05. 電脳世界の恩恵

 どれくらい蹲ったまま怯えていただろうか。手から転がり落ちた杖のけたたましい音にハッとしたカスミは、転がっていく杖を慌てて手で抑えた。

 いろいろなことが重なり身体も心も振り回された挙げ句、長らく茫然自失としていたらしい。


 杖を支えにゆっくりと立ち上がる。膝が笑うのをなんとか抑えて。

 考えてみれば無事に逃げられたのもこの杖のおかげだ。偶然とはいえ二発も土の矢を防いでくれたのだから。持って行って良かったと心底思う。

 見た目より頑丈なのか、大した損傷も無く綺麗なままの杖を感謝と共に元あった場所に戻すと、カスミは足を引きずるように上がりかまちへと向かい、腰を下ろした。最後の最後に力が抜けストンと腰が落ちてしまったのは、よっぽど芯にきていたということだろう。

 そのまま悄然として俯いたカスミの口からも、つい溜息だけでなく愚痴まで漏れ出てしまう。


「はぁ……この家の外、あんなに危険なの? これじゃどこにも行けないよ。だいたいウサギが魔法使うのは反則だって。わたしも使えないのに」


 一歩間違えれば死んでいてもおかしくない数分間だった。結果的に逃れることができたのは単なる幸運でしかない。

 頬の稜線を指先でなぞってみれば鮮やかな赤に染まる。血は止まったようだが、まだ乾いてはいないようだ。

 できれば清潔な水で傷口を洗ってから消毒したいが、困ったことに水も薬品類も手元に無い。傷の原因が原因だけに放っておくわけにはいかないのだが。

 尤も、適切な処置をしたとして、荒く尖った物に抉られた跡は一生残るかもしれない。


「生まれ変わったばっかりで顔に傷かぁ……まぁ、生きてるだけ良かったけど」


 だというのに、カスミの口から出てきた感想に深刻さは無かった。もしさぞ大騒ぎしたことだろう。

 とはいえ傷口の確認くらいはしておこうと、家に上がって姿見と向き合う。顎下まで赤く染まった右頬が我が事ながら痛ましく、思わず背けたくなる目を薄く開けながら。


「……ん? んん~?」


 顔を鏡に近づけたり遠ざけたり、口の中から舌で頬を押してみたり、角度を変えてみたりと、何度も確認してみる。

 それでも、あるべきものが見つからない。


「傷が無い?」


 深く刻まれたはずの裂傷は血の跡だけを残して綺麗さっぱり消えて無くなっていた。そういえば痛みももう全く感じない。

 つまり、血をダラダラと流すほどの傷が家に逃げ帰る僅かな間に完治したということになる。通常ならあり得ないのは考えるまでもない。

 しかし、カスミにはその通常から外れる例外に一つだけ心当たりがあった。


「あっ! もしかして!」


 もし予想が正しければ、今の困難な状況を打開する大きな助けになるかもしれない。

 そんな思いに急かされるように目の前に個人記録パーソナライズを開く。最初に開いたのは転生直後にも見た自分の身体情報。


「このページじゃなくて、たしか天気とかの……あった!」


 目的の情報を見つけたのは環境分析のページだ。

 周辺環境に関するすべての情報が集約されたこのページは時刻や天候に留まらず、犯罪の発生状況や事故多発地点など、身の安全に関わる情報までも記載されている。


環境警戒指数アラートレベルは……やっぱり上がってる。レベル四だなんて初めて見た。えっと、『大規模災害や武装勢力など、直接的に生命を脅かす危険が周辺に存在する状況が該当』か。うん、キケンはキケンだよね今。ものすっごく」


 環境警戒指数アラートレベルは読んで字の如く周囲の危険性を段階的に知らせてくれる数値だ。

 現状はどうやら五段階中の上から二番目に該当しているようだが、その数値は異例と言えるほどに高く、そして特別な意味がある。なにせ普段は電脳世界でも制限が掛かっている権能のいくつかが開放されるのだから。


 そもそも電脳世界に付加された機能、通称インターフェイスは精々が人類の活動をサポートするものでしかない。それは道具の自動制御や単純動作の省略化といった〝便利〟の範疇から逸脱しないものである。物理法則すら書き換えることが可能な人工の世界であるにも関わらず。

 そこには様々な理由があるらしいのだが、人命に関わるときのみその制限が一部解除されることがある。その最たる例が環境警戒指数アラートレベルと言えよう。

 基本的なところでは避難時におけるちょっとした補助機能の開放に留まるが、特にレベル三以上ともなると自宅や最寄りの公共施設がシェルターとして指定されるようになる。今ならばこの家が対象のはずだ。

 電脳世界の論理が適用されたシェルターは強固に人命を守る。外部からの悪意ある干渉を完全に断つその権能は、たとえどんな禍害に巻き込まれようとも確実に安全を保証する役割を持つ。

 加えてレベル四ともなると、一時的な安全性のみならず中長期的に健全な生活を送るための支援機能までもがシェルターに追加される。

 試しにと個人記録パーソナライズに増補された機能を使ってみれば――


「やった、お水だ!」


 カスミの手中に瞬時に出現したのは透明な水が入ったペットボトル。これこそが無から有を作ることすら可能とする特別なシェルターの支援機能である。

 備わっているのは非常食や救急用品といった支援物資の生成、傷の治療、シェルター環境の保全など。

 先ほどの土の矢はシェルターの防護機能により防がれ、負った傷もシェルターに戻ったことで自動的に治療されたというわけだ。


「はぁ……運が良かった」


 杖で土の矢を防げたこと、門のすぐそばだったこと、家が庭まで含めシェルターに指定されたこと。すべてが幸運だった。


 カスミは一度外に出ると水で頬の血を洗い流していった。冷たい水が心地良く、余った半分ほどを喉を鳴らして飲み干す。知らない内にかなり喉が乾いていたようだ。

 空いたペットボトルをシェルターにより操作制御マニュピライズに追加されたゴミ処理機能で消却処分し、再び姿見に顔を突き付けてみる。水で濡れそぼつ頬にはやはり傷一つ無い。出掛けに見たものと同じつるつるの柔肌だ。


 なんとか人心地ついた気分となったカスミは、リビングまで戻るとそのままソファに腰を下ろした。グレーの荒い布地はゴワゴワと固く、座り心地はあまり良くない。

 それでもべっとりとへばりつくように疲れ果てた身体を預ける。

 本来なら家の周りをもう少し探索したいところだが、どっと疲れた身体にそんな気力が湧いてくる気配は無かった。この家がシェルター指定されているという安心感で気が抜けたことも大きいのだろうが。


「ん~……ちょっとお腹空いたし、せっかくだから非常食でも生成してみよっかな」


 支援物資に含まれる非常食はもちろん水だけではない。試してみれば、出てきたのは銀色の紙に包まれた棒状の塊。腹持ちと栄養価を兼ね備えたシリアルバーだ。

 包装を破りパクりとかぶり付く。選択したのはメープル味。バターとメープルが香る甘くてしっとりとしたシリアルバーは何の変哲もない栄養補助食品だ。口の中の水分が勢いよく消えていくのも変わらない。

 小さな口では食べきるのも一苦労で、パラパラと食べかすをこぼしながらやっと完食する。胃袋も小さいおかげで一本でも充分に満腹感があった。


「ふぅ。食料問題はこれで解決……でもないか。さすがにずっと非常食はきついし。お風呂も水を出しただけじゃ水風呂だもん。支援物資は助かるけど、どう使うかちゃんと考えないと」


 生命活動の保証こそされたものの、豊かな生活にはまだ遠い。

 それに前提として、そういった機能が使えるのはこのシェルターの中だけだ。外に出た後の危険に関しては何ら解決していない。


「結局、わたしが今使えるものって前世のインターフェイスだけなんだよね」


 電脳世界由来のインターフェイスはたしかに便利だ。

 個人記録パーソナライズなら自分の体調管理も簡単にできるし、メモ帳もあらゆる場面で役に立つ。

 道具を操作する操作制御マニュピライズももちろん重要で、今のところは着替えぐらいでしか使っていないが、うまく使えば前世で作った妖精のように複雑な操作もできる。道具全般の自動化が真骨頂なのだから。

 シェルターとそこで使える支援機能は言うに及ばず。日常生活で使える機能ではなかったので何ができるか把握しきっているわけではないが、生存率が格段に上がったことは間違いない。


 これらがカスミの持つ武器のすべてだ。身も蓋もない言い方をすれば、今のところ転生して得られたものは全く無い。魔法が使える世界だというのに。


「魔法かぁ……ウサギが使えるのにわたしが使えないのは地味にショックかも。でも文字が読めないんだもんな……」


 そうぶちぶちと愚痴りながらコピーしておいた魔法の本を開く。質感までも再現されたそれは元の本そのもので、本の中に別の本の表紙があるような不思議な見た目になってしまっていた。

 本革の表紙の質感を指先で楽しみながら、カスミはどうやればこの本を読めるようになるのか考えてみる。

 文字を教えてくれる人を見つけることができれば話は早い。だがそう上手くはいかないだろう。


「文字が読めないんだから言葉も通じないだろうし。そもそもこの家の敷地から出られないから人にも会えないし」


 どちらも根本的な問題である。手詰まりと言って相違ない。

 コテンとソファに横になり膝を抱える。動きに合わせて追ってくる個人記録パーソナライズから顔を背け、くすんだモスグリーンのカーペットに目を落とす。古びているわけではなく、元からこの色のようだ。


「まほー……まほー……ん~眠い……」


 横になっているせいだろうか、急に瞼が重くなってきた。脳を通さず言葉が口から零れる。

 このままでは何一つ解決しないまま眠ってしまうかもしれない。

 カスミは砂粒のような気力をかき集めて起き上がると、魔法の本にデコピンで八つ当たりした。


「ていっ。なにが『初級魔術入門書』よ。読めなきゃ意味ないんだから」


 そう鼻を鳴らすと本を消し立ち上がる。重い背嚢を背負ったかのような眠気が煩わしく、不意に飛び出るあくびは止められそうもない。

 ネコのように身体を伸ばし、存分に開けた大口を閉じたところでふと気付く。


「あ、もしかしたらあの杖があれば魔法が使えるかも。そういうのよくあるしね」


 試してみる価値はある。杖を用いて魔法を使うというのはファンタジーの定番も定番だろう。或いは魔法が飛び出る道具というのも同様に。

 そう思い立ったカスミは再び杖を手にすべく玄関に向かう。心のどこかに引っかかるものを感じながら。


「う~ん? あ、そっか。『初級魔術入門書』だから魔法の本じゃなくて魔術の本なんだ。じゃあ魔法の杖も魔術の杖になるのかな。違いはわからないけど」


 心に浮かんだ言葉を深く考えることなく独り言ちつつ、ぼんやりと玄関に向かう。

 そうして中央巨木の横を通り過ぎるあたりで、カスミは歩き姿勢のままピタリと静止した。自分が変なことを言っていると、ようやく気付き。


「わたし、何言ってた? 『初級魔術入門書』って、魔法の本のこと?」


 理解しきれないまま、カスミはもう一度魔法の本を開き表紙を凝視する。そこに書かれた文字はやはりぐにゃぐにゃとした知らない文字、ではあるのだが。


「『初級魔術入門書』……うん。やっぱり読める。読めるようになってる」


 突然読めるようになった魔法の本、もとい初級魔術入門書に、カスミは感情を動かすことも忘れたまま小首を傾げ固まってしまった。

 今日まで、もっと言えばついさっきまで読めなかったはずの本がいつの間にか読めるようになっている。

 カスミが文字を覚えたわけでもなければ、本の文字が変わったわけでもない。何も状況は変わっていないというのに、読めるという事実だけが変わっているのだ。


 カスミは頭を大げさに振り硬直を解くと、わざわざ自分の手で表紙の端っこをつまむように捲ってみる。そこにはたしかに読めないはずの文字で、読める言葉が書いてあった。


「『この本は初めて魔術を扱う者が基礎を学ぶための教本である』。やっぱり読める。なんで……?」


 最初の行を音読してみても困惑は増すばかり。二階で本を見つけてから今までの間に本が読めるようになる何かがあったとでも言うのだろうか。

 今日は転生初日だけあって一つひとつの行動が印象深く、思い返すことに苦労はいらない。本をコピーし終えた後は部屋を出て、隣の空き部屋を見てから一階を探索した。一階は生活基盤こそ揃っているものの特別な物は杖くらいしかなく、外に出てみると魔法で襲われてしまったがシェルターに守られて――。


「思い出した。たしかそんな機能があるって授業で習ったような……」


 環境警戒指数アラートレベルにより開放される避難時の補助機能は、低位のものであればそれなりに身近な存在である。最低限該当する状況が少し大きめの台風や地震程度であり、使える機能も電車遅延の案内や避難経路のライトアップといった簡易的なものに限られるからだ。

 その避難補助もレベルに応じて段階的に高機能なものを含むようになり、その中には〝多言語自動翻訳〟なるものも存在している。

 カスミの記憶によると海外渡航時などで災害に遭遇した際に意思疎通を介助する機能で、言葉ではなく意志を翻訳してくれるのが特徴なのだそうだ。

 授業中、脱線好きな初老の先生はこんな雑学を語っていた。


『意志を翻訳するもんだからダジャレも通じるって話があってな。そのつもりで口にすればアメリカ人にも〝Bed flew〟じゃなくて〝ふとんがふっとんだ〟と伝わるらしいぞ。なんでも、インターフェイスの検証をする機関がどこまで言葉が通じるか調べるために大真面目にダジャレを言い合ってるんだと』


 その突飛にして下らない話はカスミの印象にしっかりと残っている。ダジャレはともかく、それほど正確に翻訳してくれる機能だということがだが。

 そしてそれが海外渡航時と同じように、異世界転生をした今も使えるようになっているのだろう。状況的には似通っているのだから、あり得ない話ではない。


 そう腑に落ちると同時、カスミは自分の頬を抑えた。熱い。鏡を見ずとも紅潮しているのはわかる。

 当たり前だろう。心臓が早鐘を打っているのだ。魔法の本を読めるようになった喜びで。

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