02. 記憶探し(1)

 そこはまるで暗闇に浮かぶ小さな舞台のようだった。

 半径五メートルほどの円形の石床には壁も屋根も無く、ただ円周上に立ち並ぶ篝火だけがぼんやりとその存在を主張している。あくまで古式ゆかしくか細いその灯火は、しかし墨を溶いたような漆黒の世界ともなれば心強い光明に他ならない。

 尤も、舞台の中央に呆然と立ち尽くすその少女、霞からしてみれば何の気休めにもならないが。


「……ここ、どこ? どういう状況?」


 なにせ、ふと気付いた時にはポツンと独りこの場所に、という異常事態にあるのだから。

 寝起きというわけではない。パチっとスイッチが入ったかのように覚醒した感覚は、慣れ親しんだ睡眠からの目覚めとはまるで別物だった。

 そもそも覚醒したその瞬間には両の足がしっかと地面を踏みしめていたのだ。特に寝起きの悪さに自信のある霞に取ってあり得ない状況と言える。

 加えてその場所が見も知らぬ舞台上なのだから、狼狽に独り言の一つも漏れたとして何らおかしくはないだろう。もちろんそこに問いかけの意図など無く、回答があるなどとは微塵も思っていない。

 しかし、そんな予想は直後に裏切られる。


≪不思議に思われるでしょう。大丈夫です。順番に説明いたしますよ≫


 不意の応えに霞の肩が大きく跳ねた。年齢も性別も、出どころさえも判然としない声が頭上から降ってきたかのように響いたのだ。

 慌てて視線を巡らせてみたものの、舞台の上はもちろん、外に広がる暗闇にも人の気配は無い。


≪姿が見えないので不審に思われるでしょうが、あなたに害を及ぼすつもりはありません。ご安心を≫

「は、はあ」


 姿を現さぬまま続けられた言葉に、「不審じゃなくて不気味なんですけど」と返しかけた霞だったが、なんとか曖昧に言葉を濁すに留める。

 何一つ状況がわからず未だ混乱の渦中にあるが、害意が無いと主張する相手を無駄に刺激しないくらいの分別は残っているのだ。


≪さて、話を始める前に確認しなければならないのですが、あなたは今どこまで記憶がはっきりしていますか?≫

「どこまで記憶が、ってどういう意味ですか?」

≪訊き方が悪かったでしょうか。そうですね……あなたは自分が何者なのか覚えていますか?≫


 不思議な声は反響しているように語尾がぼやけているが、それでもゆったりとした染み入るような声音こわねが理由か、聞き取るのには何の苦もない。

 とはいうものの、素直に質問に答えられるかはまた別の話である。「あなたは誰か」と訊かれるのならまだしも、「何者か覚えているか」と訊かれているのだ。何とも不安を煽られる言い回しではないか。

 尤も、ならばどう返答すべきかと頭を捻ってみても、結局名前を答えることくらいしか思い浮かばないのだが。


「わたしは……名前を訊かれてるなら、東條とうじょうかすみですけど」

≪おや、名前を覚えていらっしゃる。他にも覚えていることはありますか?≫

「はあ、わたしのことでですか? えっと……歳は十六で、十月生まれのAB型です。家族は両親と三つ下の妹とネコがいて、あとは……衣装を作ったり着たりするのが好きで、演劇部でたまに役をやったりもしてます」

≪ほう、かなり覚えていますね。これならいけるかもしれません≫

「いける、ですか?」

≪ええ。ここにいる前のことは覚えていますか?≫


 一方的な質問攻めに対して答える声もつい戸惑い混じりとなってしまったが、相手にそういった機微を斟酌するつもりはないらしい。ただ重ねて記憶を問うばかりである。

 このままでは何もわからないままだと悟った霞は、これに答えたら質問を返そうと心に決めつつ自らの記憶を探っていった。


「ここに来る前は確か……あ、学校にいたんだ。学校で……そうだ、衣装! 部室で学祭に使う衣装を描いてたらるいちゃんが来て……来て? あれ?」


 するとどうだろう。記憶がいちいちぼんやりとしていて、なんとか思い出せてもある時点でぷっつりと途切れているのだ。

 最後に覚えているのは部室で瑠依菜と談笑していたこと。そこからこの場所に至る記憶はどこにもない。

 或いは覚えていないのではなく、突然意識を失いでもしたのだろうか。

 霞はその可能性を考えてみたが、それはつまり何らかの原因があったことも示唆している。病気か、事故か、はたまた誰かが――。


 嫌な想像に至った霞は大きく身震いしてそれを追い出すと、異常はないかと何気なく自分の身体に視線を向け、そこでようやく気付いた。

 自身に、ある意味で特大の異常が発生していることに。


「この服……試しに作った衣装だ」


 白と濃紺を基調とした落ち着いた色合いのジャケットに金糸で精緻な刺繍を加え、左肩のワンショルダーマントとロングテールスカートで動きを出した騎士服。

 最後に描いていたデザインとは細部だけが違うこの騎士服は、間違いなく仮デザインから起こした瑠依菜の衣装だった。何度か袖を通したこともある。

 同い年とはいえ小柄な霞に瑠依菜の衣裳は大きすぎるのだが、実は袖を折れるようにボタンを付けたり各部にアジャスターを仕込んだりと、細かく丈の調整ができる仕組みを施してあった。

 その理由は瑠依菜も指摘した通り、自分も着たいからである。そして今着ている衣装はサイズ調整が完璧だった。

 そう、自分で細かく調整しないと絶対に不可能なほどに。

 それに気付いた瞬間、霞はゾッとした。


 記憶が欠けているという状況は、見方を変えれば知らない内に自分の身体が勝手に動いていたような空恐ろしさがあるものだ。

 霞も一度子供の頃、たちの悪い風邪に見舞われた際に似たようなことがあった。高熱を出し朦朧としたまま寝込んだ次の朝、目が覚めたら手のひらにペンで大量に〝す〟の文字が書かれていたのだ。あれは何だったのか未だに不明である。

 だがそれに比べても原因不明な上に気付けば暗闇の舞台上という現状は一層不気味で、喉元を引き絞るような激しい不安に心臓が激しい音を立て始めていた。


「ど、どういうこと!? わたし最後何してたっけ!? なんでこの服着てるの!?」

≪慌てる必要はありません。覚えている分だけで必要な記憶は集まっていますから。恐らくこれを見ればすぐに思い出していくでしょう≫


 にわかにパニックに陥りかけた霞を押し留めたのは、目の前に突如として現れた不思議な光だった。

 円盤状の中心部と長く尾を引く渦状腕かじょうわんとでできた、白く輝く渦とでも言うべき光。

 手で包める程度の小ささで現れたそれは渦巻くごとにその大きさを増していき、あっという間に広げた両腕ほどにまで拡大を果たす。

 そうして暗闇を背景に広がった光の渦はさながら銀河のようで、神秘的とも言えるその光景には霞も思わず不安を忘れて感嘆の吐息を漏らす。


 が、無邪気な感動も長くは続かない。渦の中心部に濃淡が生まれたかと思うと、徐々に複雑な色彩が人の姿を描き出していったからだ。

 それも霞がこれ以上無いほどに知っている少女の姿を。


「もしかして、わたし?」


 作業用に後ろで一房に結んだ黒髪とお気に入りのシュシュ。ブレザーは着ていないがワイシャツとスカートは志望校に選ぶ決め手となった制服の一部で、シルエットは毎朝鏡で見るもの。

 間違いなく自分の姿だ。

 そこから段々と細部まで明らかになっていき、目鼻立ちまではっきり認識できるようになる頃には景色までもが像を成していく。


 まず目についたのは見覚えのあるロッカーやホワイトボード、続いては色とりどりの衣装や出しっぱなしの小道具の数々。すぐにそこが覚えている限り最後に瑠依菜といた演劇部の部室だと気が付いた。

 刻一刻と色彩豊かとなっていく光は壁のシミまでも描いていき、ついには実物と遜色ない鮮明さとなったかと思うと、今度はそこに映る霞の手が忙しなく動き出しペンを走らせる。


≪霞さんの失う直前の記憶を他の情報と組み合わせ補完した映像です。音声もありますよ。ここから流れを追っていけば順に思い出すことも容易いでしょう≫


 どうやら盗撮の類いではなく情報から再現した映像らしい。霞にしてみれば記憶から補完という方法はむしろ盗撮よりもプライバシーを侵害している気がするが、失くした記憶を取り戻す手段と言われてしまっては抗議などできそうもない。

 それに実際、映像の自分を目にした瞬間からぼんやりとしていた記憶が鮮やかに蘇ってきたではないか。

 部室でデザインに没頭していた自分。そしてその最中に現れた彼女のことも。


『あ、いた。すみちー』


 勢いよくドアを開ける音が聞こえたのと同時に、瑠依菜が映像に姿を現した。

 当時の霞は気付かなかったが、どうやらこの時何度も自分を呼んでいたらしい。映像からそれを知り、その気がなかったとしても無視し続けてしまったことを申し訳なく思う。

 一方で、いくら業を煮やしたとはいえ実力行使に打って出るのはどうかとも思ったが。肩を揺するなどいくらでも方法はあるだろうに、赤くなるほど耳を抓むのはやりすぎだろう。

 痛がっている自分の姿を見ながら、思わず今の霞もやんわりと耳を揉みほぐす。


 それにしても外から見る自分たちの姿は新鮮だ。他愛もない雑談を自然体で続ける二人は、傍目に見ても楽しげである。

 そういう第三者視点を認識するのは気恥ずかしいことも否定しないが、衣装を気に入ったという瑠依菜の言葉をもう一度聞いた時は、二度目でありながらも変わらず頬が緩んでしまった。


『だから、自由に飛びまわる妖精を作ったよ』

『……へ?』


 だが、映像が進むに連れてそうも言っていられなくなった。頭の中に記憶の続きが浮かび上がってきたのだ。

 残っていた記憶の終端はちょうどここまで。言うなれば小道具の追加というアイデアを口にしただけの、大して重要でもない雑談の一幕が最後だった。

 しかし忘れていたことが信じられないほどに明瞭な記憶が先へと繋がっていき、記憶から作られた映像を先へと誘導していく。そうして進んだ映像に更なる記憶が呼び起こされながら。


『作ったって言ってもホロだけどね。ん……しょっと。ほら、これ』


 記憶の霞が足元の鞄に手を伸ばして取り出したのは、片手に収まる大きさのドーム型をした水晶のような物だった。


『ああ、ホロリアクターね。操作制御マニュピライズは終わってるの?』

『うん。とりあえずの設定までだけど、使ってみる?』


 瑠衣菜は誘われるがままに霞の持つ水晶へと指を伸ばし、空中を何度か突くような動作をする。

 すると水晶のすぐ上方に淡い光が灯り、かと思うと光は手のひらにも座れそうな大きさの可憐な少女の姿へと瞬時に変わった。

 突然現れた透き通るはねを持つその少女は、音もなく飛び立つとまさに妖精と呼ぶべき愛らしさを振り撒きながら周囲を飛び回り、瑠依菜の頬を突いたり髪に絡まって遊んだりと自由奔放に動き始める。悪戯をされている当の瑠依菜は目を輝かせるだけで、されるがままだ。


『おお! ちゃんと妖精してるね。イタズラっ子だなあ。劇で使うなら動作パターン詰めないと』

『部長の許可がもらえたら台本通りに落とし込むよ。基礎データは拾い物だから少し手間かかるけど、自律してるから自由度はあるしね』

『すっご! はやく部長に見せなきゃだね、これは』


 妖精のイタズラをいなしながら盛り上がる過去の自分たち。

 そんな映像に霞が口元を綻ばせていると、いつの間にか静かになっていた正体不明の声がまたも、しかし先ほどまでと違いどこか上擦ったような声で問いかけてきた。


≪……小さい人間が急に出現したように見えましたが、これはいったい?≫

「これはホロですよ。実体を持たせてるのでリアルホロって言えばいいのかな。妖精を表現するならやっぱりこれかなって。結構苦労したけどこうやって見ても……うん、我ながらいい感じ」


 満足な成果にうんうんと頷く霞だったが、声からの反応は無かった。顔も見えないながらなんとなく考え込んでいるような雰囲気がある。

 また質問攻めが始まるかとさり気なく身構えてはみたものの、それ以上の反応は何も無く映像は順調に進んでいく。

 今は妖精を霞の頭の上に乗せ人形遊びのようなことをしていた瑠衣菜が、ふと良い事を思いついたという笑みを浮かべたところだ。


『そうだ。せっかくだから衣装と合わせるとどうなるか見たいんだけど』

『仮デザでいいならロッカーに入ってるから着てみる?』

『いやいや、そうじゃなくてさ。んだよね』

『はぁ……るいちゃん?』

『もう試着したんでしょ。いいじゃん』

『まぁ、別に着るのはかまわないけどさ』


 言わんとしてることを察して出した霞のわざとらしい溜息交じりの声にも、瑠衣菜は動じる様子を見せない。

 そしてそのやりとりを見ながら、現在の霞ははっきりと思い出していた。この時にこそ騎士服に着替えたのだと。

 寝ぼけていたわけでも誰かに着せ替えられたわけでもない。瑠衣菜のお願いを聞いた結果ではあるが、自分の意思で着替えたはずだ。

 なぜそれを忘れていたのか。ロッカーから今着ている物と同じ衣装を取り出す自分を見ながら、霞はじわりと滲む奇妙な胸騒ぎを覚えていた。


『はい、これね。わたしが着てもぜんぜん雰囲気違うと思うけど』

『いいのいいの。ただ派手目な衣装を着たすみちーが見たいだけだし』

『ちょっとくらい建て前を残そうとしてよ。すーぐ放り投げるんだから』


 口では一応の抗議を述べながらも、元々コスプレが趣味で騎士に憧れている霞に衣装への抵抗感などあるはずもない。

 先ほど瑠衣菜が水晶に向かってやったように、ハンガーに掛けたまま机に広げただけの衣装に指を向ける。すると霞の目の前の空間に、リング状に並ぶ半透明のコインのような物がパッと浮かび上がった。アイコンパレットだ。

 それぞれ違う図柄が刻まれた五つのコインの中の一つを指で突つくと、ハンガーに掛かる服が瞬時に霞の着る制服へと変わり、逆に霞の着ている服がその衣装へとパッと切り替わった。


『やっぱりぶかぶか! 調整し直すからちょっと待って』

『ぶかぶかのコスプレしてるすみちーもアリだけどね。まあ、外で見せたら変な性癖持った男が寄ってきそうだけど』

『ちょ、やめてよ! 変なこと言うの!』


 軽口に応じながらも指を動かす。今度はサイズ調整の操作だ。試着はすでに済ませているので調整すべき部位と数値は覚えている。入力箇所は多いが霞の動きに淀みはない。

 しかしその動きが唐突にピタリと止まる。いや、霞の動きだけではない。瑠依菜も妖精も不自然な姿勢のまま微動だにしなくなった。


≪ちょっといいですか?≫

「はい?」


 どうやら映像自体が停止したらしい。止めたのは恐らく声の主だろう。

 それはすぐにわかったが、先よりも明確に声から冷静さが失われ焦燥感を纏っている理由には心当たりがない。


≪この空中に半透明の記号が現れたり、一瞬で着替えが終わるのは何なんですか?≫

「え? 操作制御マニュピライズですけど」

≪……それは何ですか?≫

「えっと……インターフェイスです」

≪は、はぁ……≫


 納得していない気配は霞にも伝わるのだが、これ以上の説明が思いつかずに困ってしまった。インターフェイスといえばそれだけで幼稚園児にも通じるほどの常識なのに、と。

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