09. 電脳魔法
目覚めはさざめく木々の音と共にあった。
森の上を風が走り回っているような騒がしさに追い立てられ、カスミは思考よりも先に目を開ける。
「ん……さむっ……」
目の前にはソファの背もたれ。少しでも身体を冷やさないためにか、無意識に胎児のように丸くなっていたようだ。
肌を這う冷気を嫌いローブの裾を手繰り寄せ隙間を閉じると、ぐるりと顔を向け真っ暗な天井を見上げてみる。
明かり一つないリビングは闇に良いままに蹂躙されており、吐く息が白いかどうかもわからない。
こんなに暗いとなると、今は何時だろうか。身体を起こそうとし、節々の痛みに口を歪める。関節から錆びたブリキのような音が聞こえる気がした。
変に身体が固まるくらいは寝てしまっていたようだ。それに気付くと余計に時間が気になり
あの著しい魔力消耗が頭にあった。
今朝までは何の疑いもなく前世同様ただ便利なツールとして使っていたインターフェイスだが、命を落としかけた今となっては急に危険物のように思えてしまう。普通に歩いていた道が地雷原だったような心境だ。
それでもインターフェイスを今後一切使わないという選択肢はない。
カスミは居住まいを正すと冷え切った額の汗を袖で拭った。そして一度大きく息を吸い、大きく吐く。
「……よし。【
口に出して呼び出す。するといつも通り、本の形をした
それでもカスミは何も動こうとはしなかった。じっと目を伏せ、膝の上で強く手を握ったまま。
「――はぁ。だいじょぶ、かな?」
大きな吐息に安堵を乗せたのは、頭の中でたっぷり六十をカウントした後だ。
魔力の扱いに慣れてきたからか、はたまた危険域まで枯渇した最中に実感したからか、カスミは自分の体内にある魔力という存在が今までよりも如実にわかるようになっていた。
その感覚によると今は三割も減っておらず、そこから大きく減少していく様子もない。まずは安全と見て良いだろう。
それでも完全に警戒は解かないまま、自己主張するようにほんのりと弱光を纏う
昼の準備を始めた時間を時間を考えると、正味三時間ほど寝ていたことになるだろうか。その間に魔力が回復し、魔力枯渇の症状もさっぱりと消えて無くなってくれたようだ。代わりに身体は固まってしまったが。
「でも、まだ夕方にしては暗すぎない? 真夜中かと思った」
時間にそぐわない暗さに首を傾げつつ、魔導具により大きく開いたままだった壁からベランダの先を見やる。
視界を塗り潰す暗闇に紛れ、薄ぼんやりと蠢くのは影絵のような木々。葉擦れのざわめきはどこか獣の唸り声にも似ていて、何かに急き立てられているように絶え間なく取り囲んでいる。ひたすらに、ざわざわと取り巻くその音は何かが迫りくる予兆にすら思えて仕方ない。
得体の知れない暗闇に取り残され、カスミは不意にこの家には自分しかないという事実を思い出す。周囲に逃げ場が無いことも。
とりあえず明かりだ。明かりが欲しい。
今までとはまた別の寒気を覚えたカスミは、両腕を擦りながら目の前にある暖炉へと近寄った。暗く足元が見えないものの、目的の青い石はすぐ目の前で薄っすらと存在を主張しているのだから問題はない。
レンガ造りの暖炉に埋まるそれに近づき指で触れ、魔力を込める。この程度なら大した魔力を使わないから大丈夫、と自分自身に言い聞かせながら。
魔力を吸った魔導具はたちまち発動し、暖炉の中に静かに火の玉を落とした。火付けの魔導具だ。突然生まれた暖かみのある灯火が鼻先を静かに撫でる。
しかし使っていなかった暖炉には薪も炭も無く、どこにも手を広げられなかった火の玉は間もなく仄かな揺らめきだけを残して忽然と消え去った。
そうなれば残るのは再びの暗闇しかない。
「えっと……どうしよ」
明かりならば一番最初に練習した魔術の【
料理の際に試したように、杖は無くとも魔術の使用は可能である。杖はあくまで補助具であり、効率は悪くなるが素手で魔術を使おうと思えば使えるからだ。
だが普段ならいざ知らず、魔力不足で倒れた直後に魔力を大きく消費するのには不安がある。できる限り無駄な消耗を抑えたいカスミとしては、魔導具の使用程度ならいざ知らず、未だ慣れたとは言えない素手での魔術を行使する気にはどうしてもなれなかった。
ではどうするか。それでもこのまま魔術を使うか、暗い中で杖を探し歩くか。いや、それなら直接明かりの魔導具を探してしまうのが早いかもしれない。
そうカスミが考え込んでいる
「え、ええ? なんで急に明るくなってるの……?」
カスミが何をするまでもなく、なんと辺りがどんどんと明るくなっていくではないか。
昼間には及ばずとも今までよりは何倍も明るい光が、家中の窓や大きく開いたベランダから差し込み部屋の中に温もりを注いでいく。まるで冬に差し込む陽だまりのように。
今まで夕方にしては暗すぎると不思議に思っていたが、僅かの間に明るくなるのはそれに輪をかけて不思議だろう。
いったい何が起こっているのか見当も付かず、カスミは雲の上を歩くような足取りでベランダへと出た。室内履きのままであることを意にも介さず。
そうして急激に明るくなった空を眺めてみるも太陽は見当たらない。影の向きから察するに、どうやら今の時間は家の反対側にあるようだ。
カスミは自分の背よりも高いベランダの手摺りに身を乗り出し、遠くへと目を向けてみる。他に異変はないかと。
玄関先まで繋がるこの細長いベランダの真上には屋根がかかっているし、すぐ側には家の角を丸々飲み込んだ巨木がそびえ立っていて、やたらと空が狭い。まともに見える範囲はほとんど正面の庭と森の表層程度と言える。
その森が、いつの間にか静かになっていた。ざわめきは鳴りを潜め、涼やかに葉を揺らしている。
そして目に入ったのは、この家の庭ごと森を包み込むが如く落ちる大きな影。濃く黒い水溜まりのようなそれが、滑るように遠ざかっていく。
「あの影がさっきまで暗かった原因かな……なんだろ? 日蝕くらいしか思い浮かばないけど」
直感で影を暗闇と結びつけたカスミだったが、その正体が何かまではわからない。カスミの知識に照らし合わせれば日蝕が一番近いのだが、異世界にあっては確証が得られない。
そうして考えている間にも進み続ける影は、庭を離れ木柵を跨ぎ、音も無く樹上へと登っていったことで視界から消えてしまった。
結局残ったのは何の変哲もない夕暮れ時。どんどんと茜色を帯びていく空の、どこか郷愁を誘う僅かなひと時だ。
遠くから届く知らない鳥の甲高い鳴き声を聞きながら、カスミはこれが本来のこの時間の風景なのだろうと、ふっと息を吐いた。
手摺りに身体を預けたまま暮れゆく空をただ眺める。
「なんだかよくわかんないけど、異世界だしこういう不思議なこともあるってことね。明るくなったし暖かくもなったから良かったけど」
念のため
今は何の手掛かりも無いが、次に同じ現象に遭遇したらわかることがあるかもしれない。
カスミは不思議の解明を別の機会に譲ると部屋に戻り、壁を下ろしてから魔導具で明かりを灯した。そうしてからソファで一息つき、くすりと笑う。
「なんか今日はずっとひとりでバタバタしてた気がする」
思い返してみれば落ち着きのない一日だった。魔術の練習から始まり、料理から魔力枯渇、最後に影の現象と気が休まる時がなかったのだ。
アームレストに絡みつくように寄りかかり、暖炉に目を向ける。魔導具が使えても火を点けることすらできなかった暖炉に。
「やっぱり、わたしが生きていくには魔術とインターフェイスが無いとダメそうだね」
離れたところに転がっていた杖に視線を留めながら、カスミはそう呟いた。
元からわかっていたことだ。それでも敢えて口にすることで自分に覚悟を決めさせる。魔力消耗を恐れている場合ではないぞ、と。
カスミはソファからぴょんと飛び降り杖を拾い上げ、
「だいじょぶ。魔力はまだいっぱい残ってるはず……せいっ」
躊躇する前に勢いに任せて水のペットボトルを生成する。魔力の残量をしっかり把握しながら。
その甲斐あって生成に合わせて体内の魔力が減る瞬間を間違いなく確認できた。
減ったのは一割の更に半分程度だが、それは万全の状態からでも十本も生成すると魔力不足の症状が始まるという意味でもある。
倒れる前に汗を掻いたからだろう。せっかく生成したからとその水を飲んでみると思ったより喉が乾いていたようで、カスミは思わずゴクゴクと喉を鳴らして飲み干していった。頭の中である仮説を立てながら。
その後も魔力と相談して休みを挟みながらインターフェイスを確かめていく。シリアルバーや塩、砂糖といった非常食の生成は当然のこと、救急用品の生成や
そうしてなんとか魔力を不足させることなく集められた情報は、カスミの仮説を裏付ける結果であった。
「やっぱり。
パン作りで使用した水球の魔術を思い出す。あれも維持するのに魔力が必要だったため途中で消したのだ。使っている間魔力を消費するのは、
そして水を消した途端に小麦粉が乾いた事実も無視はできない。水として残すためには状態変化させる必要があり、それには多量の魔力が必要なのだ。
それらの事実から推測すると、支援物資はカスミの魔力が状態変化したことで物質として固定されているのではないか。そうでもなければ
「うーん……そう考えると辻褄あっちゃうんだよね。電脳世界のインターフェイスがどうしてこの世界で使えるか不思議だったけど、魔法になったってことなら納得できるし。でもそうすると……ものすごくまずいような」
魔力を用いて電脳世界のインターフェイスを再現する法則、さしずめ〝電脳魔法〟がこの世界にあるのだとしたら、それを誕生させたのはカスミに他ならないだろう。
しかし新しい魔法として生まれたことが果たして良いことなのか悪いことなのか、今のカスミには判断が付かなかった。不安定と言われたこの世界にどのような影響が出るのかもまた不明だ。
「インターフェイスをよく知らないリーセが、どういうつもりで転生してから使えるようにしたのかわからないし……いや、リーセにそのつもりはなかった可能性もあるのか……うん。よっぽど信頼できる人とか緊急時じゃないと人前では使わないようにしよう。誰かに会う前にそこに気づけたのはよかったのかも」
何が起きるのか予想が付かないならば、自分から広めるような真似は極力避けるべきだろう。自分ひとりならいざ知らず、不特定多数が
とはいえ、それもこれも森を出るか、この家に誰かが訪ねてきてくれないと意味の無い決心だが。
それでも魔力と
時間もいい頃合いだろうし、夕食にしよう。自分で作ったパンを楽しみにしていたカスミはそう決めると迷わずキッチンに向かった。
寝かせていた、あるいは放置していたとも言うべきパン種の様子はあまり変化がない。どうも思ったよりも膨らんでいないようだ。
指で突いてみても弾力があまりなく、むしろ乾燥して固くなってしまっている気さえする。
「もしかして寝かせすぎちゃったかな」
どれくらい寝かせるか、そもそも寝かせるとはこれでいいのかもわかっていない。初めての挑戦で成功する方がおかしいし、失敗するという前提で作ったパンだ。
だとしても、もしかしたらという期待が無かったわけではない。カスミはパン種を何度も指で突きつつ、口を尖らせた。
少し水を足してもう一度捏ねながら、とりあえず一度焼いてみることにする。
「焼いてみないと何が悪かったかわからないもんね。でも膨らまない小麦粉の塊なら焼くより茹でたほうが美味しかったりして。うどんみたいに……あっ」
自らの言葉に手が止まる。石窯があるせいか小麦粉を見た瞬間からパンを作ろうとしか考えていなかったが、同じ小麦粉から作れるうどんのようなものならもっと簡単なのではないか。詳しい作り方は覚えていないが、小麦粉を捏ねて寝かせるところまでは間違いなかったはずだ。むしろ今カスミの手の中にある膨らみそこねた小麦粉の塊はパンよりもうどんの方が相応しく思える。
カスミは思いついた勢いのまま調理台に小麦粉を撒くと、その上にパン種改めうどん生地を伸ばして広げた。これを切り分けて麺の形にすればいいのだろう。
ただ、その前に麺棒で叩いたり伸ばしたりするのを何かの映像で見た覚えがある。麺棒はさすがに支援物資には含まれておらず、代用品を探すしか無い。身の回りで使えそうな棒状の道具など杖くらいしか無いが、しっかりと洗えば平気だろうか。
洗ったとして魔術用の杖をこんなことに使って良いのだろうかと思わなくもないが、食生活改善のためならばと目を瞑り、うどん生地を伸ばしていく。
具はおなじみの干し肉。ただし、塩気を落としてから表面を炙り、一口大に切ったもの。これで香ばしさも出れば昨夜のスープよりも美味しくなるかもしれない。
そこに太く切ったうどんを茹でて合わせれば完成だ。箸が無いためフォークで巻き取るように食べる必要があるが、食べられそうなだけで御の字と言える。
出来上がった太さが不揃いのうどんは何が悪かったのかあまりコシがなかったが、ただのスープよりは随分と食べごたえがあった。
もう少し研究すればもっと満足できるだろう。うどんだけでは飽きるので、同時にパンの作り方もしっかり考えていかなければならないが。
それでも昨日よりは進んでいる。
料理の話だけではない。魔術を覚えた。魔術の応用も試した。そして
こうやって毎日何かを積み重ねていけば、二度目の人生も悪くはならないかもしれない。
これからの日々に思いを馳せながら、カスミは手を合わせて独り「ごちそうさまでした」と呟いた。
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