分はもう完全に駄目だと思っている」
「彼は思い込みが強いんですよ。『増悪』っていう言葉にばかり、意識が向いてしまっているんです。少なくとも今は」
「なるほど、で、今回だけじゃなく、最初の発症のときにも、兄ちゃんはこいつを慰めたんだな?」
「慰めるというか、自分の意見を言いました。『たとえグループを続けられなくなったとしても、ソロで音楽を続けられるじゃないか』って」
「なるほど、確かにそう書いてあるな。じゃ、この"
「そうです。演奏を聴いたことはありませんが、結構実験的な要素を盛り込みつつ、ポップな響きと、ダンス・ビートを融合するようなことをやっていたらしいです。彼はそこで、エレクトリック・ヴァイオリンを弾いていました」
「エレクトリック?」
「電気ヴァイオリンです。エレキギターと同じように、弦の響きをピックアップ・マイクでひろって、アンプから音を出すんです。もちろんエフェクターを通すこともできます」
なるほど、と言い、折口は無精髭の生えた顎を撫でた。航治は、この男は音楽についての自分の説明を、どれくらい理解しつつ聞いているのだろうか、と少しばかり不安に思った。
「"sous la direction"、『指揮のもとで』って意味か」
「あ、そうです。フランス語、わかるんですか?」
折口は照れくさそうに笑いつつ、
「ああ。大学時代、好きになってな。フランス語がわかる路上生活者っていうのも、珍しくていいもんだろう?」
「え、ああ――はい」
航治は頷いた。
「グループ名をつけたのは、彼自身です。元はといえば、彼が音大時代にクラスメイトを集めてつくったグループなんです。でも最初の発症のときに、指が完全に思いどおりには動かせなくなって、そのせいで彼はメンバーに気を遣うようになり、自分から辞めてしまったんです」
ふむ、と頷くと、折口はまた少し考え込んだ。そして汚れた指先でメッセージの一箇所を指さし、航治に訊いた。
「この、最後の行に書いてある"H_direction"っていうのは何だ?」
「ハンドルネームに決まってるじゃん」
エミが割って入った。
「役所勤めしてたときに、ネットくらい使ってたでしょ?」
「あ、ああ、すまん。そうだそうだ。そうだったな。じゃあ、この"
「そうです」
「どんな意味だ?」
航治は少し躊躇ったが、結局それを教えた。
「"It will be clear someday"、『いつか晴れる』っていう意味です」
「いい名前だ。兄ちゃんらしい」
折口が微笑った。
「あ、はい、ありがとうございます」
航治は礼を言った。耳が少し熱かった。
「しかしこっちの方、"H_direction"っていうのは、さっき聞いたその、グループの名前とかぶっているな」
「そうですね。同じ"direction"を使ってますね」
「やっぱりフランス語なんだろうか」
「それは僕にもわかりません。そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない」
折口はむむ、と唸った後、
「俺としては、この"H"の意味が気になるな。もし"direction"を字面どおり、グループのこととすると、"H"は何か楽器の頭文字のように思えてくるな。例えば、その彼が担当していたパートだとか」
「でも、フランス語でもバイオリンは"
「そうなんだよな。どこにも"H"は入ってない。他の音楽用語なんだろうか」
「さあ――でも、もしそうだとすると、病を患った後の彼にとっては、辛いハンドルネームだったでしょうね。健康だった頃の自分を思い起こさせて」
「あたしなら、ハンドルネームを変えるね」
エミが言った。
「名前を変える? そんなことできるのか?」
エミはちら、と呆れたような視線を折口に送ると、
「しょせんネット上のニックネーム、仮の名だからね。新しいアカウント、名前を取って、航治に向けて、『改めまして。元、"H_direction"だった僕です』とかなんとか送ればいいだけの話だし」
「なら、やっぱりこの"H_direction"は、音楽やグループとは無関係なんだろうか」
それに答えられる者は誰もいなかった。沈黙を破ったのは、折口だった。
「じゃあ、目先を変えて、また手掛かりを拾っていこう。この『さまざまな音を言葉と同等にとらえ』うんぬんっていうのは、どういう意味なんだ?」
「書いてある通りですよ。耳から聞こえる音の全部が、楽器の音と同じように、ドレミファソラシドで聞こえるんです」
「楽器の音と同じように? そりゃすごいな。本当にそんな能力を持っている奴がいるのか?」
「いるんですよ。少なからず」
「絶対音感」
エミが言った。折口はふうむ、と唸ると、
「それで、『子供たちが野球をする音も、毎朝窓の外を訪れる鳥たちのさえずりも』って書いてあるわけか」
「ええ、そういうことです」
「しかしどうして、電車のところだけ、『もちろん』って書いてあるんだろうな。それが引っかかる」
「ああ、彼は電車の旋律が好きなんですよ」
「電車の音が好き? あの騒音がか」
「車輪の出すリズムと旋律が、ミニマル音楽みたいで、心地良いんだそうです」
「ミニマルなんとかっていうのは何だい」
「現代音楽のスタイルの一つです。短かい、同じフレーズをずっと繰り返して、その中で生まれる微妙な変化を聴き取るんです。スティーヴ・ライヒっていう作曲家なんかが特に有名で、その人は、人が喋った言葉から音階を取り出して、それを反復演奏させたりしています。同じ要領で、汽車の汽笛や、駅のアナウンスなんかから音階を取り出した曲もあります」
へええ、と折口は語尾を伸ばすと、
「俺には一生理解できなそうな感覚だな」
「僕だってできませんよ。ただ、そういう知覚能力を持った人がいるっていうことを、彼の説明や、本で読んだ知識で知っているだけです」
「なるほどな。しかし、してみると一つ、推測できることがあるな」
「推測? 何ですか、それは」航治は勢い込んだ。
「この部分だ」
折口はメッセージのある箇所を指し示した。
「『かつて好きだった響きでさえ、今は、早朝から深夜まで続く拷問としてしか捉えられなくなってしまった』、これはもしかして、電車の音のことじゃねぇのかな?『早朝から深夜まで』っていうのは、つまり」
航治ははっとして言った。
「列車の運行する時間帯のことですね?」
「そうだ。それでもって、それがよく聞こえる場所っていえば」
突然、大声が響いた。
「わかった! 橋っていうのは、鉄橋のことだ。奴は列車の鉄橋の側に住んでいるんだ!」
航治と折口は同時にエミの方を見た。エミははっとした表情になり、次に、いかにも慌てた様子で、そっぽを向いてみせた。そして、不味いものでも間違って食べてしまったときのように、顔をしかめてみせた。
折口は笑いつつ、そんなエミの様子を見ていたが、やがて真面目な表情に戻り、喋りはじめた。
「ともかくこれで、少しは行き先を絞り込むことができたな。もっとも、鉄道橋だけとってみても、まだ結構な数になっちまうがな。それでも今までよりは遙かにましだ。早速、近場のものから、車で行ってあたってみることにするか」
「はい」航治は頷いた。知らぬ間に拳を強く握りしめていた。
「ところで」
そう言って折口は、エミの方を向いた。
「姉ちゃんはどうする?ここから先は、本来あんたには関係のない道中だ。それに身体も随分濡れて、冷えちまってるだろう。この家は部屋数は余っている。あんたから寛之にじかに頼めば、一部屋と風呂、それから布団くらいは貸してくれると思うが」
「嫌だ」
エミが遮った。
「あたし、あんたの息子、嫌い」
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