第21話 青空
京成押上線八広駅の改札を出、階段を降りて外へ出ると、射るような陽が眼を刺した。
航治は眼の上に手をかざすと、脚を西に向け、荒川の土手を目指した。
コンクリートの階段を上って、上に立つ。あの夜と違って、足下は揺るぎない。
航治はしばらくの間、河川敷を見下ろした。
一面、緑の芝が、陽を受けて輝いていた。そこで歓声をあげて、子供たちが走り、追いかけ合っている。川はそのずっと下を、静かに、波ひとつ立てず、老人が散歩するほどの速さで、ゆっくりと流れていた。
「航治」呼ばれ、我にかえる。声のした方を見ると、エミが芝生の上に
「なにを呆っと突っ立ってるのよ」
「ああ、悪い悪い」微笑って、航治は歩き出す。エミの隣には「彼」が、両脚を川の方へと投げだし、座っていた。航治を見上げる顔に、はにかんだような笑みが浮かんでいた。二人とも、あの日と違ってこざっぱりとした服に身を包んでいた。
台風十四号と、それに伴う風雨は、関東地方に、家屋全壊、浸水、土砂崩れ、そして河川決壊などの大きな被害をもたらした。が、避難率が非常に高かったため、幸いにも死者行方不明者数は、予想されたものよりも軽微に終った。
また、おそらくは政府にとっての最大の憂事だっただろう、都心の水没も、地下鉄入口の完全封鎖や、遮断壁などの準備が速やかに進んだことによって、事前に試算されたほどの大被害は辛うじてまぬがれた。
それでも浸水による停電、ネットワーク・ダウンによる経済損失は、数十兆円にのぼり、完全な立ち直りには年単位の期間を要するであろうことが確実視されていた。
物理的に最も大きな被害を受けたのは、やはり、荒川・隅田川デルタ地帯で、決壊から一か月経った今でも、多くの人々が避難所や仮設住宅で先の見えぬ生活を強いられていた。
街はいまだ、あちこちが腐臭のする土砂で覆われ、風が吹くとそこから、乾いた土埃がもうもうと舞い上がった。
しかし、その災いの元凶であった荒川は、今航治たちの目の前で何事もなかったように、静かに流れをたたえていた。
航治は二人のそばに歩み寄ると、手をあげて挨拶をかわし、座った。
「どう? 最近避難所の暮らしは」
航治は彼に話しかけた。彼は頷き、
「ああ、思ったよりもずっとよくしてもらっているよ。でも」
「でも?」
「いつまでもいるわけにはいかないよね。やっぱり」
「そうか。まあ、そうかもしれないよね」
「うん。だからさ、戻ることにしたんだ。親元に」
「えっ」
思わず航治は驚きの声をあげた。なんだか意外なことを聞いた気がした。親についての話など、彼とのSNSのやり取りの中でも、その後の避難所での会話の中でも、あがったことなどなかったからだ。
「病気の発症以来、ほとんどまともに連絡とってなかったんだ。でもさ、今回のことで随分心配したらしくて、避難所まで探しに来られて、おいおい泣かれちゃったよ」
「そうか。じゃあ、帰らないわけにもいかないか」
「うん。でも、実家っていっても埼玉だし、親も君にすごく感謝しているから、絶対に遊びにきてよ」
「もちろん」
航治は笑った。
「絶対行くよ。君はゆっくり養生して、病気を良くしてよ」
「わかった」
彼は頷くと、
「航治君」
「何?」
「ありがとう。色々」
そう言って、破顔した。
大きく伸びをして、航治は芝生の上に仰向けに転がった。いつの間にか空を、蜻蛉(とんぼ)の群れが舞っていた。
「まるで別世界だね」エミが言った。
「うん」
「でも、あの日からつながっているんだよね」
「うん」
「で、航治。どうなのよ。あんたの家の方の居心地は」
うーん、と少し唸ってから、航治は口を開いた。
「母親は相変わらずヒステリックで過保護だね。でもどうしてかな。前よりもあんまり気にならなくなった」
「あんな凄い体験したから?」
「わからない」
航治は首を横に振った。
「でもまあ、それもあるんだろうね。家でも学校でもさ、なんか他人の言ってることを適当に流せるようになっちゃってさ」
「あんた、学校行ってるの?」
エミが驚いたような声で言った。
「見りゃわかるだろう。そんなの」
航治は両腕を広げて、制服姿を見せた。
「まあ、フルに行っているわけじゃないけどね。クラスの連中とか教師に腹が立ったら、すぐに教室出て外に行っちゃうし。今日なんかも一応午前の授業だけ出ておいてから、まっすぐここに来たんだよ」
「へえ。で、今日もこれからボランティア?」
「まあね。無駄に家で母親に付きまとわれているよりも、ずっと有意義だからね」
「そりゃそうか」
エミが肩をすくめた。
「でもあんた、よくあの瓦礫と泥の山を見る気になるわよね。あたしは駄目だ。あの夜のことを思い出しちゃって」
「それは、僕もそうだよ。でも、だからこそ、こうやって何度も来るのかもしれないね」
「どういう意味よ」
「上手く言えないんだけどさ。何だか本とかの好きな部分だけ抜き出して読んでさ、後の気に食わない部分は読まずに本棚に戻して逃げちゃってるみたいなさ、そういう居心地の悪い感じがして、嫌なんだ」
「ふうん」
エミが芝生をつまみながら言った。
「変わってないね。意地っ張りなところ」
「まあね」
そう言って航治はくすくすと笑った。
列車が東からやって来て、駅でしばらく停車した後、発車し、鉄橋を渡って西へと走り去って行った。航治は二人とともに、ぼんやりとそれを眺めた。
「そういえば折口さん、どうしてるのかな。あの後、避難所で会ったきりだけど」
「あたし、家に行ってきたよ」
「えっ?」
エミが下を向きながら言った。
「あいつの小石川の家に行ってきた。どうしてるか気になって」
航治は少しの間、口をあんぐりと開けていたが、次の瞬間、勢いよく笑い出した。エミが顔を真っ赤にして言った。
「ちょっと! 何がおかしいのよ」
「いや、ごめんごめん。あまりにも意外だったからさ。で、それで?」
エミはまだ不満げに頬を脹らませつつも、
「折口の娘って人が来てた。思ったよりずっと綺麗な人だった。折口もいて、やたら喜んでた」
「息子さんとは? 仲直りできたみたいだった?」
「さあ。多分そうなんじゃないの? 少なくとも喧嘩してるふうじゃなかったし」
「そうか。じゃあよかった」
「あと、さ」
「何?」
「あいつの息子に、家に居辛かったり、図書館が閉まって行き場がなくなった後には、いつでも、いくらでも、ここに泊まりに来いって言われた」
「そうか。よかったね」
しばらく経ってから、エミが小さく頷くのが見えた。
雲を引きながら、空を飛行機が横切っていくのが見えた。遠くかすかに、エンジンの音が聞こえた。
彼が小さく、やがてくっきりとした音量で、口笛を吹き始めた。
不思議なメロディだった。何の
突然、航治は悟る。彼の吹く口笛の旋律が、細かな周囲の音――子供たちの嬌声や、芝の間から聞こえる虫たちの声、空に筋を残して去っていく飛行機の音、そしてたゆたい流れる川の音――それらに含まれるメロディを、なぞったり、反復したりしつつ、展開を続けていることに。
列車がやって来て、鉄橋を渡って遠ざかっていくのにあわせて、彼のその即興のしらべはゆっくりとフェイドアウトし、やがて周囲の風景にとけるように消えていった。
航治はほっと息を吐くと、深く息を吸い込んだ。
芝の匂いがした。
彼を避難所まで送った後、今度はエミを送るため、航治は街を駅に向かって歩いた。
駅に人は少なかった。券売機で切符を買い、自動改札前まで来たとき、エミがゆっくりと立ち止まった。
そして振り返り、悪童のような笑みを浮かべつつ、航治の眼を見つめ、言った。
「実はあたしさ、前からずっと思ってたことがあるのよ」
「なんだい」
「あんたってさ、星新一のショートショートの登場人物みたいに、すごく特徴のない、平凡な顔をしているわよね」
「悪かったね」
少し傷ついて、航治は言った。エミはくすり、と笑い、
「だからさ、もしかしてこの間みたいな大災害がまたやってきて、挙げ句あんたがそれであっさりと死んじゃったりしたら、あたしたぶん、あんたの眼とか鼻とか口とか、ついでに声まで、簡単に忘れちゃうと思う」
「そりゃどうも」航治は肩をすくめた。
「でも、たった一つだけ、あんたに関して、これだけは忘れないだろうって思うことがある。これだけは、あたし直感でわかるのよ」
「何、それは」
エミは少しだけ口を噤むと、真顔になり、言った。
「あたし、あんたに会って損をした」
そして口元をゆるめ、
「前みたいに、他人を嫌いになれなくなった」
エミは航治の肩に手を載せると、顔を近づけて目を閉じ、航治の唇にそっと唇を合わせた。
航治は慌てて目を閉じると、ゆるく彼女の身体を抱きしめた。
数分後、エミは改札を通り、手を振ってプラットフォームへと降りていった。
航治は彼女の姿が視界から消えるまで、改札前に佇んでいたが、踵を返し、駅の出口へと歩きはじめた。
はじめはゆっくりと、やがては早足で。
(了)
参考文献
・洪水、天ニ漫(ミ)ツ
カスリーン台風の豪雨・関東平野をのみ込む
高崎 哲郎/著 講談社
・カスリーン台風 昭和22年関東水没から50年
茨城新聞社/〔ほか〕共同編集 埼玉新聞社出版局(発売)
・河川の科学 図解雑学
末次 忠司/著 ナツメ社
・これからの都市水害対応ハンドブック 役立つ41知恵!
末次 忠司/著 山海堂
・台風学入門 最新データによる傾向と対策
村山 貢司/著 山と溪谷社
・東京大洪水
高嶋 哲夫/著 集英社
雨天航行 フヒト @fuhito1009
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