12. 黒い鳥(3)
こうやって何もせず寝転がったままでいられたらどんなに楽だろうか。
芝生のチクチクとした感覚を布越しに感じながらそう思うが、ここでのんびりしていられるような暇は無い。
カスミはピクリとも動かない黒い鳥をしっかり腕の中に収めると、地面に杖を突きよじ登るように立ち上がった。その間もあまりに反応しない鳥に「もしかしたら」という不安が頭を
早く休めるところへという思いと同時に、疲労困憊の身体では遠回りするのが辛く、玄関を無視してベランダから直接リビングに上がる。こちらからだとスリッパに履き替えられないが、そんなことに気を回してもいられない。滴る汗にも、身体中の土汚れにもだ。
そうしてソファに鳥を寝かせて、ようやく一息つく。
「ふぅ……あとは治療だけど……鳥の治療ってどうやるんだろ? 血は出てないみたいだけど、翼が折れてるのが重傷っぽいね。うーん……人間の骨折みたいに考えていいのかな。あ、その前に水飲ませたほうがいい?」
ここまで連れてきたは良いものの、正しい処置法がカスミにはわからない。幸か不幸か、前世にてそれを学ぶ機会は無かった。
或いはこの世界にあるらしい生物の怪我を治療する魔術を習得していれば違ったのかもしれないが、入門書には肝心の使い方までは載っていなかったのだからどうしようもない。
入門レベルではないのか、本には記せない理由があるのか。シェルターには治癒機能があるからと深く考えていなかったことに今更ながら唇を噛む。
とはいえ、使えない魔術に縋っていても仕方がない。今ある知識と物でなんとかするしかないことに変わりはないのだ。
カスミは杖をソファに立て掛けると、早足でキッチンへと向かった。まずは水が必要だろう。それはあの鳥だけではないが。
鳥の口でも飲みやすそうなお皿を取り出し魔導具で水を貼ると、カスミ自身もコップをひっくり返す勢いでがぶ飲みした。枯れた喉と鈍痛を抱えた頭に恵みの水が染み渡っていき、これからやるべきことに気を回す余裕が生まれてくる。
治療に使える物といえばすでに思いついた通りシェルターの支援物資に当てがある。しかし魔力を大きく減じた現状でいろいろと生成するには無理もあろう。
魔力不足の怖さを知っているカスミは回復次第で最低限必要な救急用品から優先的に生成することとして、それまではリストで目星をつけるだけに留めておくことに決めた。
「こうして一覧で見てみるといろいろ使えそうだけど……あ、スポイトがある。自分で水を飲めなそうならこれであげよう。あとは……痛み止めとか抗生剤って鳥に使っていいのかな。うーん……一応用意しておいたほうがいっか」
他にも消毒液や包帯など役に立ちそうな物を頭に入れながら、水の入った皿を持ちリビングへと戻る。
「……え? どこいったの?」
しかし、そこに黒い鳥はいなかった。寝かせていたはずのソファの上から忽然と姿を消していたのだ。
驚愕のまま慌てて周囲を見渡してみる。あの状態では飛び去るどころか歩き回ることすらできないはずだと。
だがそんな予想を裏切り、どこにもその姿は見当たらない。カスミがキッチンに行っている僅かな時間で陽炎の如く消えてしまっていた。
呆然と立ち尽くすカスミに感じられるのは、風に葉を揺らす木々と、床に転がる杖の音だけ。鳥らしき気配などどこにもない。
それでもあの怪我で遠くまで行けるとは到底思えず、カスミは持っていた器をテーブルに置くとすぐさま地面に這いつくばり視線を床に這わせた。が、椅子の下にもソファの影にもどこにもその姿は見えず。
思った以上に動けるのかもしれないと、樹洞の部屋やトイレなど部屋を隈なく、果ては暖炉や小麦粉が入っていた麻袋の中まで覗いてみても、結果は同様であった。
「まさか……」
魔物は死ぬと消えるのでは。
生態を把握していないがために否定しきれないそんな憶測が湧いて出てくる。
それでもカスミは諦めきれずにいた。もう少しで助けられるはずだったのに、そんな結末はあんまりではないか。
そうして一度見た場所を二度、三度と探していると、ふとカーペット上の杖が目についた。そういえば先ほど転がる音がしていたなとも思い出して。
キッチンに行っている間に倒れたのだろうか。それにしては倒れた時の音はしなかったが。
少し不思議に思いつつ杖を拾い上げたカスミだったが、何と無しに全体を眺めてから思い切り首を傾げてしまった。
「ここ、黒かったっけ?」
カスミの記憶ではただ丸く削られただけの木の杖頭が、今はどう見ても真っ黒になっている。ただの汚れには見えない、艶のある漆黒に。
逃げている最中に何かしてしまったのかもしれない。
そう思いそれらしき原因を頭に浮かべてみる。思い当たる節と言えば炎で焦げた可能性くらいしかないが、それもどうやら疑わしい。
木が燃えたような匂いはしなかったし、何より杖が焦げるほど炎に晒されていればカスミ自身もっと深刻な火傷を負っただろう。ついでに言えば、【
「この家に帰ってきてから、かな。それにしても、黒か……」
原因は不明のままなれど、黒く変色したこと自体には心に引っかかるものがある。言うまでもなく、保護したはずが突然姿を消した鳥と同じ色だ。
「鳥が黒かったのとなんか関係あるのかな……って、うぇ!?」
疑問を口に出すと同時、カスミは自分の意思と関係なく手が大きく震えたのを感じた。手の中で杖が勝手に動いたのだ。
いきなりの出来事に泡を食って杖を手ごと遠ざけるも、そんなカスミには構うことなく再度杖は振動する。先よりも更に強く、そして長く。
まるで生きているかのように。
「なになに!? なんなのこの杖!?」
急に得体の知れなくなった杖が怖くなり放り投げるように手放すと、杖はカーペットの上で何度か転がってから動きを止めた。
静止する様は何の変哲もないただの木の杖だが、もはやカスミの目にそうは見えない。
「ええ……もしかして、生きてるの?」
命の危険とはまた違う、ホラーのような恐怖に独り言つと、杖はまたコロリと転がった。カスミの言葉に返事をするように。
そんな馬鹿なと思う一方で、転生してから散々不思議な現象に見舞われてきたカスミが頭ごなしにその仮定を否定できるわけもない。
「えっと、言葉、わかる?」
床に膝を付き杖に話しかける姿は、傍から見たら変人にしか見えないだろう。
だが、杖はその問いにも応えるようにまた転がったのだった。
「なんで急に杖が動くようになってるの? 黒くなったのが原因なら……さっきの鳥と何か関係あるの?」
どうしても行き着くのは消えてしまった黒い鳥との関連性だ。色といい状況といい、全くの無関係とはどうにも思えない。
そしてその問いかけにも杖はコロリと転がって応えた。
尤も、その転がりが何を意味しているのかはカスミの想像次第だが。
「そうだ。言葉がわかるなら、転がる回数で返事してもらっていい? はいの時は一回で、いいえの時は二回。わからなかったら三回で。できる?」
試しに提案してみると、杖は一回だけ転がって止まった。
ちゃんと伝わっているのならば今のは「はい」を意味するはずだ。だが、今まで見せた転がりとの違いがわからず、断言はできない。
質問を続けて判断するしかないだろう。
「それじゃ質問ね。あなたはさっきの、わたしと一緒にいた黒い鳥と関係があるの?」
手始めに選んだのは、つい先ほどと同じ質問。
それだけ大事なことでもある。もしこの会話が勘違いだとしたら、すぐにでも黒い鳥を探して保護しなければならないのだから。
そんなカスミの心配をよそに、杖は間髪を入れず一度だけ転がってみせた。「はい」ということで良いのだろうか。
念のため、「いいえ」と答えるであろう質問も投げかけてみる。
「立って歩くことはできる?」
コロリコロリと二回転がる。「いいえ」の合図だ。
一本の木の棒でしかない杖が歩けないのは見た目通りで、震えたり転がることしかできないのだろう。もし杖に足が生えてすっくと立ち上がり歩き始めたら悲鳴を上げてしまっただろうが、幸いにもそんな気配は無い。
そしておそらく意思疎通できているだろうことも確認できた。
となると次に気になるのは消えた黒い鳥との関係である。カスミが知る限り、今日会ったばかりの鳥と杖に接点など無い。なのに杖自身は関係あると言う。
とはいえ、状況からカスミの推測はすでに一つに固まっていた。
「もしかしてあなたが黒い鳥自身だったり、する?」
≪
その答えを
どういう理由かは知らないが、黒い鳥が杖頭と同化しているような状態なのだろう。
間違っても「そんなことが可能なのか」などとは追求しない。未知の蔓延るこの異世界においては意味がないからだ。少なくともカスミがこの世界の常識を知るまでは。
何らかの方法があるのだろう。そこに危険や不利益が付随しないのであればそれで充分というものだ。
ただ、命の危険を冒してまで助けようとしたカスミとしては、怪我の具合も心配なので一度姿を見せてほしいところである。
「元の鳥には戻れる?」
≪
「え?」
しかし返答は意外なものだった。
黒い鳥が一時的に杖と同化しているのだろうと考えていたカスミは、好きに姿を行き来できると思っていたのだ。
あるいは、鳥の姿に戻るとまた瀕死になってしまうのだろうか。
自分の想像力だけでは手に余る状況に、カスミはとにかく質問を浴びせてみることにした。
「鳥の姿になるとまた怪我で大変とか?」
≪
「怪我はもう大丈夫ってこと?」
≪
「でも戻ること自体ができないとか?」
≪
「杖とくっついてるって感じなんだよね?」
≪
「他の物ともくっつけるの?」
≪
鳥に戻ることはできなくても、杖から他の物へと同化先を変えることはできるらしい。
試しに何かに移ってみるよう頼んでみると、杖頭から黒い霧が飛び出し、瞬く間にカスミを取り巻いた。森の中を逃げてる最中、黒い鳥が後ろに向けて放った煙が薄くなった物のように見える。
その霧はカスミのローブに触れると、吸い込まれるように消えていく。それも僅か数秒の出来事で、霧はすべてローブへと渡ったようだ。
残された杖頭の色は鳥が同化する前までと同じ木目で黒みは無い。こちらには少しも残っていないらしい。
肝心の黒い霧を吸い込んだローブの方はというと、元から黒かったためか見た目に変化はないが、それ以外の部分では大きく変化があった。
ローブを羽織ったカスミの全身から力が抜けていき、のみならず魔力までもが見る見る内に減少していくのだ。体内から強制的に引きずり出されるように。
それは生理的に放出されている知覚できないほど少量の魔力とは段違いの勢いで、少しずつ回復し始めていたカスミの魔力がみるみる内に減っていってしまう。
「待って! ストップストップ! 離れて!」
足に力が入らずへたり込んだカスミが焦ってそう叫ぶと、黒い霧がローブから飛び出し床に転がったままの杖へと舞い戻る。杖頭もまた再び漆黒へと染まった。
それと同時にカスミの魔力が安定し、身体に力が入るようになる。ローブと同化されたことで起きた現象だということは疑いようがないだろう。
「うぅ、せっかく少し休めてたのにまた魔力なくなっちゃったよ」
嘆きながらヨロヨロと腰を上げ、崩れるようにソファへと座り直してから再び黒くなった杖頭を見下ろす。再発した頭痛に、額を手で抑えて。
異変があったのはカスミだけで、相手に問題は無いようだ。むしろ、心なしか先程よりも色艶が良くなっている気がする。
カスミは魔力不足だけが原因でない頭痛を振り払うように溜息を吐き、直感的に何が起きたかを予想した。
「たぶんだけど、今のはわたしの魔力を吸ったんだよね。魔力が必要なの?」
≪
「それはその、ごはん的な?」
≪
「そ、そう。よっぽどお腹すいてたんだね。それでちょっとは元気になったならいいけど……」
どうやら魔力とは場合により食事になるらしい。
カスミの経験上、魔力でお腹が膨れるとはどうしても思えないのだが、先程の黒い霧の姿を脳裏に描けば肉や野菜を食べるよりもいっそ納得できるというもの。
だからといって、これ以上身体から直接魔力を吸われたいわけでもないので、このまま杖にいてもらうのが一番だろう。
「それじゃ、少しまた質問させてもらうね。えっと、まずは――」
それからいくつか質問を重ねてみる。要領を得ない「はい」「いいえ」「わからない」だけの回答でも、根気よく。
黒い鳥、そして黒い霧自身に関しても気になる点は多かったが、追われていた四羽の鳥についての疑問も無視できなかった。どうして追われていたのか、どういう関係なのか、などだ。
そうして根掘り葉掘り質問を続けてはみたものの、得られた情報は期待していたよりも少なかった。
記憶がないのだろうか、少し具体的な質問になると三回転がることで返答するばかりなのだ。
自分の帰る場所もわからないと知ったときは、カスミもさすがに頭を抱えてしまい、それと同時に共感もした。
「なんかあなた、わたしと似てるかもね。何もわからないまま、突然危険な場所に放り込まれたところが」
≪……≫
質問の形式ではなかったからだろう。杖は転がらない。その代わり、少しだけピクリと震えたようだった。
元々は勢いに任せて助けようとした鳥だ。結果として命がけの救出劇になってしまったが、せいぜい治療して森に帰すぐらいがカスミにできる最大限だった。
なにせ最初に会った時は黒い鳥、推定魔物だったのだ。野良犬や野良猫のように連れて帰ってペットにするというわけにもいかないだろう。
だが、今は言葉が通じ、拙いながらも意思疎通ができると知った。魔力があれば食事も問題無さそうである。直接吸われるのはできるだけ遠慮したいが、必要な分だけ魔力を与える方法も探せばあるかもしれない。
何より、自分と同じように孤独なのだと思うと感情移入してしまうのに充分で、だから次の提案も極めて自然にカスミの口から出ていた。
「わたしと一緒にここに住む?」
≪……
随分と間の空いた返答に、ついカスミはふふふっと笑ってしまった。喋れもしないのに、よっぽど雄弁に感情を語るものだと。
一緒にいることを選択してくれたのは素直に嬉しい。この家で過ごしている内にまた鳥の姿になれるかもしれないし、杖のままであったとしても話ができる相手が増えるのは良いことだ。
予期せぬ同居人の誕生を、カスミは心から歓迎した。
「そういえば、あなたのことは何て呼べばいいの? 名前ある?」
≪
「わたしが名前つけていい?」
≪
トントン拍子に進む会話に頬を緩めながら杖頭を一撫ですると、カスミはこの性別も形状もわからない相手に相応しい名前を考え始める。
しかし困ったことに、元来カスミはそういった名付けが苦手だった。つい勢いに任せて提案してしまったものの、経験上安直な名前か捻りすぎて変テコな名前になってしまうのだ。
「鳥だから……あ、杖と同化してる間は鳥じゃないか。じゃあ、黒い霧ってことで……〝クロキリ〟! ……だとそのまま過ぎるね。黒いもやもやだから〝クロモヤ〟? は変か。うーん……」
なんとか良い名前を捻り出そうと唸るカスミの横で、杖は転がることもなく静かに佇んでいた。どことなく神妙な雰囲気で。
「黒って言葉だと他に……ブラック、ダーク、夜、ナイト、真っ黒、あんこ、黒豆、黒蜜。あー甘いの食べたい。じゃなくて、霧だったら……もやもや、うっすら、霧雨、霧吹き、フォグ――」
≪
独り思いついた単語を垂れ流していたカスミの言葉を割るように、音を立てて杖が転がった。それもなぜだか焦ったように。
「うん? 〝フォグ〟がいいの?」
≪
カスミに任せると同意した割にはハッキリとした反応に面食らったものの、自分の名前を決めるのだからそれも当然かと思い直す。
やっぱり少し安直な名前の気がしないでもないが、本人――人ではないが他に言いようもない――が気に入ったのならそれを付けない理由はない。
「それじゃ、これからよろしくね。〝フォグ〟」
≪
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