夜辺―よるべ―

夕空心月

第1話

 世界が終わる夢を見たんだ。

 

 彼は静かな声で言った。

 私たちは、狭いホテルの部屋にいた。月光がやけに眩しい夜だった。時計の針が動く音と、馴染みのない甘い香りが、私たちの周りを満たしていた。小さなテーブルにはグラスが二つ、中に入っているジン・トニックは半分も減っていなかった。私たちは同じベッドの上にいた。私はサイズの大きいネグリジェを着ていて、彼はきちんとしたパジャマを着ていた。

 どんな夢だったの、と私は尋ねた。隣にいる彼の顔は月光に照らされていた。ギリシャ彫刻みたいだ、と思った。

「空が、崩れてくるんだ。青色がサイダーみたいに弾けて、夕焼けはフルーツジュースみたいに混ざり合って零れてくる。藍色のヴェールがはがれ落ちて、星屑がまき散らされる。まるで万華鏡の中の世界みたいなんだ。僕は、崩れたビルの残骸の上に立って、あまりの美しさに見とれている。そして思うんだ、“神様、世界の終わりがこんなに美しいなら、どうしてもっと早く見せてくれなかったんですか”って」

 彼の口調はまるで、おとぎ話をするようだった。

「そんな世界の終わり方なら、明日にでも終わっちゃえばいいのにね」

 私は言った。

 彼は笑った。けれど、その表情はよく見えなかった。

「そうだね。きっと、辛かったことも嬉しかったこともすべて忘れて、ただ“綺麗だ”と思いながら、死んでいけるんだろうね」

 私は目を閉じて、彼が夢で見た世界の終わりを想像した。私は彼と手を繋いで、天体観測でもするように、崩壊していく空を見上げている。綺麗だね、と笑いながら。なんて素敵なのだろう。私はたまらなく幸福を感じた。彼にこの感情を言葉にして伝えたかったのだけれど、ぴったりはまる表現は見当たらなかった。

 その夜のことを、私は今でも鮮明に覚えている。部屋の温度も、初めてのお酒で身体が熱かったことも、翌日の夏期講習は休もうと決めていたことも、どこにでも行けそうな気がしていたことも、どこにも行けない気がしていたことも、私たちはキスの仕方さえ知らなかったことも。

 十七の、夏の夜のことだった。




二○一六年 春





 春と言えば桜である、という風潮は一体何なのだろう。誰が言い出したのかは知らないが、桜だけに春のイメージを背負わせるのはいかがなものか、と思う。どちらかと言えば私は、道端に図太く根を張って咲くタンポポや、遠慮がちに顔を出しているオオイヌノフグリのほうが、春をイメージさせると思うし好きだ。けれど、いざ満開の桜を目にすると、その圧倒的な主役ぶりに圧倒される。先ほどは生意気なことを言ってごめんなさい、と思わず頭を下げたくなる。

 私は、桜が惜しみもなく花弁を散らしている、並木道を歩いていた。ぬるい風が吹く度、何かを祝福するかのように花吹雪が舞う。今朝のニュースで、桜は丁度満開、今週がピークです、と言っていただけあり、見事な咲きっぷりだった。

「綺麗だね」

 私の隣で声がしたので、そちらに顔を向けた。柔らかい笑顔を浮かべた男性が、気持ちよさそうに伸びをしている。猫みたいだな、と私は思う。

「お前のほうが綺麗だよ、って言っても良いよ」

 私は言った。そんな冗談を言えるくらいには、気持ちがよかった。四月の午後というのは、どうしてこうも柔らかいのだろう。ひねくれた私でも、今日は珍しく、綺麗なものを綺麗と素直に思えた。

 自分から言うなよ、言いづらくなるだろ、彼は笑った。そのまま、私の肩を抱いた。

「綺麗だよ、すごく」

 彼の体温が、じんわりと私の中に伝わってくる。彼の匂いが濃くなる。彼の腕は私の肩をすっぽりと包んでしまう。彼の鼓動が伝わってきて、あ、この人は生きている、と感じる。ここに確かに存在するのだ、と感じる。

「優」

 彼は、私に小さな箱を差し出した。

「お誕生日、おめでとう」

「え、やだ、急だね」

「今、渡したくなったんだ」

 彼は子供がいたずらをする時のような笑顔を浮かべた。無邪気、という表現が良く似合う笑顔だった。

「ありがとう、嬉しい。開けていい?」

「もちろん」

 赤いリボンをほどき、白い小箱の蓋を開けると、中には銀色のネックレスが静かに横たわっていた。繊細なデザインで、四月の誕生石であるダイヤモンドが小さな光を放っている。

「綺麗」

「優に似合うと思って」

「ありがとう。大事にするね」

 私は頷きながら、そっと箱を胸に抱いた。箱の角が、とんと胸をついた。

 私の半歩先を歩く彼の背中を眺める。大きくてたくましい背中。私が今突然飛び乗ったとしても、軽くおんぶしてくれるだろうとわかる背中。

 ぶわ、と音を立てて、強い風が花弁を一斉に散らせた。私は思わず目を閉じる。彼の背中が、花弁にかき消されて遠くなっていく。あ、まただ、と私は思う。また、この感覚だ。私だけが、すべてに置いて行かれる感覚。満開の桜も、彼の背中も、私を置き去りにどんどん遠くなっていく。私はその場に立ちすくんだまま、動けない。歩き方を忘れてしまった、小さな子供のように。

「優?」

 遠くで声がする。この声は、誰のものだっけ。私はこの声を知っている。いつか、どこかで、この声は私の名前を呼んだ。私は覚えている。なのに、どうして、こんなに記憶の輪郭がぼんやりとしているのだろう。

 ああ、違う。この声は「彼」の声ではない。私が今生きているのは、「あの時」ではない。生きている?そんなはずはない。私はとっくに、死んでいたのではなかったか。じゃあ、今こうして考えを巡らせている私は、一体何者なのだろう?

「優!」

 先ほどよりも強いその声に、私ははっと我に返った。彼が、心配そうに私の顔を覗き込んでいた。

「どうしたの、ぼーっとして」

 彼は確かに目の前にいた。それなのに、遙か遠くにいるように感じた。こうなってしまうと、もうだめだ。それでも私は必死で呼吸を整えて、笑顔を作った。

「何でもない。桜が綺麗だから、見とれていただけ」

 彼はほっとしたように笑った。ロマンチストだね、なんて言いながら。

 行こう、と差し出された手を、私は握った。ごつごつした大きな手を、私は私でなくなっていくような感覚をもみ消すように、強く、強く握った。彼は私の頭の中など知るはずもなく、微笑んで私の手を握り返した。

 ごめんなさい。こぼした小さな呟きは、誰に届くこともなく、春の風にかき消されていった。





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