第19話 向き合うべきもの
「
「航治だよ。よかった!やっと会えて」
緊張からの解放と、幸運な邂逅に対する喜びがあいまって、航治は握る掌にさらに力を込めた。それに痛みを感じたのか、彼はわずかに顔をしかめた。航治は慌てて手を離す。
「あ、ごめん。あんまり嬉しかったから、つい」
「航治」
昂揚する航治の背後から、エミの声がした。
「感激はわかるけどさ、一刻も早く早く脱出の方法を考えなきゃならないんじゃないの? そうしないと、あたしたち全員ここで溺れ死ぬよ?」
航治は我にかえり立ちあがると、
「ああ、そうだね。急いでなんとかしなくっちゃ。階下にはもう降りられないから、窓から出て、屋根に登るしかないかな」
「駄目だって。あたしよくわからないんだけどさ、この建物ってずいぶん古いみたいだよね? 決壊のときの水の勢いって、ものすごいんでしょ? 屋根ごと流されちゃうんじゃない?」
「うん、そうかもしれないけど、でも、他に方法がなけりゃ、そうするしか」
「待って」とエミは航治の言葉を制した。
「実はあたし、さっきこのアパートに入るときに見たんだけど、ここの真隣にぴったりくっつくようにして、五階建てくらいのマンションが建ってるんだよね。で、考えたんだけど、もしアパートの窓と、そのマンションの外廊下かベランダがちょうど向かい合ってるんなら、ここに並んでいる部屋の窓のどこかから、マンションに飛び移ることができるんじゃないのかな」
「本当に?」
航治は勢い込んだ。
「本当よ。もちろん」
エミは頷いた。
「やってみる価値あると思わない?」
そのとき、話す二人の下から声がした。
「あの、ごめん」
見ると、彼が顔に戸惑いを浮かべながら、航治たち二人を見上げていた。
「その女の子、誰? それと、なぜ君たち、ここにいるの?」
わずかな沈黙の後、航治よりも先に、エミが声をあげた。
「あのねえ、じゃあ、説明してあげるよ。眠剤なんか飲んで雨にも気づかず、眠りこけてるだろうあんたのことを思いやって、この馬鹿お節介な航治が、わざわざ東京の反対側から大冒険して助けに駆けつけてきたんだよ。こんなこと、説明する前に自分の頭で想像しなよ。おかげであたしまで巻き込まれて、こんな大変な目に遭ってるんだから」
「そうなの? コウジ君」
訝しげな声で彼が訊いた。航治は少し耳を熱くしつつ、
「うん、まあ、そうなんだ。この子はエミっていって、ここにくる途中で出会って、ついてきてくれたんだよ」
「そう、なんだ」
彼は依然、ぼんやりとした表情のまま頷いた。
「ともかくさ、急いで行動に移らないと、いつまた水が上がってくるかわからない。だから立ちあがって、早く逃げようよ」
「ああ、そのことなんだけれども」
彼はそこでやや口ごもると、
「せっかく大変な思いをして来てくれたのに、申し訳ないんだけれど、ここは二人だけで逃げてくれないかな」
一瞬、その場を沈黙が支配した。固まる航治たちの前で、彼はまた言った。
「僕は、もういいんだ。疲れた。君たちが来てくれたのにも、正直いって、迷惑してるんだ。お願いだから、放っておいてくれないかな。この二階にまで登って来るのだって、一苦労だったんだ。僕はここでこのまま、水がくるのを独りで待つよ、だから」
その場の空気を裂くような、鋭い平手打ちの音が、薄暗い廊下に響きわたった。
続けてもう一度、腕を振り上げたエミの手を、航治がとっさに掴んだ。
「何すんのよ! 離しなさいよ!」エミが航治に叫んだ。
彼は打たれた頬を押さえ、うなだれたまま、静かに言った。
「コウジ君。その子の手を離してあげてよ。だって怒るのも当然だよ。この物凄い嵐の中、ふたり大変な思いをしてやってきたんだろう? どうせ僕はもうここで、このまま死ぬんだ。多少苦痛を感じる回数が増えたって、別にどうって違いはないさ。だからその子が納得するまで、僕のことを殴らせてあげなよ」
航治は、悪夢をみているような気分で彼の台詞を聞いていた。
「どうして、どうしてそんなこと言うのさ」
「最後のメッセージに書いただろう? あの通りさ。僕にはもう生きる目的がない。でも自力で自殺する勇気もない。ちょうどそんなときに、この嵐がやってきてくれた。僕は思った。ああ、役立たずの僕を殺しにきてくれたんだなって。知ってるかい? 溺死って思うほど辛いものじゃないんだってさ。口と、耳に大量に水が入って、あっという間に方向感覚もなくなって、もがいているうちに気を失い、そのまま死んじゃうんだって」
彼はそこで少し口を噤んだ。台風の眼に入ったのか、気がつくと雨風の音が止んでいた。水圧のせいか、アパート全体があげる、ぎしぎしという家鳴りの音が、生々しく聞こえていた。
「君の自殺を止めたくせに、自分は勝手にここで死のうと思っている。受動的な自死さ。もちろんこのことは、君にものすごく悪いと思っている。嘘つきな奴だとも自覚している。でも、わかって欲しいんだ。僕には、君と違ってもう未来がない。懸命に積み上げ、努力してきたものが、全て無駄になってしまったんだよ。お願いだ。僕をそっとしておいてくれないかな。そして君は、一刻も早く、この子と一緒に逃げるといい」
航治は、いつの間にかエミの腕から力が抜け落ちているのに気づいた。手を離すと、腕は下に向かってだらりと落ちた。
「だから言ったじゃん」
エミが疲れを滲ませた声で言った。
「聞いたでしょ? 航治。あたしがさっき言ったとおり。こいつはもう、自分が死ぬことしか頭にない。あんたを置き去りにして、この世からいなくなる方へ、とっくに気持ちがいっちゃってるのよ。案の定、あたしたちが来たのは、まったくの無駄足だったってこと。さあ、もうこんな嘘つき野郎は見捨てて、とっとと逃げよう?」
そう言ってエミが航治の腕を掴み、引こうとした。だが航治は腕に力を込め、抗った。
「嫌だ」
航治は言った。怒りで声が震えていた。
「絶対に嫌だ。彼を連れて、三人で、ここから逃げのびる」
航治はエミから手を振りほどくと、彼のほうに手を伸ばし、肩を掴もうとした。だが彼は、意外な俊敏さで身を動かし、航治の手を避けた。
「駄目だよ。僕は行かない。君たちがここに上がってくるまで、僕が何を考えていたかわかるかい? あの昨年の秋の最初の発症のときに、僕は首でも吊って死んでしまえばよかったのに。そうすれば僕はとっくにこの世にいなくて、毎日の関節のこわばりも、思うように楽器が弾けなくなる悲しさも、一切味わうことがなかったのにって、そんなことばかり思ってたんだ。情けなくって笑えるだろう? だから、頼む。この惨めで嘘つきな僕を放っておいて、このまま、静かに死なせてくれないかな?」
再び沈黙が降りた。建物の軋む音だけが、静けさの中、そこかしこで鳴り響いていた。それは、強い雨風の音に耳が慣れてしまっていた航治に、不安と、強い非現実感を催させた。
「行こうよ、航治」
エミが静かな声で言った。
「そんなに死にたいって言うんなら、死なせてあげればいいじゃない」
「嫌だ」
「あんたはさ、自分の持ってきた『救い』をこいつに押し付けようとしてるんだ。それか、ここまではるばる頑張ってたどり着いたことへの『代償』が欲しいだけ。どっちにしろ、要するに自分のエゴなのよ。だからさ、もう行こう? あたしたちだけで」
「嫌だって言ってるだろ!」
叫び声が廊下に轟きわたった。
「僕は、能なしなんかじゃない」
そう小さく独り言つと、航治は彼のもとに乱暴に歩み寄り、さっきとは比べものにならない素速さと強引さで、彼の両腕を鷲掴みにした。
「さっきから黙ってれば、なんだよ! 『首吊って死んでればよかった』なんて! 僕は、最初の発症から回復して立ち直った後の、君からの言葉があったから、今ここにこうやって生きてるんだ。自分なんて死んでればよかったなんていうのは、要するに僕が生き残ったことも、間違いだったって言っているのと同じじゃないか。
それになんだ! 『自分にはもう未来がない』なんて。手が動かなくなっても、作曲をすることだってできるじゃないか。なんなら僕が、君の言った音符を、楽譜に書きとっていってあげてもいいんだ。そうすれば、君がたとえ寝たきりになってしまっても、君に音楽を続けさせてあげることができる! それなのに、自分を、自分のことを、『役立たず』なんて言うな!」
叫ぶ航治に、彼が口元を歪ませ言った。
「君が僕の、何を知っているっていうんだ」
「知らないよ。ちょっとしか。でもそれが何だっていうのさ! 確かにね、君とはずっとネットだけの付き合いだった。僕は君について、今、ほんの一面しか知らない。でも、だからこそ、僕は君と、これから先もずっと友達でいたい。もっともっと、きちんと話したい。君のことを、もっともっと知りたい。でも君は勝手に死ぬ気でいる。この世界から消えようとしている。わかっているの? 僕はね、君に死なれたら、もう二度とメッセージを交わすことも、話すこともできなくなっちゃうんだ。そんなの嫌だ。絶対に嫌だ。僕には君が必要なんだよ! 僕は君の喜びも、悲しみも、一緒に味わいたい。病気も少しずつ治療してもらって、いつかは演奏も聴かせてもらいたいんだ!」
航治は言葉を切ると、相手を焼くような眼差しで睨みつけた。
「ねえ、君があのとき、僕に言ったことを、今度は僕が言わせてもらうよ。これが僕のエゴだろうが、なんだろうが、どうでもいい。君がもし、少しでも僕に悪いと思っているのなら、生きて、逃げないで、僕が今生きていることへの責任を、きっちりと果たしてよ!」
航治は一気に喋り終えた。気がつくと二階の水かさは静かに増し、立っている航治のふくらはぎのあたりにまで上ってきていた。
「わかったわ」
後ろからエミの声がした。彼女は素早く「彼」の背後へとまわると、後ろから羽交い締めにして持ち上げ、無理やりにその場に立たせた。
「あんた。名無しのHさん。ともかく今はあたしたちの言うことに従って、死のうとするのはこの台風が行くまで待って。そしたらあたしが、あんたの望む方法で、死ぬのを手助けしてあげるから」
そして航治に向かって、
「航治。あたしはこいつを掴まえてる。だからあんたは逃げ道を探して。もう一刻を争うんでしょ?」
「もちろん。任せて!」
航治は水音を立て走り出すと、片端からドアノブに手をかけて回し、鍵の掛かっていないものがないか、探しはじめた。
あっという間にドアを巡り終えた航治は、苛立ちもあらわに叫んだ。
「駄目だ! 開かない。全部のドアに鍵がかかってる」
エミが舌打ちした。
「貧乏アパートの住人たちのくせに、いやに戸締まりがしっかりしてるじゃない。仕方ないわ。航治、ドアを破って」
「どっち側の部屋がマンションに面してる? 右? 左?」
「わからないわ。どっちもやってみて!」
そのとき、彼が気弱げに声を発した。
「コウジ君」
航治は振り返って見た。彼の眼には心なしか、さっきよりも精気が灯っているように見えた。
「左側のドアだ。その向こうの窓が、マンションの方を向いている」
「ありがとう」
そう言うと航治はかぶっていたヘルメットを取り、左に並ぶドアノブの一つに、上から力一杯叩きつけた。
鈍い金属音がして、ドアノブが根本から外れ、床に満ちた水の中へ、大きな音をたてて落下した。
「すごいじゃない! 見かけによらないわね!」
「前に一度、母親にこうやってドアを壊されて、部屋に入られたことがあるんだ」
航治はさっきまでノブがついていたところの穴に指を突っ込むと、思いきり力を込めて、水圧で重くなったドアを開いた。
廊下と同様、室内も水に沈んでいた。すでに膝のあたりにまで来ている水を蹴散らし、航治は中に入っていく。
彼と同様、独り暮らしの男の部屋なのだろう。カップ麺、コンビニ弁当などの空き容器や、下着などの衣類に混じり、見るからに薄っぺらそうな布団類が、四畳半の部屋を占拠し浮かんでいた。航治はそれらを蹴散らし、窓の前まで来ると、いっぱいに開け放った。
目の前に白いタイル貼りの壁面が立ち塞がっていた。航治は窓から頭を出して、上下左右を見まわす。窓から六十~七十センチ離れた場所に壁があり、その一メートルほど上部が、左右に長い吹き抜けになっていた。その上にまた壁があり、上はまた吹き抜けと、繰り返しの構造になっている。どうやらエミの言うとおり、マンションの外階段らしい。
風雨は完全に止んでいた。空を見上げれば星が見えるのではないかと思えるほどの静寂に、辺りは満ちていた。
下は、窓のすれすれにまで水が来ていた。試しに茶褐色の水面の奥を覗き込んでみたが、濁りが濃く、まったく見通せなかった。航治はその眺めに恐怖を感じ、全身をぶるり、と震わせた。
「エミ!」
航治は後ろを向いて叫んだ。すぐにエミが「彼」の手を引いて中に入ってきた。
航治は窓の外を指し示し、
「見ての通り、外廊下に面してたよ。こっち側の窓のへりに足をかければ、ぎりぎり掴まって向こうの手すりによじ登れると思う」
エミは航治と同じように窓から外を確認すると、
「やるしかないわね」
「じゃあ、エミ。君から先に登ってよ。次が彼。僕がしんがりになって、脚を踏ん張れない彼の身を支える。彼が向こうの手すりに手をかけたら、君は彼の腕を掴んで、引っ張り上げてくれ。僕は下から彼を押し上げるから」
「わかったわ」
きっぱりと言うと、エミは窓の縁に足をかけた。下の水を見て、少し躊躇したかに見えたが、身体を傾け、外廊下の手すりに手をかけると、航治が手を貸すまでもなく、壁面のタイルを蹴り、身も軽く上へと登っていった。
「次は君の番だよ」
そう言って航治は彼を呼んだ。彼はうつむいたままやってくると、小さな声で一言、「すまない」と呟いた。航治は頷き、「ありがとう」と言った。
エミの助けを借り、彼を無事に外廊下へと押し上げた後のことだった。
最後に自分が登ろうと、窓に足をかけたとき、上からぽつりと、一粒の雨滴が落ちてきた。
はっとして見上げた航治の額に、小石ほどの大きさがある雨が、どうと降りかかってきた。同時にあの、狂ったような風の叫びも帰ってきた。
「くそっ!なんでこんなタイミングで!」
吹き込む強風にあおられながら、航治は必死で手すりを握る。
上へと登ろうとして、マンションの壁面に足をかけた瞬間だった。壁面を流れる雨水に足裏をすべらせ、航治は上半身ごと大きく下へずり落ちた。
あの茶褐色の水面に落ちていくイメージが、たちどころに航治の頭に現れた。
だが航治は落ちなかった。手は手すりから離れ、脚は半ばまで水に浸かった状態のまま、マンションの壁面にぶら下がっていた。
見上げると、エミと彼の顔があった。二人がそれぞれ、航治の腕を上からがっしと握りしめ、うめきながら上へと持ち上げようとしていた。
航治は二人の助けを借り、ようやくマンションの壁をよじ登り終えると、手すりを越え、二人とともに倒れるようにして、外廊下の床にへたり込んだ。
恐怖から解放された安堵と、全身にわたった疲労とで、しばらくは礼の言葉も口にすることができなかった。
「それで――」
数十秒ほど経った後、エミが荒い息とともに言った。
「これからあたしたち、どうすればいいわけ?」
答えようとして、航治が口を開きかけたとき、突然、大きな振動がその場を襲った。
それは巨大な地震の前兆のような、激しい揺れだった。
エミが叫んだ。
「航治!あれってもしかして」
航治は答えた。
「そうだ。決壊だ。水がくる」
振動はすぐに持続的なものになり、やがてたちまちのうちに地鳴りのような低い音を伴った鳴動へと変化した。高まる轟音は、さっきまで天地を支配していた雨風の叫びをいともたやすく脇へと押しやってしまった。
航治は絶叫した。
「エミ! 上の階に走って!」
そして「彼」の前に背を向けしゃがみ、早口で言った。
「背中に乗って!」
ためらう彼に、航治はもう一度叫んだ。
「早くして!」
ようやく意を決したのか、彼の重みが一気に背中にかかってきた。航治は歯を食いしばりながら立ちあがると、エミの後を追って、上り階段へと廊下を駆け出した。
ほんのわずかの間経過しただけなのに、階段入口に辿り着いたときには、振動と轟音は航治の全身をゆさぶるほどに大きくなっていた。航治は首の後ろにひりつくような感覚を覚えながら、背負った彼の重みに膝を軋ませつつ、全力をふりしぼって階段を駆け上った。
二階分を上り終え、四階へとたどり着いた航治は、再びコンクリートの床に倒れ込んだ。
そのとき、頭の上でエミが叫んだ。
「航治、あれ!」
航治は荒い息で立ちあがると、エミの指さす方角を見た。
真下に、ついさっきまでいた、彼のアパートの屋根が見えた。その向こうを走る、元は道路だったらしき幅の水路を、高く、黒い壁が猛烈な勢いで迫りつつあった。ゆうに民家の二階を越す高さを持つ、津波のようなその濁流は、沿道に捨てられた車を巻き込み、玩具のように跳ね上げ、また電柱をねじ曲げ、なぎ倒しては電線を引きちぎり、商店の看板を吹き飛ばし、自販機を倒し、押し寄せてくると、眼下のアパートに激突した。
破れる壁と、折れる柱と、吹き飛ぶ窓ガラスの音が同時に響いたかと思うと、アパートは床と屋根とが、同時に逆方向にねじられたようにぐい、と歪み、次の瞬間、物凄まじい音響とともに、バラバラに吹き飛んでいた。
「――すごい」
震え声で航治が呟いたのと同時に、アパートを分解した濁流は、その勢いを保った状態で、航治たちのいるマンションに、どうん、という音を立ててぶつかった。今までの人生で一度も聴いたことのないような不気味な、金属の鈍い軋み音が響き、同時に廊下全体が大きく傾いだ。航治の横でエミが悲鳴をあげ、手すりにしがみついた。
やがて水音に混じって、人の声、叫びが、風に漂って聞こえてきた。
見下ろすと、濁流のただ中を、家々の屋根が、筏(いかだ)のように流されていく様子が眼に飛び込んできた。屋根に登れば助かると思ったのだろう、家族と思しき数人連れや、老人たちを乗せたまま流されていくものも少なくなかった。
茫然として見るうち、ライトの照らし出す円い光芒の中に、人の形をしたようなものが入ってきた。それは濁流に揉まれ、浮きつ沈みつしながら、一つ、また一つと、航治たちの眼下を流れていった。
「やめて」航治の耳に、エミの震え声が聞こえてきた。「やめてよ」
だがその言葉も虚しく、また一つの人形(ひとがた)が流れてきた。
一目でわかった。子供だった。
年の頃十歳ほどの少女が、背を上にして、屋根や流木などとともに、泥水の中を流されていった。
エミが悲鳴とともに叫んだ。
「やめてって、言ってるでしょう!」喚きながら、彼女はコンクリートの手すりに思いきり拳を叩きつけた。
やめて、やめて、と叫びながら、手すりにしがみつき、繰り返し拳を打ち続ける彼女を、航治は後ろから抱き留め、無理矢理引き剥がした。
「よせ! 手が壊れちゃうよ」
「うるさい、離せぇっ!」叫びながら、エミはなおも腕を振り回し続けた。
濁流は容易に止まなかった。マンションは揺れつづけ、汚水の流れる音は、天に響きつづけた。
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