第20話 家族

 ――関東、首都圏に甚大な被害をもたらした台風十四号は、その勢力を急速に衰えさせながら、関東から日本海側にかけて日本列島を縦断する形で、日本海へと抜けていきつつあります。

 これによって豪雨も、しだいに弱まりをみせていますが、墨田区、江戸川区、江東区などの、荒川決壊の被害を受けた地域では、依然として地元消防団と自衛隊による、懸命の救助作業が続けられており、また、大きな被害のなかった地域に対しても、気象庁は未だ厳重警戒を――


 西里良和よしかずは、ダイニングテーブルの上に置かれたラジオのスイッチを切ると、泥に埋もれた物置から、文字通り「掘り起こしてきた」ホースを、キッチンのシンクに投げ込んだ。ホースの泥をざっと洗い落とし、一端を蛇口にはめ込むと、反対側の一端を掴んで指先でつぶし、水道のコックを勢いよくひねった。

 たちまち水勢のついた水が飛び出す。良和はそれを部屋中にふりまいていく。食器を取り出して空になった棚の外側と内側、冷蔵庫、それからはっきりと床上三十センチの高さまで泥の跡のついた壁に水をかけ、汚れを床に落としていく。

 壁面と家具に水をかけ終えると、次に良和は、水の先を床に向けた。下に積もった泥、石、小枝、虫などが押し流され、部屋の一角に集められていく。

 良和は水を止めると、箒とちり取りでもって、汚泥をかき集めた。重い息をついてちり取りを持ち上げると、玄関から外へ出て、庭の隅に捨てた。

 良和は空を見上げた。風の唸りは聞こえるものの、雨は既に勢いを失い、ぱらつく程度になっていた。

 玄関をくぐり、家の中へと引き返す。またホースとちり取りを使い、キッチンと同様に、居間、リビング、浴室、トイレ、そして各部屋の押入れの中を、水で洗い流していく。それら作業を終えると、今度は雑巾を使って、床に残った汚れと水気を丹念に拭き取っていく。

 腰の痛みが限界を告げる頃、彼は全ての部屋の拭き取り作業を終えた。厳密に言えば、ぶよぶよにふやけた畳やソファ、そして書物の類は、未だ水をしたたらせていたが、こればかりは仕方がない。夜が明けて陽が昇るのを待つしかないだろう。

 良和は、疲れ切った身体を休めるべく、ダイニングへと戻り、呻きとともに、さっき汚れを落としたばかりのテーブルの椅子を引き、腰を落とした。

 しばし呆然としていると、女の嘆き声が耳に聞こえてきた。二階にいる妻、郁美いくみの泣き声だった。

 良和は辺りを見まわし、残されたやるべきこと、掃除や片づけ作業がないか、探す。

 だがそれは見つからなかった。他ならぬ彼自身の手によって、すべての使用可能な物品は、高い場所に積み上げられ、使用不可能となった物たちは、とうに家の中から屋外へと運び出されていた。

 どう考えても、この疲れ切った身体をさらに動かして取りかかるべき作業は、残っていないように思えた。

 彼は大きな溜息とともに思う。いつから自分はこうやって、家族の気詰まりな場面から、何かと理由をつくっては、逃げ出すようになってしまったのだろう。

 やはりあの事件からか。

 会社の部下との情事発覚以来、良和はこの家に居場所を失った。郁美は一人息子の航治に、より精神的に密着するようになり、その繋がりの中から、良和を閉め出した。それは家族への背信を冒した夫に対する、郁美による制裁だった。

 残された良和は、生じてしまった余剰な時間を、家の中の雑務作業にあてることによって、かろうじて自らを西里家に所属させつづけた。

 だが年月が過ぎ、気がつくと彼は、自分のその立ち位置に安寧を感じるようになっていた。それはもはや、罰として与えられた役割ではなかった。自ら居続けることで獲得した、家庭内の唯一の安全領域だった。彼はいつでも、その立場へ緊急逃避することによって、家庭内の様々な問題に対して、第三者的な気持ちでいることができたのだ。

 良和は腰を上げると、本や電気製品などが山と積まれた階段を上り、二階へと足を運んだ。

 郁美の泣き声は、航治の部屋から聞こえてきていた。彼は郁美によって壊された、ドアノブのついていない穴に指をさしこむと、ゆっくりとそれを引いた。

 郁美は部屋の真ん中に、少女のようにぺたりと座り込み、声を上げて泣き続けていた。

 入口でしばし立ち尽くした後、良和はようやく妻の背中に声をかけた。

「郁美」

「何よ」

 しゃくり上げながら郁美が答えた。

「航治が、もしかして、航治が帰ってきたの?」

 郁美が振り向いた。痛々しいほどに眼を赤く腫らし、腕には航治の部屋着を抱えていた。

 良和は思わず眼を逸らし、首を振った。

「いや、まだだ」

「じゃあ、出ていってよ」

「郁美」

「出ていってって、言ってるでしょ」

 そう言って郁美は背中を向け、童女がいやいやをするように首を振った。

 肩を落とし、部屋を去ろうとした良和の背に、「待って」と郁美の声がかけられた。

「あなたも、あたしが間違ってるって、思ってるの?」

 わずかな間の後、良和は思い切って口を開いた。

「郁美、俺は」

「やっぱりいい」

 良和の言葉は、郁美によって遮られた。

「やっぱり、答えなくていい。だから、出ていって」


 階下に降りた良和は、再びダイニング・テーブルの椅子に座り、妻のさっきの態度に思いを巡らせた。

 郁美は怖れているのだ。

 息子が自分を裏切り、見捨てていってしまうのではないかという恐怖に怯えているのだ。だから、未だ過去の罪を許していない相手であるはずの俺にまで、すがりかけてしまうのだ。

 良和は大きくうなだれた。

 不安だった。

 航治が姿を消したことによって、初めて気づかされた不安だった。

 この家の平穏は、航治の犠牲を基にして、かろうじて成立していた。

 郁美も、そして良和自身も、〈引きこもり〉という、厄介者の姿をまとった、その実、御しやすい、〈人ではなく、人形としての息子〉の面倒をみてやっている、という意識のもとに、バラバラになることを回避していたのだ。

 だが、航治は自力でこの家から飛び出した。郁美の人形としてではなく、意志を持った一人の少年の選択で、嵐の中へ出ていった。

 これから家族はどうなっていくのだろう。

 良和は墨のような不安が胸の内に湧き起こってくるのを感じていた。

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