08. 魔術で料理

 目の前には小麦粉を山にした器が一つ。

 運び込んだ椅子を踏み台にしたカスミはキッチンで両腕を組んでいた。まずはどうすれば良いのだろうか、と。

 これから始めるのはただの料理ではない。魔術を利用した料理だ。

 カスミが練習した魔術は初歩ゆえにまだまだ種類が少なく、そうそう都合良く便利使いできるものばかりでもない。だがその中にも料理に使えそうだと思える魔術はあるもので、そうしたいくつかには練習中から目星を付けていた。


「とりあえずエプロンが無いし服が汚れるのも問題よね。うん。やっぱり魔術で壁を作るのはアリだと思う」


 黒いローブに白い小麦粉は天敵だ。衛生的な面からも着替えの無い一張羅でそのまま料理をするわけにはいかないだろう。

 カスミは覚えたばかりの魔術を頭に思い浮かべると、魔力を操作しながら杖を片手に詠唱を始めた。


「〝あまねく風は不変にあらず。らば集いて不変たれ――【風壁ウエリエ】〟」


 魔力を消費した感覚がありながら、一見して周囲には何も魔法らしき現象が起きていない。それもそのはず、カスミが唱えた魔術は空気による壁を作るもので、そもそも目に見えるはずがないのだ。

 壁と言っても厚みは指の幅ほどしかなく、微かに風の音が聞こえる程度で存在感はほとんど無い。効果も厚みなりで、カスミが練習で試したところ、良くて山なりに投げた小石が弾かれる程度だった。それでも飛び散る小麦粉を防止する目的には有用だろう。

 その風の壁にカスミが手を伸ばすと、やんわりと押し返されるような感触があった。


「たしか、わたしの魔力なら素通りできるはず、なんだよね。手のところに魔力を集めれば……」


 魔力操作にはカスミも少しずつ慣れてきている。熟練者のように一瞬で自在にとまではいかないが、素早く集中し風の壁に当てた手を中心に魔力を高めていく。

 魔力が充分に強くなったと実感できてから、風の壁に触れる手をもう一歩押し出してみる。すると、抵抗を受けることなくそのまま腕が突き抜け飛び出た。

 魔法を構成する自分の魔力と体内の魔力同士が反発するのを止めたことで貫通したのだ。


「よしっ。これでエプロン代わり、と。名付けて〝魔法エプロン〟! それとも〝魔術エプロン〟? エプロンを作ってる現象は魔法だけど、その魔法を引き起こしたのは魔術だから……もうっ、ややこしい!」


 カスミは適当な独り言を零しつつ杖を適当な場所に立て掛け、シェルターの支援物資から救急用品一覧を呼び出した。

 救急箱を手元に生成することもできるが、ここでは必要ない。使いたいのは採血時に使う駆血帯と呼ばれるゴムバンドだけだ。

 カスミが着ているローブはゆったりとしているし、特に袖の部分など大きく広がっている。料理するには不向きすぎる服装なのは明白で、その対策として思いついたのがこの駆血帯をゴム留め代わりに使うことだった。

 捲くった袖がしっかりと留められたことを確認してから、改めて風の壁に腕を通すせばいよいよ料理の開始だ。


 まずは小麦粉を水で捏ねていく。カスミのひどく曖昧な記憶によればそれでパン種になるはずだ。分量まではわからないが。


「最初から多いより、少なくて足していく方がいいよね」


 早速次の魔術の出番だ。キッチンには水の魔導具が用意されているが、カスミは魔力に若干の余裕がある今のうちに試してみるつもりだった。

 素手で魔術を使うには杖などの補助具を用いた場合に比べて魔力や集中力を多く必要とする。杖を置いた時から【風壁ウエリエ】の維持だけでも明確な負担を感じていたが、その上で別の魔術を使うのは中々に難易度が高いようだ。

 カスミは今までよりも魔力操作がぎこちなくなっていることを実感しつつも、これも練習だと自分に言い聞かせながら挑戦を続け、ようやく魔術に足るだけの魔力が集まったと確信すると慌てないようにゆっくりと口を開いた。


「〝淀むことなく、沈むことなく、流るることなく。咲かずに揺蕩たゆたえ雫の実――【水球シェロラ】〟」


 詠唱を終えて現れたのは人の頭よりも一回りほど大きな水球。カスミの魔力から作られた、透明で清らかな水だ。

 その水をコップで掬い取り器に注いでいく。一度に大量に入れないよう慎重に。

 そうしながら合間に手で捏ねてみる。泥遊びをしているような感触が忘れていた童心をくすぐるが、今の年齢だと冗談にならないのでできるだけ真面目を心掛けて。

 何度か水を加えたことで少し形になってきたので、捏ねるのに集中するため【水球シェロラ】を消す。魔力の消費という意味でも、必要ない魔法を出しておく理由はない。

 しかし、ここで予想外の出来事が起きた。


「あれっ!? 何で乾いちゃったの!?」


 充分に水分を含んでいたはずの小麦粉が一瞬にしてしっとり程度にまで戻ってしまったのだ。魔法が消えると同時に。

 これはいったいどういうことか。

 今のカスミに取って、魔法関連の疑問に頼れるのは入門書だけ。この現象も説明しているページがないか探してみると、後半に魔法の特性として記述されているのを見つけた。


『魔法とは魔力や魔素が性質を変えただけのものであるため、その構成魔力が消えてしまえば魔法現象自体も消滅する。ただし魔法が及ぼした二次的な影響については魔力と直接関わりがなく、魔法の有無に左右されない。魔法の火で燃やされた物は燃えたままであり、魔法で隆起した土は隆起したままである。』


 魔術の練習中はあまりに自然すぎて気にしていなかったが、こうして本で解説されるとカスミは大いに納得した。魔術で作った水が消えれば、その水が与えていた水分が消えるのも道理だ。

 魔法の効果を残したければ別の何かに影響を与えておくか、元から有るものを操作するような魔術を使うべきだろう。いくら小麦粉を魔法で作った水で捏ねようとも意味がないわけだ。


 解説の続きにはさらにこんなことも書かれていた。


『二次影響以外にも、魔法が状態変化すると現象を残す場合がある。例として、魔法で作った水を蒸発させると蒸気として残り、逆に凍らせると氷として残る。しかし魔法が状態変化する際には多量の魔力を必要とするため、最初から蒸気や氷を作った方が何十倍も効率的である。』


 小麦粉が完全に乾いたわけでなく微妙な湿り気を残しているのはこの状態変化が理由だと考えられる。魔法の水のごく一部が小麦粉と結びついたのだ。

 その結びつく量を増やしていけばパン種に充分な水分を残すことができるかもしれないが、本に書かれている通り効率が極端に悪いのであれば試してみる価値は無い。ここには水の魔導具もあるのだから。


 せっかく魔術を応用するという面白そうな料理方法に取り組んだものの、結果としてはあまり芳しいものではなかった。このままでは魔法エプロンだけが収穫となりそうだ。

 残念に思いつつも気を取り直し、備え付けの魔導具で出した水を少しずつ足しながら小麦粉を捏ねていく。

 しかしこれが思った以上の重労働だった。なにせ六歳児の腕力と体力なのだ。

 さらに困ったことに頑張っている割にはあまり弾力が生まれない。捏ねても捏ねても泥遊びの域を出ないままである。


「なんだろう。何か足りないのかな。砂糖、塩、ドライイースト、ベーキングパウダー、ホットケーキミックス……あ、小麦粉が悪いっていう可能性もあるか」


 思いつく限りの原因を挙げていくも、正しい作り方を知らないのだから心当たりがあるはずもない。

 考えるだけ無駄と悟ったカスミは自分の勘を頼りに何とかしようと、試しに塩水を加えることにした。多少しょっぱくなっても問題ないだろうということと、同じく小麦粉製のパスタを茹でるときにも塩を使うこと。何より支援物資扱いの塩はいくらでも使えることが理由だ。

 特に確信があったわけでもないこの塩水の追加だったが、これが正解だったのだろうか、徐々に弾力が出てきた気がする。

 そうするとカスミの揉む手も期待で軽やかになるというもの。

 時には全体重をかけて手のひらで押しつぶし、時には持ち上げて調理台に叩きつけたりと、どこかで見た記憶を基にパン種を作っていく。


「よーし。こんな感じでいいかな。それであとは……少し寝かせるんだっけ? よく知らないけど」


 寝かせる理由も正しい寝かせ方も、どれだけ寝かせればいいのかもわからないが、そういう手順があるのだからやった方がいいのだろう。

 カスミはできたパン種――だと思いたい小麦粉の塊――をボウルに丸めて、調理台を見渡した。


「服には付かなかったけど、やっぱり小麦粉が飛び散っちゃったな」


 対策しておいたおかげで服は無事だったが、石の一枚板でできた調理台の上は小麦粉まみれに真っ白となっていた。小麦粉を補充できるのがいつになるのかわからないので、できるだけ無駄にしないようせっせと集めていく。

 できればこれも魔術を使って掃除したいところだが、今は止めておいたほうがいいだろう。【風壁ウエリエ】を杖も無しにずっと維持し続けていたせいか、魔力不足になってきているからだ。

 激しい運動をしたわけでもないのに息が弾み汗が滲むし、くらくらと少し目眩もしている。

 そろそろ魔力の消費を抑えないと危ないだろう。ちょうどキリもいいところだ。


 カスミは【風壁ウエリエ】を解き魔力の消耗を止めると、後片付けもそこそこにリビングへと戻りソファに横になった。

 大きく開けたベランダから爽やかな風が入ってきて、汗ばむ肌に気持ち良い。

 朝からの魔術の練習で不足した魔力を、少しは回復したとはいえまた大きく消耗したのだ。長めに休息した方が良いだろう。

 生成したペットボトルの水を喉に流し込みながら、カスミはこのままゆっくり身体を癒やすことに決めた。今晩こそはパンが食べられるかもと楽しみにしつつ。


 しかし、待てども待てども魔力が回復していく気配はない。

 今までは魔力不足を実感するとすぐに休んでいたから回復も早かったのかもしれない。今回は少し長引かせてしまったのが原因か。

 そう思いじっと辛抱するも、症状は回復どころか悪化していく始末。目眩はひどくなり、額からは玉のような汗が流れてきた。心臓が鼓動を早め息が荒くなる。

 徐々に目眩は〝くらくら〟から〝ぐわんぐわん〟へと変わり、その激しさはついに吐き気まで引き連れてきた。

 カスミの脳内に『初級魔術入門書』の記述が蘇る。


「魔力を七割消耗して吐き気、九割で気絶して死んじゃう、だっけ……」


 一人での魔術の練習が危険だと言われる大きな理由。それが魔力消耗である。

 五割を消費した〝魔力不足〟では疲労感と共に軽い息切れや発汗が起こり、回復するまで動かずに休憩することが推奨される。

 そこから更に魔術を使い七割も魔力を消費してしまうと〝魔力希薄〟となり、重度の倦怠感から吐き気や目眩を起こす。ここまで来ると自然回復だけではなく、魔力を回復する薬を飲むようにと記述されていた。

 そして九割を消費した〝魔力枯渇〟ともなると、激しい頭痛と吐き気、四肢の脱力などを引き起こし昏倒するのだという。そのまま二度と目覚めないことも珍しくないらしく、厳重な注意がくどいほどに喚起されていた。


 そうした記述を思い出すことで、カスミはようやく現状を認識した。このまま消耗を続ければ遠からず九割に達してしまうに違いない。

 だが今は魔術を使っているわけでもなく、魔力を回復できるような薬なんて物も持ってはいない。となれば安静にするしか取れる手段はなく、それはもうやっている。

 それだというのに魔力は減り続ける。ゆっくりと、しかし確実に。魔力の総量が減ったからか、減少していく様がはっきりとわかるのだ。もうすぐ八割ほどを消費しようとしているところだろう。

 このままにしていては、自分の魔力に殺される。

 カスミはとにかく何かしなくてはと焦りに急かされながら、必死に原因について考えてみた。

 魔法エプロンは消してあるし、練習で作った他の魔法もとっくに消している。魔導具に関してもキッチンで使った水の魔導具の止め忘れなどがなければ使用していないはずだが、そもそも起動済みの魔導具は使用する瞬間しか魔力を必要とせず、維持には蓄積されている魔力から割かれる物なので関係ないだろう。


 どうやら数秒考えただけで原因追求は暗礁に乗り上げってしまったようだ。しかし、まだ手詰まりではない。


任意保全領域セーフティゾーンの復元……」


 消さずに残しておいた任意保全領域セーフティゾーン機能が、もし魔力まで元通りにできるのであれば魔力消耗も解消するのではないか。

 一縷の望みをかけ、カスミは個人記録パーソナライズを開いた。


「――え? 『警告:資源リソース不足』?」


 そこに書かれていたのは大きく枠で囲まれた見覚えのない言葉。警告とはどう考えても穏やかではない。立て続けになんたる事態か。

 詳細を見てみれば、シェルターの機能を利用するために必要な資源リソースが不足しているとのことだ。

 理論的にはどんな物質にしろ仮想で用意できる電脳世界では本来あり得ない状況だが、その電脳世界の基幹システム自体が異常をきたした場合に起こり得るのだという。シェルターはそういった電脳世界の根本を揺るがす事態でも機能するように設計されているのだろう。

 それならばここで言う資源リソースとは何を指すか。カスミの頭に浮かぶのはただ一つ。


「……魔力だ」


 魔法という超常現象を実現させる燃料。電脳世界上に作られた機能を使うためにこれ以上相応しい資源リソースは無いだろう。


「魔力が無いからシェルターの機能が使えない? それってつまり……シェルターに魔力を使ってるってことなんじゃ?」


 思い至れば行動は早かった。急いで任意保全領域セーフティゾーンを消して、その勢いのまま個人記録パーソナライズを閉じる。

 他にシェルターの機能は使っていないはずだし、個人記録パーソナライズまで消してしまえばインターフェイスはすべて不使用ということになる。任意保全領域セーフティゾーン内の地面を復元できなかったが、背に腹は代えられない。


 そのままじっと魔力の動きを待つ。これでも症状が治まらなかったときのため、支援物資からエチケット袋だけでも取り出しておけば良かったと若干の後悔をしながら。

 しかしそれは杞憂であった。魔力の減少がピタリと止まったのである。やはり任意保全領域セーフティゾーンの展開が原因だったのだろう。

 原因が取り払われればあとは時間の問題だ。安静にしていれば回復していくはずである。カスミは汗で張り付いた前髪を指で払うと、深く息をついた。


 まさかこんなことになるとは。

 インターフェイスは便利な機能だ。カスミに取って生活に欠かせないものである。そこにこんな落とし穴があるとは思ってもみなかった。

 もし原因に気付かなければそのまま命を失っていたに違いない。すでに八割以上の魔力を消耗している今、ウサギに襲われた時以上の危機だったのだ。


「転生してから二日連続で命の危険って。ぜんぜん『生存率が高い転生先』じゃないじゃない。恨むよ、リーセ……」


 カスミは脱力したまま恨み言を吐くと、静かに眠りに落ちていった。魔力のほとんどを失ったのだから回復には時間がかかるだろう。目が覚めた時には復調していればいいのだが。

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