8. 真陽の障がいへの認識

 真陽が小学生になるあたりでは。

 わりと毎年、兄たちの通っていた特別支援学校の行事を、両親とともに見学に行っていた。

 運動会、文化祭はもちろんのこと。

 土曜日にやっていた授業参観も、親と一緒に見学したのだって、一度や二度じゃなかった。


 そんなわけもあって。

 七瀬と同じくらいかには、兄たちの交友関係もなんとなく、聞いている。時がたった今でも、名前を覚えているひとも何人か。

 真陽の、当時のイメージでは。

二人の通った支援学校には、クラスの分け方は、年齢、性別や、障がいの度合いはバラバラだったかのように覚えている。

 ただ、その生徒の障がいの度合いや、元々の特性等によりなのか。生徒1人に、担当が2人以上付いていた子も少なくない。


「あさくん、ゆうちゃんの妹さん」

「音無さんのところの妹ちゃん」


 そんな感じで、比較的周りからも、真陽のことは知られていた。それが関係あるのかないのか。ふいに話かけられることもあった。

 おそらく、物心つく頃から連れられていたせいか。

 そのあたりは、真陽はあまり物怖じしない子どもだった。

 反応も、「ごくごく普通」に。

 学園内で

「こ、んにち、はぁ」

 なんて、たどたどしく声をかけられても。

「あ、こんにちは〜」

 と。いたって驚きも怯えなどもなく、挨拶していた。

 中には、大きな声で、独り言を言う子どもや、目がギョロギョロとした子どももいたような気がする。でも、それも特に「変なひと」とも「怖いな」という感情もなかった。

 それもおそらく。

 支援学校よりも前、医療センターでの「慣れ」ようなものもある。


 ――療育医療センター。

 そこにも、たくさんの「声」がある。

 泣き叫ぶような声が多いが、野太いうめき声も聞こえる。あとは、奇声とも言える叫び声に、「キャハハ」と笑う声も。

 そういうのをよく知っていることもあり、慣れっこだ。怖くはない。

 むしろ、成立していない会話すら逆に楽しんでいたふしもある。



 ――拝啓、神さまへ。

 どうして周りは「ふつう」で在りたがるんでしょう。

 どうして、神さまは「ふつう」と「そうでないもの」をつくったの?

 人はなんで、「違う」ことを恐れるのかな。

 本当は「みんなそれぞれ違う」のが、当たり前なのに。

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