13. フォグとの暮らし

「〝黄塵万丈こうじんばんじょう吹けども飛ばず。風塵の庵、在りて我が身は彼の地と此の地――【砂塵嵐ベレイヘレイド】〟」


 カスミが朗々と詠唱を終えると、風と共に現れた細かな砂が周囲を取り巻き始めた。森とログハウスを背景にするには似つかわしくない砂塵だ。

 密度はそれほどでもないのだろう。中心からは薄く透けて向こうの景色が見えている。巻き込まれれば目も開けていられないのだろうが。

 そうした様子をざっと確認したカスミは、次に魔力を込めた杖を右へ左へと動かしてみた。

 するとその動きに合わせて砂塵の濃さが偏っていく。濃いところは先も見通せぬほどに、薄いところは僅かな砂が舞うだけに。


「うん。そろそろこの魔術にも慣れてきたね。砂を動かせるのもわかったし、逃げるときにも使えそう」


 フォグを助けたその日、カスミは反省した。いろいろと便利で応用が利く魔術だが、まずは自分の身を守るための魔術に全力を傾けるべきだったのだと。

 あの時カスミにできたのは力の限り走って逃げることくらいで、あれだけ練習を重ねたはずの魔術も役に立ったのは最後の最後に作った土の踏み台だけ。

 結果的に助かったのはひとえにシェルターのおかげに他ならなず、いては転生初日のウサギに襲われた時から成長していないことを意味してしまう。

 前世において超常現象の代名詞たる魔法。それを扱う魔術という技術を日々練習し芽生えたカスミの小さな自信は、出会い頭の炎の洗礼により木っ端微塵となっていた。


 練習がてら料理や洗濯などに魔術を応用することが間違いだったとまではカスミも思っていない。実際そうしなければ生活するだけで大変な苦労があるだろうし、何よりそのおかげで魔術に慣れ、徐々に繊細な操作もできるようになってきている。

 しかし、ここが危険な場所だと知っておきながら生存率を高める備えがまだまだ足りなかったと痛感したことで、少々の方針変更には至っていた。今まで通り生活に魔術を取り入れる一方で、安全確保のための練習にも力を入れようと。

 今使用している【砂塵嵐ベレイヘレイド】もその一つと言えよう。目くらましは古今東西、逃走に有効な手段である。


「ん~……だけどもっとサッと動いてほしいな。なんか重たい感じするし。フォグ、もう少し魔力を吸わないように抑えられる?」


 カスミが声をかけた先は砂塵へ向けて掲げた杖。ぶるりと大きく震えたのを手の中に感じて、漆黒の杖頭に向けた目を細める。


「ふふふっ。ありがと。がんばろうね」


 フォグと暮らすことに決めてからすでに二九日が過ぎた。地球の暦でほぼ一ヶ月という期間で変わったのは、何も魔術の練習に関してだけではない。頻繁にフォグへと話しかけるようになったのも大きな変化だろう。

 当然言葉を喋ることができないフォグに明確な返答は期待できないが、ちょっとした反応を貰えるだけでもカスミは満足している。独りの時はそれすら無かったのだから。

 それに何度もやり取りを続けていると、段々とそのちょっとした反応から感情を読み取れるようになってくるのだから面白いものだ。大まかな喜怒哀楽程度だとしても、もはや会話と言って差し支え無いくらいには意思疎通ができるようになっていた。


「そろそろいったん休憩しよっか。三時のおやつタイムだよ」


 そして毎日の魔術の練習の合間におやつの時間ができたのも変化の一つだろうか。

 魔力操作を止めるとベランダに上がり、日陰に用意してあった手のひら大の果物を手に取る。前世には見なかった、涙滴型の赤橙色をした果実だ。

 そうしてベランダのへりへと腰を下ろし、杖を膝に乗せてから「ほうっ」と息を吐いた。


 魔力にはまだまだ余裕がある。日々絶え間ない練習のおかげか、体内の魔力量自体も少し増えているようだ。

 しかし幼女のカスミでは、魔力不足を回避しても体力不足まではどうしようもない。だからこうしてちょくちょく休憩を挟みつつ、ついでに間食をとるのが習慣となっていた。


 足をぶらぶらと宙に浮かせながら、慣れた手付きで果実の頭の部分を引き裂くように皮を剥く。先端の皮はコツさえ掴めば道具が無くても手で開けられるのだから楽で良い。

 中に詰まっているのは薄黄色のゼリー状の果肉。ところどころにある黒ごまのような粒は恐らく種だ。

 このまま放っておくとゼリーが崩れて大変なことになる。経験上それを知っているカスミは、慌てず素早く露出した頭の方から種も厭わずかぶり付いた。

 途端に口の中に広がるのは桃のような柔らかい甘酸っぱさと、さくらんぼのような爽やかな香り。水分豊かなゼリーが含んだ何とも果物らしいその甘みに、カスミの喉が無意識に歓喜の囀りを上げている。

 その味から勝手に〝ゼリー桃〟と名付けた果物はまるで一口ごとに疲れを癒やしてくれるようで、カスミは笑み崩れながら存分に堪能するのだった。合間合間にフォグとの会話を楽しみながら。


 こうして休憩の度にもフォグへと語りかけているカスミだが、その内容はほとんどが取り留めのないもの。単なる雑談ばかりだ。

 パンを作ろうとしたときの苦労話だとか、あったらいいなと思う魔術の話だとか。傍目にはカスミが一方的に語りかけているようでも、要所要所で相槌を返してくれるフォグは聞き役として優秀で、ついつい何でも話してしまう。


「――っていう感じでね、フォグを助けたときに炎がこなかったのも電脳魔法インターフェイスの一つなの。結局なんか事故みたいに転生しちゃったけど、電脳魔法インターフェイスがなかったらもう一回転生することになってたかもね。ん~、でもリーセの言ってた感じだともう一回はさすがにムリかな」


 そんなカスミに取って、自らの出自を打ち明けるのは至って自然な流れであった。

 最初こそ教えて良いものか迷ったものの、当たり障り無いところから語り出せば溢れ出るように言葉は止まらず、電脳世界での日常からリーセとの会話まで思いつくままに語り尽くしたのは同居が始まって比較的すぐのこと。あちこちに脱線しながらの説明は要領を得なかっただろうが、フォグは最後まで相槌を絶やさず聞いてくれた。


 尤も、電脳魔法インターフェイスに関しては転生後もなぜか使えると説明するだけに留め、魔法になってしまったという点には触れていない。

 共同生活を続けていれば電脳魔法インターフェイスそのものを隠しておくことはできないとしても、その存在を魔法として広めるつもりがないカスミとしてはそう誤魔化すしかなかった。


「まあ、また転生できるかもって無茶するつもりはないけど。痛いのヤだし。でもね~……ずっとこうして家にいるといろいろ考えちゃうんだよね。前世の家族のこととか、るいちゃん……友達のこととか。もう一度リーセに会っていろいろ聞きたいとも思うんだ。はぁ……みんな、いまごろ何してるんだろ……」

「ピー!」


 転生直後より余裕ができた今だからこそ生まれた悩みを苦笑いに混ぜて吐露するカスミに、元気の良い鳥の鳴き声がかけられる。

 声の主は膝上で横にした杖に立つ一羽。杖頭の上でカスミを見上げる、スズメほどの大きさの丸っこくて可愛らしい漆黒の小鳥だ。


「あ、出てきたんだね。励ましてくれてるのかな? ありがとね、フォグ。んふふっ。何度見てもカワイイ姿だね」

「ピー! ピー!」


 小鳥の正体はあまりにも可愛らしく変貌してしまったフォグだ。原型の名残は全身が黒いことを除くと、くりくりとした瞳の金色くらいしか残っていない。

 当初は完全に同化することしかできなかったはずが、カスミと過ごす日々に癒やされたのか少し前から鳥の姿を作れるようになっていた。

 大きさも姿かたちも別物になってしまった理由は不明だが、可愛くなる分には大歓迎である。カスミはフォグの頭を優しく撫でながら笑いかけた。


「だいぶその姿にも慣れてきたみたいだね。このままいけばずっと外に出ていられるようになるかな」

「ピッ!」

「うん、がんばろうね。じゃ、そろそろフォグにもおやつをあげよっか。ちょっと待ってて」


 そう言ってからゼリー桃の残りを一気に啜るように食べきってしまう。この果物は底に近いほど甘みを増すらしく、こうやって食べると酸味の無い濃厚な甘みが口の中を満たして幸せになるのだ。

 それから手を水でサッと流し、座ったまま杖を立て両手で構える。フォグにおやつをあげる準備はこれだけだった。


 丸い杖頭に二本の鳥足でしっかりと立つフォグを見据えつつ、カスミはゆっくりと魔力を杖に注ぎ込み始める。魔術を使うときのように。

 鳥の姿になっているフォグではあるが、杖との同化を完全に止めたわけではない。その証拠に杖頭は漆黒のままだ。杖から鳥の姿が飛び出しているだけ、という表現が正しいか。半同化とでも呼べば更に直感的だろう。

 この状態でもカスミの魔力を吸収できるようで、目には見えずとも杖に込めた魔力がフォグへと流れていく様が感覚でわかる。

 杖と同化した状態での魔力供給はローブの時と違い、与える量をカスミ側で調整できるため負担が少ない。その代わり魔術に使用する際も集めた魔力が勝手にフォグへと流れてしまうという欠点はあるが、それも少しずつフォグ自身で抑えられるようになってきている。


「ピッ!」


 こうしてカスミからおやつ代わりの魔力を与えられたフォグは、一声鳴くとその場でパタパタと翼を羽ばたかせ始めた。フォグなりのお礼の仕草なのだろうが、小さな姿の懸命な動きに口がだらしなく緩むのをカスミはいつも止められない。このままずっと見ていたいくらいだ。

 それでも何とか誘惑を振り切って供給を止めれば、入れ替わりとばかりに今度は杖頭の漆黒がフォグの足に吸われるように昇っていき、それに合わせてフォグの身体が徐々に大きくなっていく。

 そうして杖頭がすっかり木の肌を晒すようになると、一回りか二回り大きくなったフォグが更に翼を激しく動かし、ふわりと宙に飛び立った。


「今日も森に行くの? じゃあ、はいコレ。また何か食べられそうな果物とか使えそうな植物があったらお願いね。でも、ぜったいに危険なことをしたらダメだよ。魔物がいたらすぐに逃げること。いいね?」

「ピーイ!」


 機嫌良さげな声を上げるフォグに渡したのは、元は小麦粉が入っていた麻袋を丸めたもの。森の探索に飛んで行くフォグのために用意しておいた荷物入れだ。

 鳥の姿になれるまでに元気になったフォグは同時に、魔力が残っている間なら杖を離れて自由に空を飛べるようになっている。時間にして一時間くらいは大丈夫なようだ。


 元気に空へと飛び立つその姿を初めて見た時カスミは無邪気に喜んだのだが、そのまま森へ行こうとしたのはさすがに慌てて止めようとした。

 それはそうだろう。なにせ危険な魔物が棲まう森で、その魔物に追い回されていたのがフォグなのだから。心配にも程がある。

 だが止める声も聞かずに森へと飛び去ってしまったフォグは、やきもきと待つカスミを余所に悠々と空中遊泳を楽しんだ挙げ句、見知らぬ果物をお土産に咥え無傷で帰ってきた。

 転生してから甘いものをほとんど口にしていないカスミだ。心配させたことを説教するのも忘れて、促されるまま果物にむしゃぶりついたのも仕方がないことだろう。手や口の周りをベタベタに汚すのもいとわず、目を潤ませながら一気にその甘い桃のようなゼリー状の果実を食べきってしまった。


 その姿をどう思ったのか、それからもフォグは森に行くたびにいろいろな果物や木の実、食べられる野草などを次々に運んできてくれるようになった。まるでカスミに貢ぐかのように、けれど楽しそうに。

 だからもうカスミも心配こそすれ、フォグの好きなようにやらせている。くちばしや足では持ち運ぶのも大変そうだと袋を用意してあげてまで。

 詰まった採集物で自分よりも大きくなった袋を足で掴み飛ぶ姿は見ていて不安になるが、明らかにただの鳥ではないフォグにはどうということもないのかもしれない。


 では、ただの鳥でなければ何なのか。

 今日も今日とて楽しげに森へと飛んでいくフォグを見送りながら、カスミはぼーっとフォグについて考えていた。

 最初に会った時は魔物だと思っていたが、こうやって一緒に暮らしている内にどうも違うのではないかという気がしてきたのだ。


 フォグを追っていた四羽についてはほぼ間違いなく魔物だろう。

 しかし、フォグはそもそも生物なのかというところから疑問がある。

 鳥の姿を作れるようになった日の夕食時、せっかく実体があるのだからとカスミは自分が食べている物をフォグにも分け与えてみた。独りだけの食事が寂しかったこともあるが。

 そしてそれは問題なく食べてくれはしたものの、量は足りるかと聞いてみればそもそも食べる必要が無いのだとわかった。食べることができるし味もわかるが、本当に必要なのは魔力だけだと。

 それからも食事の時にはシリアルバーを砕いたものをついばむようになったが、それも一緒に食事をしたいカスミがお願いしたからでしかない。


「黒い霧になって物と同化することができて、ご飯は魔力だけ。う~ん……フォグは〝精霊〟ってやつなのかな。でもなぁ……」


 『初級魔術入門書』によれば、精霊とは大昔に神様から遣わされたあまねく自然に宿る存在なのだそうだ。目には見えない上に本能で動くというのだから、不敬を覚悟して例えれば大枠では微生物に近いかもしれない。

 何より特徴的なのは魔力や魔素を活動源とし、取り込んだそれらを魔法という現象に変換する性質を持っていることだろう。精霊がいなければ魔法は発生せず、必然的に魔術も存在しなかったというわけだ。『初級魔術入門書』に精霊が載っている理由はここにある。


 対してフォグは物に宿るという特性や魔力を取り込むという点で精霊と一致するものの、同化したとて黒い姿は見ることができる。

 そして何より会話が成立するほどの意志があるという差異は見逃せない。


「まだわかんないな。知ってることも少ないし。早く人と会ったり他の本を読んだりしないと」


 転生したその時から欲しいと思っていたこの世界の情報源は、いまだに『初級魔術入門書』の一冊に頼りきりだ。

 確かに魔術関連の知識もカスミの求めるものではあったのだが、それ以外のこの世界の基本的な情報に関しては何の役にも立っておらず、その魔術もすべて習得しきった今では停滞感が増すばかり。


「フォグもいるし、外に出る準備もできるだけしてるけど……」


 肩越しにリビングの片隅で作っているある物を見やり溢した呟きは、意図せず誰かに言い訳するかのような響きになってしまう。


 たとえ森で迷ったとしてもフォグなら空から道案内できるだろうし、食べ物の採取も可能なのだから遭難という面での心配はしていない。

 問題は魔物対策で、二度の遭遇経験を基にして魔術の練習をしているものの、どれだけ続けても不安を拭い去ることはできないまま。

 壊れた地球にありながら電脳世界という人工的な楽園に浸っていたカスミは、この異世界に来て初めて〝安全〟という概念に際限はないのだと知ったのだった。


「きっかけさえあれば、かな」


 とにかくそろそろ人と会いたい。

 今のような穏やかで平和な日常を捨てたいわけではないが、必要とあらば外へ出てみよう。たとえ不安が残っていたとしても。

 フォグが飛び立った空をじっと見つめながら、カスミはそんな決意とも言えない小さな覚悟を胸に灯していた。


 そしてそのきっかけはこの日この直後、フォグが帰ってきたことで齎されることとなる。カスミが予想だにしなかった、危険性と緊急性を告げるお土産によって。

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