4. ママと呼んだ日

 次男、悠也は幼い頃は。

「バナナは何色?」

 と聞かれても。大抵、正解の答えにはならなかった。

 だから、旭以上に

「これは黄色」

とか、

「この形はさんかく」、「目はどこ? 口はどこ?」

 そんな練習をしに、病院へ通い続けた。

 その中でも、一番の難関が

「歩くこと」だった。


 悠也は、生まれた時には「超」のつく未熟児だった。

 医師からは

「彼は一生、歩くことはないでしょう」

 それは、どん底に突き落とされたようなものだったろう。

 しかし、七瀬はそこで諦めなかった。

 七瀬の母、久絵の協力のもと、歩行訓練が成された。久絵は、毎日のように音無家へと通い続けた。彼女が旭のことを見ている間に、七瀬は悠也を連れて病院へと。

 それは、長い時を有した。

 しかしそれは。旭と七瀬の時間があまり設けられなかったことも指す。

 そんな、ある日に。



 いつも通り、七瀬の実家から旭を迎えに行った時のこと。

 その日はなぜか、家へ帰ることを旭がぐずった。

 言葉は出ず、首を振ってイヤイヤと主張する旭に、悠也のことで多少疲れもあった七瀬は。

「……わかったよ。また明日、迎えにくるから」

 旭が思っていたよりも、あっさりとした返答なのだった。

 改札を抜けて、去っていく母と弟の背中。

 その時、ふと旭は言葉を紡いだ。

 ――ママ、と。

 おそらく、その言葉は最初で最後だったろう。

 その切なさの残る声を聞いたのは、七瀬でも悠也でもなく、久絵ただ一人だった。


 それ以降、旭が言葉をちゃんと話したのを、少なくとも真陽は一度も聞いたことはない。


 子どもの頃、「寂しい」と思ったことがあるのは、なにも真陽だけでもなかったのだと、ふと気づく。

 きっと一生。

 七瀬の耳に「ママ」という、旭の声が届けられることは、無いのだろう。

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