16.人と出会うということ(2)

 ほんの数分前までは静寂に満たされていた木立の一画。魔物が跋扈する地にして四人の人間が潜んでいたそこは、今や場違いにも幼女の叫喚が支配していた。


「あ゛ぁぁぁぁぁぁぁっ!! ひんっ、ひんっ、うあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」


 水面に浸けたようにぐしゃぐしゃに濡れた顔を隠そうともせず、時折しゃくり上げながら延々と泣き叫び続けるカスミ。

 そんな幼女を前にしてしばらく声もなく佇んでいた青年一人と女性二人だったが、とうとう戸惑いに耐えられなくなったといった様子で言葉を交わし始めた。


「あーっと……なんだ、大声で魔物を呼び寄せようとか……だったりするのか?」

「どう見ても違うでしょ。うん、違う……とは思うんだけど……」

「あ……どうしたら……」


 お互いを視線で探りながらどうにも歯切れ悪く相談するこの場からは、針で穴を開けたかのような勢いで剣呑な気配が抜けつつある。

 特に矢面に立っていた青年は顕著で、剣こそカスミに突きつけたままであるもののその切っ先は曖昧に揺れている。警戒を保とうとする言葉も何やら言い訳がましい。


「あ゛ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」


 だとしてもこの世界に来て初めて、それも特大とも言えるその感情の渦中にあるカスミには関係なかった。

 どれだけ泣こうとも土砂降りの心には一向に晴れ間が来ない。ただただ暗澹とした自暴自棄にほど近い情動に翻弄されて、周りの情報などどうでも良いとしか思えずにいた。

 いや、思うことすら無く拒絶していた。感情を御すべき理性が払底しているのだ。


「あぁぁぁぁぁぁぁふっ、ぅぅぅぅぅぅぅぅっ! ぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅ!」


 そんなカスミだから、顔ごと自分の口を柔らかくて温かい何かが覆ったことにもすぐには気付くことができなかった。思うがままに吐き出されていた泣き声がその何かに遮られ、くぐもった響きへと変化していることにさえも。


「っごめんね! ごめんね。怖かったよね? だいじょうぶだから。ごめんね、もう怖くないよ」

「ぅぅぅぅぅ……うぁ……?」


 頭上から優しげな声が降ってきたことでようやく知る。いつの間にか女性に正面から抱き締められていると。

 腕の中に包み込むように、しかし背に回した手は遠慮がちに力を入れるだけの壊れ物を扱うような抱擁。倒れた青年を守る姿勢を崩さず、一番カスミから遠い位置にいたはずの彼女が、弓を手放した両手でカスミを胸に抱き込んでいる。

 そうしながら何度も謝罪と慰撫を繰り返していた。抑えきれずに震えて上擦った声で。


 果たして今自分がどんな状態なのか。カスミがそれに頭を働かせるだけの落ち着きを取り戻すことができたのは、彼女のおかげ以外の何物でもないだろう。

 顔が当たっているのは腹部の辺りか。厚めの服ながらその下には確かに女性らしい体つきを感じる柔らかさがある。トクントクンと静かに脈打つ鼓動もその奥に。

 そんな久しぶりの、本当に久しぶりの他人の温もりを肌で実感し、今までとは別の部分からも熱い涙がこみ上げてくる。目と鼻から出た水分で服を汚すことに申し訳無さが芽生えるが、それ以上に齎される安心感に負けたカスミは気付かれないように顔をグリグリと押し付けた。

 更に強くなる肌の感触は今のカスミに取って暴力的な心地良さで、硬い胸当てが頭に当たってさえいなければとっくに蕩けていたに違いない。


「ネーニャ、待て。まだ気を抜くな。そいつは魔女だろ? 泣きマネで油断させるつもりなのかもしれない」

「無理よ! 魔女かもしれなくても、こんな風に泣いてる子を放っておけるわけないじゃない!」

「ん~……ネーニャ、わたしも気持ちわかるけどさ。やっぱり危ないんじゃ……」

「危なくないわよ!!」


 得られた安らぎにようやく涙が止まり始めたばかりのカスミは、少々遅れながらも三人が手探りのような言い争いを続けていることに気が付いた。

 とはいえ、だからカスミに何ができるというわけでもない。今だ「ひんっ、ひんっ」と勝手にしゃくり上げる喉ではろくに言葉を作れそうになく、してや顔を女性の身体に押し付けていては声が声として聞こえるかどうか。

 どうやらまずは完全に泣き止むことが急務のようだ。そう割り切ったカスミは已むを得ず仲裁を諦め、自分の泣き声に混ざってくる三人の会話を聞くことに徹する。

 その甲斐あって慰めてくれている弓の女性がネーニャという名前だというのはわかったし、そのネーニャが自分を庇ってくれていることも理解できた。

 しかし〝魔女〟がどうこうについてはカスミの関知するところではなく、それを前提としたような三人の会話には疑問が先に立つ。


「エリンだって、本当はこの子は危険じゃないって思ってるんでしょ? 最初から変だとは思ってたんでしょ?」

「う、まあ、うん。それはそうなんだけど……でも、魔女だとしたらそんなの当てにならないじゃない。だからガロットもなわけだし」

「こう、とはなんだ。まさかこんな状況で魔女と遭遇するとは思わなかったし仕方ないだろ。まあ、今はちょっと……魔女じゃないかもとは思ってるが……」

「そうなんだよね……」


 気を抜けばすぐにでもしゃくり上げそうな呼吸を我慢しながら聞いている限り、青年はガロットという名前で細剣の女性はエリンというらしい。どうやらカスミを魔女とやらと勘違いしたせいでこのような状況になっているらしい事も把握できた。

 だとすれば反論はできる。「自分は〝魔女〟ではない」と。実際に違うのだから胸を張って言える。

 しかし証明はできない。魔女と聞いて思い浮かぶのは尽く前世のもので、この世界における魔女の定義を知らないからだ。むしろ前世を引き合いに出せば、今のカスミの真っ黒なローブに杖という格好は魔女と呼ばれるに相応しくすらある。

 それでなぜ自分が魔女ではないと言えるのか。自分ではそう思っていたとしても、その確たる根拠をカスミは挙げられずにいた。


 だがそれでも問題ない。自分が魔女であろうがなかろうが、害意が無いことに変わりはないのだから。


「あ……あのっ!」

「あっ! だいじょうぶ? もう怖くない?」

「は、はい。あの、ひっく! わたし、手当ての道具持ってっ、るんです。ケガしてる人っ、が、いるならと思って……ひっく!」


 名残惜しくも腕の中から抜け出し途切れ途切れになんとか申し出ると、それを聞いたネーニャは一瞬だけ目を丸くしてから眉尻を下ろし、申し訳ないような困ったような微妙な表情を浮かべた。

 ふと見れば残った二人、ガロットもエリンも細かい表情こそ違えど一様に似たような雰囲気で固めている。

 それを感じ取っていながらも泣き疲れと過呼吸で軽く目眩を覚え始めたカスミに深く追求する気力はなく、破裂手前に詰まったポーチから今度こそ小さく巻いた布を引っ張り出した。


「これ包帯です。ひっく。使ってください」

「その、本当にいいの?」

「はい。どうぞ」

「そう……ありがとうね」


 戸惑いながらもネーニャがその手に受け取ってくれたおかげで、一先ず自分もまた受け入れてもらえたのだとカスミは思わず深い安堵を覚えた。

 それに応じて気の昂りも急速に鳴りを潜めていき、そのせいで先程までの自分の醜態を脳裏に蘇らせてしまう。せっかく引きそうだと思った顔の火照りがこれでは再燃してしまい兼ねない。


「えっと、これ包帯なの? 高級服のサッシュとかじゃなくて?」

「いや、確かにキレイな布だけど、やたらと目が粗いぞ。それに……なんか伸びる」


 フォグが持ち帰った物とは似ても似つかない純白の包帯を受け取って目を白黒させてしまったネーニャの横合いから、ガロットが鋭い目つきで覗き込み感触を調べている。

 地面に視線を逸して自分の頬を押さえていたカスミは、その言葉で支援物資のリストには伸縮包帯と書かれていたことを思い出していたが、余計なことを口にするのはまだ怖くて押し黙っていた。


「ありがたく使わせてもらうわね。ちょうど包帯が一本どこかいっちゃったところだったの」

「……まあ、包帯くらいならどうなることもないか。それより問題はだしな」

「そうよ! 二人ともそんな悠長にしてる場合じゃないでしょ。さっきも言ったけど早く街まで戻りましょうよ」

「でも下手に動かすと毒が回っちゃうかもしれないわ。それに街まで体力が保つかどうか……」

「もう体温も下がり始めてるのよ。ただ待っていてもどうしようもないでしょう?」

「それはそうだが、ロディの意識が戻れば解毒に使える野草もわかるはずだ。それを待ちながら目ぼしい野草を手当り次第採集しておくって方法もある」

「それなら二手に別れるのはどう? わたしだけならけっこう早く戻れると思うんだけど」

「往復するなら余計に時間がかかるだろう。だったら俺もロディを背負って後から追うか」

「でも動かすと毒が回るのを早めちゃうわ。やっぱりあまり動かさないほうがいいと思うのだけど……」

「結局その話になるか。くそっ。何をするにしても賭けになるな」


 包帯一つを皮切りに、またもや三人は額を合わせて相談を始めてしまった。

 蚊帳の外に置かれたカスミは迂闊に口を挟まないようハンカチで顔を拭くことに集中しており、鼻の周辺がべっとりとしていて「うげっ」と声が出たこと以外は無言を貫いている。

 それでも耳から入ってしまう会話を無かったことにはできず、聞き捨てならない〝毒〟という単語とその先の結果をほぼ直接的に示唆した深刻な内容に、ポーチから小瓶を取り出して恐る恐るながら話に割って入ることにした。


「あの、もしかしてこれ使えませんか? 初歩的なものですけど解毒のポーションで──」

「何だって!?」


 対するガロットの反応は大げさなほどに劇的で、ネーニャとエリンも声に出さずとも目も口も大きく開きありありと感情を表現していた。

 何か拙いことでも言ってしまったか。密かに冷や汗をかくカスミに、刹那に表情を真顔へと切り替えたエリンがネーニャを押し退ける形で詰め寄ってくる。


「解毒ポーションがあるの!?」


 これまでとは毛色の異なるプレッシャーに思わず後退ったカスミは、コクコクと無言の首肯を返すのが精一杯。

 尤も、相手にとってはそれだけでも十二分に望む返答となったようだ。


「お願い! 後でお礼するから、そのポーションをちょうだい!!」


 そんな鬼気迫る様相で掴みかかってきたではないか。カスミの肩に食い込む指など文字通り痛切な願いを訴えているようで、今や周りの二人が息を呑みながら見詰める相手は果たしてカスミなのかエリンなのか、判断がつかないほどに危うい。


「ロディが、わたしたちの仲間の命が危ないの! だから……だからっ! ──え?」

「はい。この紫色のラベルが解毒なので飲ませてあげてください。ついでにこっちの赤いのが治癒でオレンジが魔力回復なので、一本ずつしかないですけど必要なら全部どうぞ」

「……っ!」


 言葉を失ったエリンの目の前にはカスミが押し付けるように差し出した三本のポーション。

 カスミとしても途中で遮って悪かったと思うが、元からあげるつもりの物をどんなに懇願されても困るだけなのだから、大目に見て欲しいところである。

 ともあれ、すぐに立ち直り全てのポーションを大事そうに受け取ったエリンは、踵を返すと「ありがとっ! 恩に着るね!」とだけその場に残して倒れたままの青年、恐らくロディという名前の彼の元へと駆け寄って行った。


「待てエリン! 魔女のポーションかもしれないんだぞ!? そんな物と取引するなんて何を考えてるんだ!! 死ぬより辛い目に遭うぞ!!」

「……そんなことしないもん」


 誤解にしても余りに理不尽なガロットの難癖に、カスミもさすがに小声ながら反論を口にする。

 どうやらそれが聞こえたらしい。ガロットはじろりとカスミを睨むと何かを言う素振りを見せたが、声に出す前に惑うように一度口を閉じて、それから改めて言葉を発した。次は毅然と言い切るように。


「……お前が本当に魔女じゃないとわかるまで、信用することはできない。仲間を守るのが俺の役目だ。情に流されずにな」


 今度はそれを聞いたカスミが言い返す口を閉ざす番だった。

 ただ闇雲に疑われているのではない。相手にも理由があったのだと知れば、身の潔白に明確な答えを持たないカスミが口を挟む余地は無かった。


「とか言ってるけど、守るならエリンをちゃんと止めるなり、この子が魔女かどうかを見極めたりしてくれないと。どれも中途半端で迷ってるのがバレバレなのよね」

「ぐうっ」

「わぁ、ぐうの音ってほんとうに出ることあるのね。初めて聞いたわ。おもしろいけど、冗談でやってるならこの子に謝ってからにしてね。ね~?」

「へ? え、はい? あ、別にそんなことは!」


 揶揄い口調の中にもそこはかとなく本気の怒りを感じるネーニャに、カスミはしどろもどろに返す。

 しかも気が付けばカスミを後ろからすっぽりと抱き締めていて、いつの間にという驚きが重ねて正しい反応を見失わせた。優しく守られるような感覚そのものは決して不快ではないが。

 翻ってガロットの方は居心地が悪くなったらしく、むっつりとした顔を逸して甲斐甲斐しくロディに解毒ポーションを飲ませるエリンへと視線を注いでいた。ふとその瞳にカスミへ向けたときには無かった柔和な光が見え、この人はきっと損な役回りなんだなと内心で納得する。


「それで、あなた……お名前を教えてくれる? もうわかってると思うけど、わたしはネーニャっていうの。ネーニャお姉ちゃんって呼んでね」


 軽く肩を揺さぶられながらの問いかけに顔を上げると、そこにあったのは後ろから覗き込むネーニャの目を細めた微笑み。カスミはそれでやっと自分が未だ名乗っていないことに気が付き、そしてその機会を得られた事実に喜びを感じることができた。


「わたしはカスミって言います。よろしくお願いします。えっと……その、ネーニャお姉ちゃん」


 見た目は幼女でも内面はそれなりに成長している元十六歳のカスミである。初対面の相手をお姉ちゃん呼びすることに気恥ずかしさは否めなかったが、だからとそれを拒否するような意思は微塵も湧きそうにない。

 まるで自分が元から幼女だったかのようにすんなりと受け入れてしまった。


「ひゃ~んっ! こちらこそよろしくね、カスミちゃん!」

「わうっ」


 しかし突然抱き締める力がいや増しては思わず口から変な声が零れてしまうのを堪えきれず、その上どういう感情か頭頂部に頬を押し付けピンクブロンドの髪を振り乱すほどに悶えられてはあたふたする以外にない。

 もちろんカスミとて悪い気はしないしその好意にはつい頬も緩んでしまったが、一方で瑠衣菜るいなのことを、同じように戯れた親友のるいちゃんのことを思い出してしまい胸が苦しくなってしまう。


「お前のその誰にでも気安い性格は大したもんだと思うけど……はぁ」

「なあに? 言いたいことがあるならちゃんと言ってほしいわ」

「いや、まさか魔女かもしれない相手にまで発揮されるとは、ってな。困ったというかなんというか……俺の負けだよ」


 呆れたようなガロットの物言いは、自身もまたカスミへの対応を緩和すると言外に告げているようだ。言っても無駄だという諦念が滲んで見えたとしても、急速に取れていく言葉の険に、受け入れてもらえた実感が一際カスミの心を満たしていく。


「ガロットさん……」

「あー……悪かったなカスミ。魔女だなんて呼んじまって」

「いえ、それはいいんですけど……」


 誤魔化すように逆立つ前髪を撫で上げつつ、ガロットはぶっきらぼうに謝罪を口にした。そうしながらも顔を向けようとはせず横目に視線を傾けるだけで済ませてしまうのは、まだ多少なり葛藤が残っているからだろうか。

 だからといって当のカスミにそこをあげつらう気は更々無い。誤解のまま武器で脅されたことや号泣の元凶となったことを忘れていないとしても、もはや会話や所作の端々から受ける印象は悪感情とは程遠いもの。遺恨もわだかまりも染み一つ分すら残ってはいない。

 それよりも歩み寄ってくれた今、ずっと気になっていた単語について訊く機会なのではという思い付きが脳内の大半を占めていた。折しもガロット自身が発したばかりの、カスミが警戒される事態の核心にあったであろう単語についてだ。


「ずっと気になってたんですけど、さっきからみなさんが言っている〝魔女〟って何ですか?」


 何の気なしの質問。しかしその影響は甚大であった。

 ギョッと固まった二人の顔に当て字をするなら「え? 知らないの?」とルビが振れるだろう。

 それくらいには裏表のない感情で、だからこそカスミが〝自分はやはりこの世界の人間とは常識が違うのだ〟と認識するに不足はない。

 さりとて聞かずに過ごすことが正しいわけもなく、敢えて追加の言葉を留めたカスミはじっと二人の反応を待つことにした。

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