第3話

二○一三年 夏




 彼の誘いは唐突だった。

 高校二年の夏休み。十七の夏。私たちの、若さを隠しきれない眩しさに引けを取らないくらい、その夏の太陽は眩しかった。

夏休み前の終業式の日、私は下駄箱の中に、ノートの切れ端が入っているのを見つけた。彼の字だ、とすぐにわかった。今にも崩れてしまいそうな印象を受けるほど、繊細で整った字。

「今夜。夜八時発の電車で」

 私は、すぐにでも、時計の針なんか動かしてしまえればいいのにと思った。終業式も、退屈な担任の話も、友人たちと夏祭りに行く計画も、すべて投げ出して、今すぐ午後八時になってしまえばいいと思った。そうしたら私は、一目散にあの場所へ、彼のいる場所へ走って行くのに、と思った。

 教室に入ると、既に夏休みの匂いが濃厚だった。空気が浮き足立っていて、白いワイシャツがいつも以上に眩しく見えた。制汗剤の匂いと、一オクターブうわずったクラスメートの声。

 彼は窓際にいた。友人たちに囲まれて、いつもと同じ、爽やかな笑顔を浮かべていた。

 彼が時折見せる寂しげな瞳に、気づいている人はどれくらいいるのだろうかと思った。彼が纏う空気が、本当は夜の色をしているのを知っている人はどれくらいいるのだろうかと思った。少なくとも、教室での彼を見て、そんな風に思う人はいないだろうと思った。私も、少し前までは、彼のことを、クラスで人気者の爽やか男子、くらいにしか思っていなかった。それを思うと、自分に対して激しい苛立ちを覚えた。

 その日は、想像している以上に長い一日になるということを、この時の私はまだ知らなかった。覚えているのは、担任の話がいつも以上に長かったことと、友人の話を聞かずに怒られたこと。お昼に自販機でソーダのアイスを食べたこと、買った麦茶がすぐにぬるくなったこと、夏の日差しが彼の髪を淡い色に染めていて、私はそれに見とれていたこと、私たちは途方もなく、若かったということ。

 今でもはっきりと、覚えている。




二○一六年 春




 結局、その日彼は、昼からビールを三杯飲んだ。デザートにはサプライズでケーキが出てきて、私はとてもお腹一杯になった。

 店を出た頃には、時刻は午後三時を回っていた。夜はゼミの用事があるという彼は、私を駅まで送ってくれた。

「さっき言ったこと、少しだけ、考えてみてほしい」

 去り際に彼は言った。

「本気じゃなかったら、あんなこと言わないからさ」

 わかった、と頷く私を見て、安心したように彼は去って行った。

 婚約。彼から言われた言葉が、不協和音のように頭の中に響いている。不快、というわけではない。ただ、奇妙だ、と思った。自分にそんな現実的で将来性のある言葉がかけられているということが、ひどく奇妙に感じられた。

 私は将来というものを考えることが、ひどく苦手だった。将来の夢だの希望だのを、ためらいもなく口に出来る人たちが不思議で仕方なかった。私には将来なんてないのだ、と、漠然と思っていた。もちろん、生きている限り誰にだって「将来」というものがあることはわかっている。けれど、それが良いものだとは全く思えなかった。今の私は、将来のためになんか生きてはいない。私を生かしているのは、あまりにも輝かしすぎた、過去の記憶だけだ。思い出を貪って生きている、と私はたまに感じる。その表現が、一番自分にしっくりくる気がしている。

 一人暮らしをしているアパートの最寄り駅までは、電車に十五分ほど揺られれば着く。けれど私は、まだなんとなく帰りたくなかった。駅前をぶらぶらして、一杯くらい飲んでから帰ろう、と思った。

 私は今日二十歳になったばかりだったが、彼のお酒好きの影響もあり、大学に入ってからお酒を飲むことがよくあった。年齢確認のない個人経営の飲み屋を彼はよく知っていたし、彼の家で飲むことも多かった。そのせいか私は、同輩の中でも比較的お酒に詳しく、居酒屋やバーに入ることへのためらいもそれほどなかった。けれど、まだ一人で店に飲みに行ったことはなかった。誕生日だし。私は誰にともなく呟き、乗る予定だった電車を見送った。

 私が住んでいる町は所謂地方都市で、駅前はわりと栄えている。大学に来る前に住んでいた町はもっと田舎だった。都会(といっても、首都圏に比べれば対したことはないのだが)を歩くのは嫌いではない。自分が、風景の一部になったような感覚に浸ることが出来るからだ。誰も私のことなど気にも留めない、誰も私に干渉などしてこない。私は誰の何でも無い、ただの風景の一部になる。その心地よい孤独を味わいたくて、私はたまに駅前を一人で歩く。

 古着屋を何件か回り、古本屋で立ち読みをし、太宰治の「斜陽」を買った。食器屋を覗き、雑貨屋をうろうろし、チョコレート屋で小さなチョコレートを自分への誕生日プレゼントとして買った。その頃にはもう大分日が落ちていて、飲み屋があちこちで騒がしく営業し始めていた。

 私は大通りの喧噪を離れ、細い道に入った。隠れた場所にある、静かな店に入りたかった。少し歩くと、都会の喧噪から置いて行かれたようにぽつんと佇んでいる、小さなバーを見つけた。小さな木の看板には、「Bar Yoru」と書かれている。よる。悪くない、と私は思った。店が纏う、少し寂しそうな空気も気に入った。私は彼が怖がらないように、そっとドアを押した。

 店内はこぢんまりとしていて、ジャズが流れていた。濃い茶色のカウンターの奥には、色鮮やかなラベルの貼られたワインやリキュールがずらりと並び、一つのインテリアとして立派な役目を果たしていた。狭い店内にはまだ誰もおらず、入り口でイギリスの兵隊の格好をしたテディベアが一匹、所在なげに佇んでいた。

「いらっしゃいませ」

 奥から声がして、男性が一人現れた。白いワイシャツに、黒いベスト。すらりと高い背、長い前髪で隠れた瞳、その静かな眼差し。私には見覚えがあった。彼が私の姿を目に留め、あ、と呟くのと、私が彼の名前を口にするのは同時だった。

「文一」

 北澤文一。高校三年の秋から冬が開けるまでの半年間だけ付き合っていた、私の元恋人だった。



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