06. 初級魔術入門書
一時はお預けされた魔法に今度こそ触れられる。
その感動はカスミの気持ちを高揚させて止まず、抑えても抑えても口角は上がっていく。
いや、そもそも抑える必要など無いのだ。カスミは心に押されるまま跳ねるようにその場から取って返すと、一息つくこともなくソファに勢いよく飛び込んだ。
「あいたっ」
つい忘れていたがソファの座面は大して柔らかくない。思い切りお尻を強打してしまい、響くような痛みが背筋を突き抜ける。
それでもカスミの顔に浮かぶのは満面の笑み。
「っつ~。でもわたしには魔法があるし。ふふふふふっ」
有頂天であるのはカスミ自身わかっている。それでも気持ちが湧き上がり続けるのだから仕方ないのだ。
痛みが収まりきらない内にもいそいそと『初級魔術入門書』を開き、両手でパチンと頬を叩き気合を入れる。眠気なんぞとっくに影も形も無かった。
爛々と輝くカスミの目の前で表紙が捲れる。
最初のページに書かれているのはこの本の概要。表題通り初めて魔術に触れる人のための本であること、誰でもこの本で簡単な魔術が使えるようになるはずであること、魔術は危険なものであるため練習には誰かの付き添いが必要であることなどだ。
当然付き添いなど望めないカスミは独りでも強行するつもりだが。
やたらと小さな文字でびっしりと書かれている本を読み進めていく。空白を恐れるかのように埋め尽くされた紙面は、少し離れて見れば真っ黒に見えるページまであった。メモ帳にコピーした架空の紙なのだから拡大表示できる、と途中で気付けなければカスミの眉間にシワの跡が刻まれたかもしれない。
概要に続けて書かれるは基礎知識。魔力、魔術、魔法に関してであった。
カスミの前世の知識では魔法など空想の力でしかなかったが、この世界ではしっかりと体系付けられた実在の現象として認識されているらしい。魔術と魔法が全く異なる意味を持って共存しているというのは少々意外だが。
魔力というのはわかりやすい。魔法に使う燃料のようなもので、生物なら例外なく持っているある種の体力とでも考えれば良さそうだ。
空気中に存在する魔素と呼ばれる物質が体内に吸収されて魔力となり、身体中を巡った後は生理現象として微量ずつ体外に放出されているらしい。魔力となって放出されたものと魔素は別物なのだとか。
自分もこの魔力を放出しているはず。そう考えるとカスミは何とかして目で見てみたくなったが、どう見ても自分の体から何かが出ているような様子は無い。残念ながら目に見えるようなものではないのだろう。
その魔力を使う手段が魔術である。魔力が〝魔の力〟であるなら、魔術は〝魔を扱う術〟といったところか。
魔術が指す言葉の範囲は広く、あのウサギが放った土の矢のような現象から錬金術のように物を作り出す技法まで、魔力を利用したものは総じて魔術に含まれるのだそうだ。
そして魔法だ。魔法は〝魔の法則〟であり、本曰く『魔力や魔素がその性質を変え現実に超常的な結果を及ぼす法則とその現象』とのことだ。
カスミはこれを読んだとき、つい呟いてしまった。
「うん。なに言ってるのか全然わかんない」
自動翻訳のおかげで文章は完全に理解できているが、内容の理解となるとまた別である。
だからといって放り投げるつもりは無い。ゆっくり噛みしめるように読み進めていくと、少しずつどういうことなのかわかってきた。肝は魔力、魔法、魔術の関係性だ。
「なるほど……『それぞれを料理に例えれば〝魔力〟は食材、〝魔術〟は調理、〝魔法〟は完成した料理である。または農業に例えると〝魔力〟は種、〝魔術〟は農作、〝魔法〟は作物となる』か。わたしだったら生地と縫製と衣装に例えるかな」
料理は家の手伝い程度ならしないでもなかったが、農業はしたことがないカスミに取って趣味のコスプレ関係の方がよっぽど例えやすい。そして自分で例えを挙げられる程度には理解できていた。
つまりは〝魔術を使うと魔力を代償に魔法という現象を引き起こせる〟ということだ。従って学ぶべきは魔術であり、この本が『初級魔術入門書』である
基礎知識を読み終えたカスミは数秒目を休めただけで、その先もどんどんと読み進めていった。とうとうここからは魔術の使い方が書いてあるのだと思うと休んでなどいられるわけもない。
自然と無言になったまま本に没頭する。カスミの抱くファンタジー要素への憧れや好奇心に衝き動かされ、ただただ文字を追いかけ頭に刻み込んでいく。
その集中力は深く長く続き、結局本から意識を離したのは半分ほどを読み終えたところだった。
「――あれ? いつの間にこんな暗くなってた?」
薄暗い部屋に驚き窓へと目を向ければ、差し込む光は僅かに赤みがかっている。だいぶ陽が落ちてしまったようだ。
それでももうすぐ夜の時間が訪れるのは疑いようもない。
家探しで気付いた通り、この家に電気は通っていない。もちろん電灯も無いのだから明かりは別のもので確保する必要がある。
カスミは立ち上がると
「……あ、これかな。くふふっ。多分これだ」
扉近くの壁面に目的の物を発見し、思わず不気味に笑ってしまう。初めて見る物だが本の通りならばこれで間違いはないはずだ。
それは丸太の壁に埋め込まれた小さな丸い石。白く濁る水晶のようで、色といい大きさといい探そうとしなければ見つからなかっただろう。事実、家探しをしたときは全く気付けなかった。
「こんな感じ、だと思うんだけど」
その石に指で触れ、集中する。指先ではなく身体の内に向け、きっとあるはずの魔力を求めて。
目に見えず実体の無い魔力を感覚的に理解するのは難しい。体内にあるはずだと認識していても、だから簡単に操作できるというわけではないのだ。尾てい骨があっても尻尾らしく動かせるわけではないように。
そのために必要なのは意識とイメージ。本で推奨されていたのは血液を想像することだ。
空気中から取り込んだ魔素は体内で魔力となり、全身を巡って体外に放出されている。これはカスミの知識だと、どちらかといえば酸素と二酸化炭素、あるいは水分と汗の関係に近い。ただ、全身を巡るという一点において、血液というのは至極想像しやすいものであった。
そうやってカスミが指南通り血液をイメージしながら集中し、いったい何十分経っただろうか。指先で触れている石が仄かに黄色みを帯び始めたではないか。
これまで一向に反応を示さない石に、「もしかしてわたしには魔力が無いのかな……」と不安を覚え始めていたところだから喜びも
すると石に生まれた黄色はどんどんと濃くなっていき、濁った白が抜けて明るく透ける綺麗な黄水晶になったかと思うと、その次の瞬間には周囲がパッと明るくなった。
「やった! やっぱり明かりの魔導具だった!!」
見上げると天井付近に眩く輝くピンポン玉サイズの光球が浮かんでいる。これこそが魔力を注いだ石、正体を明かりの魔導具とする物の効果だ。
書によると、魔導具と呼ばれるちょっとした魔法を発動する特殊な道具が生活に使われているらしく、中でも光球を発現させる明かりの魔導具は広く普及しているのだそうだ。
使い方も体内の魔力を注ぎ込むだけという簡便さだが、白く濁った魔導具は待機用の魔力も失い機能を停止しているため、まずは起動させるために多めの魔力を必要とするようだ。さっきまでのこの魔導具のように。
今は起動して待機状態となったおかげで少量の魔力で簡単に明かりのオン・オフができるようになっている。魔導具自体の色も目立つ黄色になっているため見落とすこともなくなるだろう。
魔導具にはいろいろな種類があり生活のあちこちで活躍しているらしい。それはこの家も例外ではなかった。
起動を試みている間に一段と暗さを増した家の中、カスミは打ち上がった明かりを頼りに壁を調べ、停止中の明かりの魔導具を見つけては同じように魔力を注いでいく。一度成功したことでコツを掴んだのか、五分と掛からず起動できるようになったことにも助けられて。
そしてトイレではまた別種の魔導具も発見することができた。便器のすぐ横の壁、水道の配管を探していた時は目を向けようともしなかった場所に。
明かりの魔導具と異なり起動すると青緑色になったこれの用途は一目瞭然。迷うことなく使用してみると音を立てて便器に水が流れ、そして元通り少量の水が溜まっていく。
予想通り前世の水洗トイレに酷似した動作を見て、カスミは思わず深く深く安堵の息を吐いてしまった。なにせ先ほど飲んだ水が下腹部を圧迫し始めていたからだ。
もう一度、今度はその身を以てトイレの使用感を確かめたカスミは、スッキリした顔でさらなる魔導具を探し回っていく。
暖炉に火を付ける魔導具、キッチンシンクの水を流す魔導具、お風呂のお湯を沸かす魔導具。他にもいろいろな魔導具が見つかり、カスミは大はしゃぎで起動させていく。
中でも驚いたのは壁を動かす魔導具だろう。一階の巨木部屋そばの丸太壁がせり上がって開いたのだ。
大きく開いた壁はリビングからそのままベランダを通じて庭に降りられるようだ。小さな階段が端の方にあった。
できれば陽が落ちてくる前に気付きたかったというのは我が儘か。口惜しく思いながら、もう一度魔導具を使用し壁を閉ざしておく。
そうやって目に付く魔導具すべてを起動させていると、途中でふと疲労感を覚えた。まるで軽いジョギングでもしたかのように。
突然襲われた不調に戸惑いながら、しかし心当たりがあったカスミは慌てはしない。これは恐らく魔力が不足したことによるものだ。
大幅に魔力を失うと心身に支障をきたすようになると入門書には書かれていた。その初期症状が疲労感なのだと。
一度にたくさんの魔導具を起動させたことで大量に魔力を消費したのだろう。魔導具を使用するだけならともかく、これ以上の起動は止めておいたほうが良さそうだ。折よく目に付いた魔導具はすべて起動させたところでもある。
カスミは無理することなくすっぱりと魔導具の起動を止めると、リビングへと戻り
「一時はどうなることかと思ったけど、これなら生活もなんとかなりそう。明日からは魔術の練習もできそうだし、今日は……もうご飯食べて寝ようかな」
カスミはとっくに宵闇に支配された窓の外を見つめ、転生一日目を締めくくることに決めた。
では夕飯は何を食べようか。少しだけそう悩んでから選んだのは、家探し中に見つけた干し肉の塊だ。見た目から何の肉かまでは判断できないが、傷んでいる様子も無いし食べられないということはないだろう。尤も、これ以外に使える食材が無いだけという悲しい現実もあるが。
食器も食材同様に最低限しか用意されていないようだった。それでも使えそうな木皿とカトラリーを食器棚に見つけたので椅子を踏み台になんとか手に入れる。不本意ながら背の低さにも少しずつ慣れてきたのかもしれない。
そうしてリビングのテーブルに広げたのは硬い干し肉の塊にチーズ味のシリアルバー、ついでに食物繊維とマルチビタミンのサプリメントという取り合わせである。
何とも言えないメニューに眉尻を下げたカスミは小さく「いただきます」と呟くと、削ぐように切り落とした干し肉の端をフォークで口に運んだ。
そして、次の瞬間カスミは悶絶した。筆舌に尽くしがたいほどの辛味に口の中を蹂躙され、慌ててペットボトルを生成し水を口に流し込む。
どうやら干し肉は保存のため大量の塩がまぶされていたらしく、その塩辛さはとても食べられたものではなかったのだ。
このままではせっかく大量に見つけた干し肉が食料にならなくなってしまう。どうしたものかと口直しのシリアルバーを咥えたカスミはテーブルに頬杖をついた。
「……あ、魔導具でなんとかなるかも?」
思いついたのは先ほど起動させたばかりの魔導具を使うこと。料理用の物もいくつかキッチンにあったはずだ。何もしないままで食べるよりはマシになるかもしれないと、食事を一時中断してもう一度キッチンに立つことにした。
まずは干し肉の塩気を水で洗い流す必要がある。シンクに備わった水色の魔導具に魔力を通すと、目の前の何も無い空間に流水が現れた。水を出すために少量なり魔力を必要とするものの、蛇口が邪魔にならない点は前世よりも優れているかもしれない。
そうしてできるだけ塩気を落としたら、次はミルクパンに入れ火の魔導具で煮立たせる。スープのようになればいいなと。
ただし、スープを求めても他の具材どころか出汁になるような素材すら見当たらない。味付けは塩と肉本来の味だけになるだろう。
煮立ってから恐る恐る味見をしてみる。すると思ったよりもちゃんと飲めるスープになっていた。干し肉には塩以外にも何か香辛料が揉み込まれていたのだろうか。物足りなさはあるが即席料理としては及第点の出来だ。
こうして出来上がったスープを深皿に移し、改めて食事にする。途中、干し肉を塊のまま入れたせいでスープの底で切り分けるのに悪戦苦闘するアクシデントはあったが、水分を吸って柔らかくなっていたおかげで時間をかければ食べ進めることができた。
「……はぁ。ごちそうさまでした。ん~、非常食が出せるっていっても、やっぱりこれじゃ先行き不安。家の外も簡単には出られないし、食料の確保は早めに考えたほうがいいかも。野菜も食べたいし」
すべて食べきりサプリメントも飲んだ後の感想である。食事一つでこれだけ手間取ってるのだから前言撤回もしようというものだ。
さておき、食事を終えれば次はお風呂だ。お湯を沸かすのも魔導具に魔力を注げば食器の後片付けでもしている間に自動で済むのだから、心底入門書を読めるようになって良かったと思う。
お風呂となると石鹸類も欲しくなるところだが、こちらは嬉しいことに衛生管理の名目で支援物資に含まれていた。香り付けもない最低限の品質とはいえ、有ると無いとでは大違いだろう。おかげで湯に浸かる前にしっかりと転生初日の埃を落とすことができた。
湯船は温泉宿のそれのように綺麗な木組みの一据え。底が深いため溺れないよう中腰になる必要があるが、そんな半端な姿勢でも身体中の疲れが湯に溶けていくようで、上がる頃には心身ともに存分にリフレッシュできていた。
「これで冷たいフルーツ牛乳でもあればいいのに。非常食に追加されないかな?」
そんな都合の良いことを口にしながら洗面所にあった麻布で水気を拭い、入浴前に脱いだばかりのワンピースとローブに袖を通す。着替えはネグリジェしかないが、あらかじめ洗面所に用意しておくのを忘れたのだ。
ついでに下着の替えもないが、そもそも着けていなかったのだから問題は無い。というよりも、無いものはどうしようもないと諦めるしかない。
それから歯磨きその他寝る準備を済ませ、二階にある最初の部屋に戻る。お風呂のおかげで身体が芯から温かく、気を抜けばうつらうつらと頭が左右に揺れた。
カスミが目覚めた部屋は当然ながら後にした時のままだ。明かりを付けて見渡すと、丸一日にも満たない時間しか離れていないこの部屋が懐かしく思えるのが不思議である。あまりにも内容の濃い一日を過ごしたからだろうか。
改めてネグリジェに着替えてからベッドによじ登り寝転がる。天井に浮かぶ光球が優しく眩しい。
魔導具によって作られた魔法の明かりだ。その部分だけを聞けば如何にも異世界らしい環境である。実態はウサギに殺されかけ干し肉をお湯で食べる野生染みた世界だが。
「魔法かぁ……とりあえず魔導具が使えるようになったのは便利でいいけど……」
本当は早く魔術を覚えて自由に使いたい。寝る前の僅かな時間でも練習したい。
だが魔力はかなり消耗している。食事やお風呂の時間である程度までは回復しているが、無理はしない方がいいだろう。ただでさえ練習に付き添いが必要だという入門書の忠告を無視しているのだから。
そして何より、疲れた。魔力とは関係なく身体が休息を求めているのがわかる。ベッドの上で、より顕著に。
しかし寝る前にやっておきたいことがあった。日記だ。
それと、リーセとの話も記憶が鮮明な内に残しておきたい。あの時の会話はどうも重要な内容が多かったように思う。それを忘れて失敗はしたくはない。
ベッドにうつ伏せた姿勢でメモ帳を開き、
「――よし。こんな感じでいいかな。細かい部分はちょっと曖昧だけど」
覚えているすべてを書き記し、カスミは
ゴロンと仰向けになりベッド脇の窓を見上げる。カーテンには今朝見たままの隙間があり、これだとまた眩しさに起こされることだろう。
「
起き上がるのが億劫だったカスミは、ボイスコマンドでカーテンを遠隔操作した。
アイコンパレットを指で操作するピックコマンドと違い、大雑把な命令しかできない代わりに近づき接触する必要はない。こういう時には便利なコマンドである。
「
続いて部屋の明かりを消そうと思ったのだが明るいまま変化が起きない。カスミは何か失敗したかなと思いつつ【明かりを消して】や【暗くして】、【もう寝かせて】と次々にボイスコマンドを試してみたが、一向に明かりが消えることはなかった。
そこでピンときたのは、魔導具で作られた明かりには
「うぐぅ……めんど、くさい……」
もう寝る体勢に入っているというのに、起き上がってドアまで行くのは辛かった。
それでも明るい中で寝るのはあまり良くないのはわかっている。魔導具に溜まった魔力を無駄に消費させて、起動からやり直すこともしたくない。
仕方がない。消しに行こう。がんばって起き上がって、魔導具まで行こう。
それが意識が落ちる寸前のカスミの思考だった。
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