11. 黒い鳥(2)

 目の前に現れた色鮮やかな二羽は、大きな翼を木にぶつけないようゆったりと羽ばたかせながら、どういう原理かその場に滞空している。鋭いくちばしと、それ以上に鋭い目つきをカスミに向けて。

 片や腕の中で小さく身体を折りたたむ黒い鳥に、その覇気は無い。色や体勢だけが理由ではないのだろう。生命力そのものを僅かにしか感じないのだ。

 その姿に時間が残されていないことを否が応でも悟ったカスミは、一刻も早く手当をすべく背中で退路を探った。来た道を真っ直ぐ走ればそれほど時間もかけずに戻れるはずだ。今ならまだ間に合うかもしれない。

 しかしそれも追手がいなければの話だが。


「見逃して……くれそうな雰囲気じゃないよね。わたしも」


 見れば見るほど穏便にここを離れられる状況ではない。相手から見ればカスミは獲物を横取りしたようなものなのだから、当然と言えば当然か。

 カスミは抱えた鳥を隠すように半身になると、杖を突きつけるように構えた。いつでも逃げられるように。そしてそのために発生し得る危険を予想して。

 すると不意に片方の鳥が大きな鳴き声を、それも威嚇の意志を確かに込めた強い鳴き声を薙ぎ払うように周囲に響かせた。真正面からその声を浴びせられたカスミの肌がピリピリと震え、次いで粟立つ。


 この敵意の中で無防備に背中を向けたらどうなるかなど、考えたくもない。

 カスミは気圧される心を精一杯の虚勢に隠して相手を睨み、その一方で後ずさりを始めた。今にも震え出しそうな脚を引きずるように、そろそろと。

 それを見咎めたのかどうなのか、威嚇していた鳥は羽ばたきを強くし、ゆっくりと迫り始めた。飛ぶというよりも浮いているような滑らかさで。

 一瞬たりとも目を離すことなく徐々に追い詰める態度には、カスミの虚勢など毛ほども意に介さず単なる獲物としてしか見ていないことが如実に表れているようだ。

 そして嘴を大きく開いたかと思うと、その中に小さな炎が揺らめくように発生したのを見た。どう見ても魔力が成す現象、魔法である。


「魔法を使うってことはやっぱり魔物……って、ちょっ、ここで火はダメだって!」


 慌てて申し立てたカスミの忠告など届くはずもなく、炎はむしろ少しずつその火力を高めているように見える。

 この炎がどんな魔法なのかは放たれるまでわからない。だが、少なくとも獲物カスミを仕留められる程度の威力があることは間違いない。よしんば直撃を避けられたとしても、そんな炎が周囲の草木に燃え広がりでもしたら。

 カスミは差し迫る危険を理解すると同時に、魔力操作を行いつつ口を開く。


「〝淀むことなく、沈むことなく、流るることなく。咲かずに揺蕩たゆたえ雫の実――【水球シェロラ】〟!」


 詠唱が終わる寸前、カスミの視界は真っ赤な光で満たされた。鳥から放たれた炎が巨大な蛇のように身体をくねらせ、カスミを呑み込まんと突き進んできたのだ。

 対して一歩遅れながらカスミが放ったのは水の塊を作り出す魔術。パン種作りに利用しようとしたこともある【水球シェロラ】である。

 〝火に対しては水〟。突発的に思いついたのはそんな単純な対策だったのだが、結果としてこれは失敗だった。

 水の魔術を選んだこと自体は間違いでないにしても、全力で魔力を込めたはずの【水球シェロラ】の大きさはカスミの身長にも及ばず、迫る炎に比べれば雀の涙も良いところでしかない。

 そして案の定、炎に真っ向からぶつかった水の塊は僅かに熱を散らすだけで、ジュワという音と共に跡形もなく消え去ってしまった。一呼吸の間くらいは押し留められた炎の勢いも、後から押し寄せる炎に瞬時に巻き返され、気付けばもはや元通り。


「──ッ! 【水球シェロラ】! 【水球シェロラ】!」


 大きさが足りないなら数でなんとかするしかない。カスミはすでに目前にまで迫る炎を押しのけるように魔術を連発する。無駄な時間稼ぎにしかならずとも。

 森への被害などすでに考える余裕も無い。にわかに跳ね上がる気温を肌で感じ、自身の身にこれから起こるであろう惨状を理解してしまったカスミの口から、思わず音にならない呻き声が漏れた。腕に抱いた瀕死の鳥にも構わず全身を強張らせて。


 そして、とうとう赤い大蛇がカスミを呑み込む、まさにその寸前。諦め目を瞑りかけたカスミの目端に、自身の生み出したそれとは比べ物にならない程大きな水流が炎を横から呑み込む光景が映った。

 周囲が一気に白い水蒸気で埋まり、サウナのような湿気った高温に汗が吹き出る。尤も、汗なら先程から冷たいものが滝のように流れているが。

 ともあれ、服から出ている顔や手を軽く火傷したくらいで黒焦げにはならずに済んだようだ。いったい誰が助けてくれたのか。カスミが呆然とそちらを向けば、それは意外、もう一羽の鳥の仕業だった。

 相方に向かって激しく鳴き声を浴びせる姿は何やら怒っているのだろうか。もしかしたら森を燃やすところだったのを咎めているのかもしれない。四羽で連携して獲物を追い詰めるような賢い鳥だ。あり得ない話ではない。

 そう直感したカスミは、同時に今がチャンスだと思った。仲間割れしている間に逃げてしまおうと。


 お互いに一歩も引かず言い争っているような二羽に気付かれないよう、息を詰め少しずつ後ずさる。十メートル、十五メートル、二十メートルと。

 このまま離れられればどこかに隠れてやり過ごすこともできるだろうか。


「ピーーーーーッ!!」


 小さく芽生えたそんな希望も束の間、高く長い笛のような鳴き声が空に響き渡ったかと思うと、争っていたはずの二羽が仲良く同時にカスミへと意識を向け直してしまった。

 ハッと上を見たカスミと目があったのは、上空で旋回していた残りの内の片割れ。


「空から監視なんて、頭よすぎだよぅ……」


 思わず愚痴を漏らしたカスミを、冷静さを取り戻した二羽が睨みつけ射竦める。これ以上カスミから気を逸らすことは無いだろう。

 ならばもう取り得る手段は一つしかない。

 腹を括ったカスミは急反転すると、その勢いのままがむしゃらに駆け出した。開いた距離を僅かでも詰められる前に、と。

 留まっていても魔法で狙われるだけなのだから。


 一目散に、環境への配慮など微塵もする余裕無く逃げる。土を蹴り、草を踏み折り、木の根を踏み台にして。

 鳥の気配はすぐ後ろ。羽ばたく風の音が追われている実感を強め、本能的な恐怖を喚起する。

 しかも、ただ追ってくるだけではない。断続して魔法を飛ばしてくるので、カスミは木を盾にするように蛇行を余儀なくされた。

 鳥が使う魔法は先程のような太い水流や、目には見えない風の弾丸のようなものだ。あれから二度と火の魔法を使わないことから、やはり森を燃やすつもりはないのだろう。どのような魔法だろうが、カスミの背中に一発当たればそれで追いかけっこが終わるのに変わり無いが。

 しかしそこは身体の小さなカスミ。元々が当てづらいことこの上なく、ぐねぐねと走っていればそう簡単に当たりはしなかった。

 だがそれも時間の問題でしかない。互いの距離が近づけば近づくほど的に当てるのは簡単になるのだから。


「はっはっはっ……」


 どれだけ息を荒げ全力で走ってもカスミは所詮六歳の幼女。鳥の飛ぶ速度には敵わない。まだ追いつかれていないのは単にここが体躯が大きい鳥が飛ぶには邪魔が多い森の中だからだ。

 それでも距離は少しずつ詰まってきている。


「はっはっ……んくっ……近っ」


 走りながらカスミが背後を伺うと、二十メートル以上は離れていた距離がもう半分近くに縮まっていた。このままだと家に辿り着くより先に魔法が命中してしまうのは想像に難くない。

 再び前へと意識を戻すと、突然カスミの頭の横で強烈な風の通る音がした。刹那の後、通りかかった木から破裂音が響き、抉られ弾けた乾いた表皮が宙を舞う。


「つぅっ!」


 そんな中でも目を見開いたままカスミは走る。頬に鼻に額に、火花にも似た赤い跡が幾筋付こうとも構うことはない。

 一瞬たりとて立ち止まるわけにはいかないのだ。たとえ足が折れ、肺が破れ、全身が血に塗れようとも、生きている間は。


「はっはっ……あっ!」


 その覚悟が実を結び、とうとう木々の隙間に見覚えのある家の屋根がチラッと見えた。もう少しだ。

 しかし家を目にしたことで、カスミは初めて自分が致命的とも言える状況にあることに気付いた。なんと、門までの距離が遠すぎる。

 こちら側は赤茶の巨木がある方角で、門や玄関があるのは反対側である。つまり直線的な家までの距離は短くとも、家の敷地に逃げ込むには門を目指してぐるりと柵伝いに回り込まなければならない。

 そんな時間があるのかと問われれば、明確に「無い」と答えられる。今も徐々に距離が縮まっている上に、体力もそろそろ限界が近い。

 では柵を乗り越えられないか。

 それも難しいだろう。簡素な木柵は決して高くはないが、カスミの身長とほとんど同じくらいにはあり簡単に飛び越えられそうにない。かといってよじ登るのも論外である。その間に追いつかれてしまうだけだ。


「はっはっはっ……どうっ……しよっ」


 カスミは酸素が足りない頭で、必死に何か方法が無いか考えていた。

 魔力操作のにでも到達していれば手立てもあったが、今はまだ魔術のための下準備以外に用途は無い。

 その魔術も朝の練習と【水球シェロラ】の強引な連発で減った魔力では大したものはもう使えないだろう。走りながら背後に打ったとして当たるはずもないし、そもそも背後から狙われている状況で魔術に集中できる気もしない。

 自分にも翼があれば飛んで逃げるのに、などと無意味にも無いものねだりをしてしまうのは、心が折れる前兆か。


「はっはっはっ、あつっ!」


 飛び出した木の枝に手の甲がざっくりと切られ、鋭い痛みに思わず声が出た。

 滴る血が視界に入り顔が歪むも、勝手に泣き出しそうなのは痛みだけが原因ではない。


 森の外に出るのにもう一分はかからないだろう。このままでは考えている時間すら無い。

 すると不意に今まで腕の中で大人しくしていた黒い鳥が大きく身じろぎをした。そして反射的に強く抱きすくめようとするカスミの腕からするりと抜け出て、そのまま肩に頭を預ける格好で後ろを見据える。

 必死に走るカスミには横目で見ることしかできないが、きっと追ってくる鳥たちと目が合っていることだろう。だが、なぜ急に傷ついた身体を押してまで姿勢を変えたのか。


「はっはっ……うぇっ!? なに!?」


 それは突然のことだった。いったい何をしたのか、黒い鳥の身体から霧のような何かが勢いよく吹き出していく。

 鳥自身と同じく黒い色をしたそれは怒涛の勢いで噴出すると、水に溶いた墨にも似てカスミの後方に広がっていく。

 ほとんど背後を確認できないカスミだったが、その黒い霧が追手の鳥に何かしたのだろうということは察せられた。羽ばたき音が少し遠くなり、魔法が飛んでこなくなったのだ。

 それから霧は早戻しの如くあっという間に黒い鳥の身体へと戻り、何かの見間違いだったのかのように消え去ってしまった。そうして何も出さなくなった黒い鳥は落ちるように腕の中に戻り、また大人しく小さくなっている。


 これも魔法の一種なのだろうか。何が何やらわからないままではあったが、後ろと少し距離が開き余裕ができたのだけは確かだ。

 とはいえ、このまま素直に門まで走っていてもまた追いつかれてしまうだけだろう。体力的にすでに限界なのは変わっていないのだから。

 それならばと、カスミは一つの賭けに出ることにした。危険が少しでも遠ざかった今、体力と魔力が残っている内に。


 走りながらカスミは体内を巡る魔力を操作し、ありったけの魔力を体中から集め始める。

 自然体と真逆とも言える状態では魔力操作も今まで通りとはいかず、思うように扱うことができない。もどかしいまでに集まらない様は、まるで手のひらからこぼれ落ちる砂粒のようだ。

 だが、もう森を抜ける瞬間は目の前まで来ている。カスミは不格好に顎を上げて走りながらも必死に魔力に集中する。心臓が悲鳴を上げ、足が泥沼に嵌ったように重くても。

 そして、杖を正面へと突きつけた。


「〝冠たる者はっ……流離さすらえどっ……はっはっ……泥塑でいそ行き交うっ……地は誉ほまれっ! ――【土壁ガハナ】っ!〟」


 息も絶え絶えの詠唱が結実する。初めて魔術を使った時よりも覚束ない綻びだらけの魔術に、魔力をごっそりと持っていかれながら。

 唱えたのは土を盛り上げて壁を作り上げる初歩の魔術。物理的な硬さを得た守護の壁を、しかしカスミは柵の手前に小さく作っただけだった。

 一メートルほどの柵はおろか、カスミの腰よりも更に低い縦長の土の塊は、壁としての役割は果たせそうにない。


「〝【土壁ガハナ】〟っ! 〝【土壁ガハナ】〟っ!」


 それでもカスミはお構いなしに魔術を使った。詠唱の効果が残っている内に、立て続けに二度。

 消耗していた魔力を一瞬にして更に大きく失い、あっという間に〝魔力不足〟を飛び超えた身体はあまつさえ〝魔力希薄〟状態へと一気に迫る。それでもカスミに大した変化は及ばない。命がけなど今更というものだ。

 そうして追加された【土壁ガハナ】は一つ目の奥に背の順で並ぶように二つ。合わせて三つ並んだ姿は順番に大きくなるドミノ倒しにも似ている。


「はっはっ……ちゃんとっ……捕まっててっ……」


 気を抜けば前のめりに倒れそうな身体に鞭を打ち、鳥を抱える左手に力を込めてついに森から飛び出る。蹴り飛ばした下草を後ろに撒き散らして。

 魔術に意識を割いていた間に後ろとの距離が縮まっているのが振り向かずとも肌でわかった。耳に入る羽ばたき音はもはや背を殴るかのようだ。

 今魔法を撃たれたら間違いなく当たるだろう。

 そんな確信を振り払うように、カスミは脇目も振らず柵へと突っ込んでいく。なけなしの魔力で維持し続けている土壁を目指して。


「んあっ!」


 一番手前の低い土壁に辿り着く。

 するとカスミは勢い殺さずその土壁に足をかけ、次の少し高い土壁へと足を上げた。平たい板状の土壁を踏み外さないように。

 二つ目の土壁に届いた逆の足も踏み抜くつもりで力を込め、踏み切る。そして一番柵に近い最後の高い壁に足が付くと、残されたすべての力を振り絞るつもりで跳躍した。


「とど……いてぇ!」


 駆け上がるような三段ジャンプが、カスミの身体を高く上に運ぶ。

 しかし、体力を使い果たした身体が空中でバランスを保てるはずもなく、やけに遅く感じる視界が上下に反転していく。


 くるりとひっくり返りカスミの背面が正面に変わると、追い縋る鳥たちから津波のように迫る炎の奔流があった。森を抜けたら周囲に配慮する必要はないということか。二羽分の火炎は最初のそれよりも遥かに大きい。

 人ひとりを炭と化して余りある熱量が眩い焔光を撒き散らし、それでもカスミは逃げ場のない空中で〝にへら〟と笑った。

 走り逃げる中で付いた手の傷が、頬の傷が、全身の傷が幻のように消えていく。血の跡だけを残し、されど痛みは露ほども残さずに。

 残った体力を振り絞った渾身の跳躍は、見事カスミを最後の障害物よりも高みへと運び上げた。となれば如何な魔法とて恐れることはない。ウサギの土の矢と同様、見えない壁に阻まれた炎は僅かな熱すらカスミに与えられはしないのだ。


 空中でその炎の様子を見ていたカスミだったが、地面に激突する寸前に慌てて身体を捻り鳥を庇った。そのせいで背中から地面に叩きつけられ、突き抜ける衝撃に息を詰まらせる。

 すぐに癒やされるとはいえ、衝撃を食らった瞬間の痛みはそのままだ。その一瞬だけの我慢だとわかってはいてもあまり歓迎したくないものである。

 しかしカスミ以外が同じ目に遭ったらそんなものでは済まない。なにせシェルターの機能が適用されないのだから、もしも瀕死の鳥が地面に衝突していたら望まぬ結果となったに違いない。

 それにそのカスミにしても体力や魔力の消耗まではすぐにカバーされないらしい。


「はっはっ、んっ、はぁ、はぁ……」


 大の字に倒れ込んだカスミは、止まらない汗を拭くこともできないまま息を弾ませていた。抱えられたまま胸に乗った鳥が激しく上下しているが、それを気遣う余裕は残念ながら無い。


 そうして横になったまま柵の外へと目を向けると、いつの間にか上空の監視役と合流した四羽が敷地に入ろうと体当たりをしかけてた。

 見えない壁は不法侵入にも有効だ。何度やっても通れず、魔法も通じない空間に鳥たちは苛立っているようだ。

 尤も、電脳魔法インターフェイスには魔力が必要なことがわかっている。

 すでに半分以上魔力を消耗しているというのに、何度もシェルターに攻撃を加えられたら魔力が致命的に減ってしまうということもあるかもしれない。

 カスミは満足に動かない身体を起こし、鳥たちの動向を窺っていた。早く諦めてどこかに行ってほしいと願いも込めつつ。

 その願いが通じたのか、四羽同時の魔法すらも通じないことを確認した鳥たちは悔しげに大きな鳴き声を残し、空へと飛び去っていった。最初に姿を現した方角に向かって。

 その姿を見えなくなるまで見送ったところで、カスミはようやく心から安堵することができた。

 どうやら逃げ切ることができたようだと。

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