07. 魔術の練習
「いい天気」
リビングから庭を眺め、カスミは吐息を漏らした。
魔導具で開いた壁は広く、外からの風が爽やかにカスミの黒髪を揺らす。せっかくの開放的な庭を前にして、いつか花で彩るときを待ち遠しく思いながら。
転生生活の二日目は、極めて穏やかに始まった。明かりを点けっぱなしで寝てしまっていたことを除いて。
それでも泥のように眠ったのはよほど疲れていたということなのだろう。夢を見る暇すらなかった。
ただ、起きてから一つ驚いたことがある。転生前の癖で天気予報を見ようと
この違いは必要なデータの違いだとカスミは推測している。丸一日を過ごしたことで時間に関するデータは充実し、不足している気象情報は未だ不明ということなのではないか。
だから時間はわかっても日付などはわからない。そして時間も詳細というわけではなく、分秒は表記されていない。記されているのは言葉通り時間だけということになる。
今はだいたい朝の七時頃。朝食にはちょうど良い時間だろう。
「朝食って言ってもコレだけどね」
たまごサラダ味のシリアルバーを齧りながらポツリとぼやく。
非常食があるのは助かる。これすら無ければ朝からまた干し肉と格闘する羽目になっていただろう。しかし味気なく思うのも事実である。
シリアルバーの味の幅は広い。他にもチョコレート味、アーモンド味、ピザ・マルゲリータ味、うな重味、七味唐辛子味など、変わり種を含めて何十種類と用意されている。
それでも普通の料理を食べたいと思うのだ。
「小麦粉はあるんだから、やっぱりパンには挑戦してみようかな。水で捏ねて……少し寝かせればいいんだっけ? あと……ドライイースト? ん~、一回くらい作っておけばよかったな」
聞きかじったような作り方しか知らず失敗するのは目に見えている。だとしても少しでも美味しい食事のためと思えば挑戦する価値はあるはずだ。
カスミは今後の食生活改善に
これから先を考えれば考えるほど課題は増えていく。しかしそれで今日これから行うことの重要度が下がるわけでもない。何と言っても待望の魔術の練習なのだから。
頭の中で手順をおさらいしながらカスミは鼻歌交じりに庭に出た。昨日もお世話になった杖を手に携えて。
前日に『初級魔術入門書』を読み込んでいたおかげで練習の流れは把握している。
まずは魔術の練習に適した場所を探す必要があるだろう。もうカスミにもここが自分の家という認識が芽生え始めているが、昨日のドタバタのせいで庭はベランダと門がある一面しか見ていないのだ。
柵の外にもチラチラと意識を払いながら周辺を見て回る。またぞろ好戦的なウサギにでも出くわしたら堪ったものではない。
シェルターである敷地内ならば安全と知りつつも、草葉が風にがさりと揺れるたびに肩が跳ねてしまうのは、一度刷り込まれた恐怖が一夜で消え去るはずもないという表れである。
ともあれ、無事に回った庭の四方には危険な生物はおろか取り立てて変わった物すら無いことがわかった。せいぜいがキッチンにある勝手口を外側から確認したくらいで、これならどこで練習しても大して変わらないだろう。
そうして選んだのは玄関辺りの横庭。家の出入りに近く、門や柵の外の様子も伺えるが、ベランダや門に続く小道には影響が出そうにない場所だ。
「まあ、あんまり周囲の影響は考えなくていいんだろうけど。〝
インターフェイスによって管理されたその領域は外部に与える影響を任意に選択できる隔離された空間となり、さらには設置した直後の時点まで物や生物の状態を復元できるというのだから、魔術の練習に関してもこれ以上無い環境と言える。
前世ですら存在を知っているだけで見たこともなかった機能を使うことに少し緊張しながらも、カスミが
見たところ出入り口は無いらしい。試しに軽く押すように膜へと触れてみたカスミの手は、薄い何かが指先から肌を撫でるくすぐったい感触を残してほとんど素通りすることができてしまった。
そのまま身体ごと踏み入るのも実にあっさりとしたもので、これで電脳世界ならではの現実離れした機能が使用できるようになったとは思えないくらいだ。
しばし外へと手を出し入れしてなんとなく癖になる通過時の感触を堪能していたカスミだったが、いつまでもそうしてばかりはいられないと気持ちを切り替え
これからが本番。魔術の練習だ。
カスミは小さく弾む鼓動を大きな深呼吸で誤魔化すと、脇に浮かせていた
何事に関しても姿勢というのは大事である。魔術を使う場合は特に自然体が最適とされているらしい。
これからまず行うのは魔術を扱う第一歩たる〝魔力操作〟という行為だ。普段は意識せず体内を巡っている魔力の濃度を上げる、魔術の基本にして重要な行程なのだそうだ。
入門書の指南にしてはあまりにも感覚的なその説明に、最初に読んだときこそ不安を覚えたもののの、いざ魔術に挑戦する段になってみるとそのような不安はほとんど感じずに済んでいた。なぜなら、昨日の内に散々練習できたからだ。
確かに魔術のための魔力操作には初挑戦だが、魔力操作自体は軽度ながら魔導具の起動にも必要であり、つまりは昨日たくさん経験した感覚を今ここで再現すれば良いだけである。
魔導具で何度もやったように、けれどそれよりも強く全身に魔力が巡るイメージを頭に浮かべる。もっとたくさん、もっと濃くなるようにと。
そうやって集中していると、何時しか身体が分厚い空気の層に包まれたかのような感覚を得た。熱くも冷たくもなく、重さも無い。ただ何かに守られているような、そこはかとない安心感がある。
カスミは直感した。あっけなくも魔力操作が成功し、身体中を濃い魔力が駆け巡っているのだと。
思わずカスミの顔にニンマリと笑みが浮ぶ。気を緩めるのは良くないだろうが、何とも順調だと思うと止められない。集中力が途切れる前に次の行程に進まなければ。
気合で顔を引き締めつつ片目を開けチラリと入門書を見る。手に持たずに済む
逸る気持ちを抑えながら暗記が間違っていないことを慎重に確認し、改めて目を閉じる。それから杖を両手で持ち、石突で芝生に立たせるように軽く支える。
昨日は半ば冗談で言っていたことだが、なんと杖を魔術に使うという考えは正しかったようだ。必ずしも無くてはならないというわけではないが、体内の魔力を効率的に外に放出する、謂わば発信器のような役割があるらしい。
カスミの体内で作られた魔力が手を通じ、杖を伝い、魔法へと変換される時を今か今かと待っている。それを許すのは──
「〝我が望むは輝きの灯火。精霊よ、導きをここに
詠唱。魔術を発動させるための特定の言葉だ。
最後の魔術名まで紡ぎ終わると同時、カスミは体内を巡っていた魔力がどっと薄くなったように感じた。きっと魔法に費やされたに違いない。
そっと目を開いてみれば、太陽に負けじとばかりに輝く光球が目の前に浮かんでいた。見えはせずとも自分の魔力が杖を通してその光球へと流れているのがわかる。
「できた! 一発で成功したっ!」
明かりの魔導具と同じ、魔力を光球へと変じる魔法。それを魔導具ではなく魔術で実現させたのだ。
魔導具を使えば事足りるのだから無意味な魔術だろうか。
そうではない。魔術であれば場所も選ばず使用できるし、熟達すれば燃費も魔術の方が良くなるとのことだ。加えて注ぐ魔力量で光球の大きさを調節できるのだから、魔術として使えるようになる価値は十二分にある。
「いちばん簡単な魔術だって言ってもこんなあっさり使えちゃうなんて、わたしもしかして才能あるのかな? ふへへっ。これでわたしも今日から魔法使いってね! ……あ、使うのは魔術だから魔術使い? 魔術師? ふへへへへっ」
カスミの魔術で生まれた煌々と輝く光球は魔導具で作ったそれよりも大きい。必要以上に魔力を注いでしまったせいで無駄に大きく作ってしまった。
しかしそんなことは初挑戦で成功させたという事実に比べれば些細でしかなく、小躍りでもしようかというほどにカスミは
「よーし。【
何度も同じ魔術を唱えると、カスミの周りに次々と光球が浮かび上がっていく。その数が五を越えた辺りで出てくる光球が急に小さくなり、十を数える前に出てくることすらなくなった。
回数や時間で効果が薄れていくが、一度詠唱するとしばらく詠唱を省略できるというのは本当のようだ。魔力効率が悪いため調子に乗っていると大量に魔力を消耗してしまうらしいが。
また、基本的に魔術というのは発動した瞬間に最も多くの魔力を費やすが、そのまま維持する場合にも魔力を必要とし続けるのだそうだ。今も維持しているすべての【
このままでは
魔術は使うよりも消す方がよっぽど簡単らしい。すべて消すのに手間はかからなかった。
そうしてからもう一度【
しかし、とカスミは詠唱のために開きかけた口を不意に噤み、もごもごと舌先で言葉を転がし始める。できるだけ考えないようにしていたのだが、実際に詠唱を一度経験したおかげで改めて認識してしまったことが一つ。
「詠唱ってなんでこんな変な言葉でできてるんだろ。〝我〟とか〝給え〟なんて口にする日がくるなんて……恥ずかしすぎるよ……」
台詞が決められている演劇や、コスプレした人物の言葉ならば問題ない。他人の言葉を流れの中で代弁しているに過ぎないからだ。
しかし詠唱は決まった言葉とはいえ、すべて魔術を欲した自分の意志で発するものだ。一般的な感覚の持ち主であるカスミには少々ハードルの高い言葉遣いである。
「代わりに、そうだな……〝わたしは明るくして欲しいです。精霊さん、明るい球をください――【
物は試しと意味はできるだけそのままに言葉遣いだけを崩してみる。
結果として、魔術は成功したが成果は失敗だった。できあがった光球が米粒くらいに小さいのだ。先ほどより必要な魔力が多かったにも関わらず。
使えなくはないが効率はかなり悪いと思っていいだろう。
「つまりあの恥ずかしい言葉遣いはそのまま必要なわけね。意味が通じればそれでいいってわけじゃないんだ。うぅ……そっかぁ……」
詠唱が必要ならば仕方ない。仕方ないのだが、どうしても恥ずかしく思うことまでは避けられない。前世の記憶が色濃いカスミに取ってはマンガやアニメのような言い回しでしかないからだ。
そんな羞恥に耐えかねたカスミは空を仰ぎ呟いた。「コスプレみたいなもの。これはコスプレみたいなもの」と。
魔術の練習はそうして時折自分を誤魔化しながら続けられた。
【
カスミは勢いのままに片っ端から魔術に挑戦し、様々な魔法を発現させていった。火柱を作っては水で消し、土を盛り上げては風で崩す。
これが何とも楽しい時間であった。
前世の電脳世界も現実では不可能な技術をいろいろと使えたものだ。しかし一部の例外──シェルターのような生命に関わるもの──を除き、物質を瞬時に作り出すようなことはできなかった。
それはリーセにも説明した通り、電脳世界が人類の進化を促すことを目的としており、堕落させることと相反していたからに他ならない。平たく言えば、創作的な活動に脳を使うための場として整えられていたということである。
だから自分の意志でいろいろな超常現象を起こす魔術は、インターフェイスとはまた別種の新鮮な面白みがあるのだ。カスミはそれを思う存分満喫していた。
時間を忘れ、昼食時に気付かないほどに。
それに待ったをかけたのは枯渇し始めた魔力だった。
「ん……あ、ちょっと魔力が減ってきたかな。まだ余裕はありそうだけど、ちょっと休憩したほうがいいかも。もうすぐお昼だし……ってもう一時!? あれ、わたしパンを作ってみるつもりだったよね。ん~……さすがに今から作るのは無理かぁ」
昼食を逃していると気付いた途端にお腹が空腹を思い出してしまった。簡単にでもひとまず何かお腹に入れたい。
カスミは杖を下ろし体内の魔力を抑えると、
もちろん今日の練習を終える時には
家に戻り身体の埃を落とすと、ようやく昼食の準備だ。
とは言っても、今から準備して食べられる物など昨夜の夕食と同じような物しかない。干し肉のスープとシリアルバー、そしてサプリメントである。
昨日と同じメニューなのだから要領も同じ。干し肉を切り分けてからスープに入れるという改善はあったし、シリアルバーはミートソース味になったが。
「やっぱりご飯事情は早めに解決しないとダメだね。魔術の練習もとりあえず堪能できたし、魔力が減ってるから無理もできないし。先にちょっとパンにチャレンジしてみよう。他にも何か作れないか考えなきゃ」
もそもそとシリアルバーを口に入れながら、後回しにしていた食生活の改善に着手することに決める。
非常食が手に入ることで危機感が薄くなっているのかもしれないが、本来は外の危険性を身に沁みて理解した時点で行動すべきだった。いくら魔術が使ってみたかったとはいえ反省しなければならない。
しかし、後回しにしたからこそできることもある。
「料理に魔術って使えるのかな。火とか水とか使えたらすごい便利そうなんだよね」
そう、料理に魔術を使ってみようという試みである。
口にした通り便利そうだという思いつきによるものだが、失敗したとしても問題はない。本当の理由は、単に新しく覚えた魔術を使ってみたいというだけなのだから。
お昼を食べながらゆっくりと休憩したことで魔力も回復しているはずだ。無闇に連発しなければ問題ないだろう。
そう判断したカスミは食事を終えると、椅子からひらりと飛び降りた。
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