第2話

 星野誠とは、私が大学に入ったばかりの頃に知り合った。初めてのバイト先の、二つ上の先輩だった。大学からそれほど遠くないコンビニで、私も彼も夕方勤務だった。バイトをすることが初めてだった私は、彼から業務全般、クレーム対応の仕方、理不尽な客への対応から、暇つぶしの方法、店内音楽の変え方、店長の機嫌の取り方など、大事なことからくだらないことまで、あらゆることを教わった。バイトが終わるのは大体午後十時で、シフトが同じ時はよく食事に連れて行ってもらった。おしゃれなレストランなどはその時間には大抵閉まっており、私たちが行くのはラーメン屋さんや牛丼屋さんが多かった。これくらい自分で払います、と私が何度言っても、彼は私にお金を払わせてはくれなかった。これくらい自分に払わせてよ、といつも笑って返された。彼はラーメン屋さんでは味噌ラーメンを、牛丼屋さんでは大盛りにキムチをトッピングして食べるのが好きだった。

 私は人文学部で、彼は教育学部だった。私はフランス文学を専攻し、彼は理科教育を専攻していた。私が入学した時彼は三年生で、教育実習が忙しくてさ、とよく言っていた。学部も学年も違うため、大学内で会うことはあまり多くはなかったけれど、たまにすれ違うと、笑顔で手を振ってくれた。

 私には友人が少なかった。私は、「人と一緒に長い時間いること」が苦手だったのだ。だから、大学に入ったばかりの時期に参加した新入生歓迎会や、興味はないけれど一応顔を出したサークルの説明会でも、ひどく疲れてしまい、次々出来ていくグループに加わらずすぐに帰ってしまった。学部の中に、一緒に講義を受ける友人は何人か出来たが、彼女たちと特に深いことを話すわけではなく、ただなんとなく隣にいて他愛もない話をするだけだった。休日遊びに行こうよ、という誘いにも、私はあまり乗らなかった。慣れないメイクをして、気を遣いながら買い物をして、胃もたれしそうなほど生クリームが乗ったパンケーキの写真を撮って、SNSに「今日は楽しかった」と投稿することに、疲労以外の何かを見いだすことが出来なかった。だから私は、数少ない友人たちの中でも、自分だけが外側にいるような、足下がゆらゆらするような、疎外感のようなものを感じていた。彼女たちには、そんなつもりはなかったかもしれないが、私はいつも、少し遠くから彼女たちと接していた。

 だから、彼と牛丼を食べているときに、「若月さんは、休日何をしているの?」と聞かれたときは、返事に困ってしまった。休日は、私は誰にも会いたくなかった。一人で家にいて、無感動に時間を貪るようなことしかしていなかった。友人とショッピング、とか、新作のケーキを食べに、とか、女子大生らしい答えを探したが、そんなうまく取り繕うことはできなかった。黙ってしまった私に、彼は言った。

「今度の日曜、映画に行かない?」

 彼にとっては、休日何をしているのかという問いがデートの誘いだったのだということに、その時私は初めて気がついた。彼が差し出したのは、『危険な関係』というフランス映画のチケットだった。恐らく彼はフランス映画など観ない。私が以前、授業で『危険な関係』を読んだ、というのを覚えていて、用意してくれたのだと思った。バイト先の先輩、しかもフランス文学に全く馴染みのない人(私もそれほどフランス文学の知識があるわけではなかった)と、しかも男女で観に行く映画ではないような気がしたが、その時の私は断れなかった。黙ったまま私は頷いて、チケットを受け取ったのだった。

「あの時は緊張したなあ」

 彼は今、私の目の前でビールを飲んでいる。桜の並木道を散歩した後、私たちはドイツ料理とビールのお店に来ていた。ここでは皆昼からビールを飲む。彼はお酒が強く、既に二杯目にかかっている。ここのビールはとても美味しくて、私は普段中々飲まない黒ビールを注文していた。ほのかに珈琲の風味がして、癖になる味だ。

 お店に着き、ソーセージをザワ―クラフトを食べ、少しアルコールを身体に入れると、私は大分落ち着いた。彼は、「誕生日なんだから、好きなもの好きなだけ食べて良いからな」と言いながら、上機嫌で思い出話をしている。

「あの時、俺映画の内容なんて、一ミリも頭に入ってこなかったな。フランス語だったからっていうのもあるけど。隣で優は、真剣に見入ってたよな。俺はこのあと、どうやって告白しようかばかり考えてたよ」

「それは知らなかったな。映画に夢中で。悪いことした」

「ほんとだよ。嘘、冗談。その後、俺がどうやって告白したか、覚えてる?」

「覚えてるよ」

 結局、私と彼は二人で『危険な関係』を観た。私はしばらく、その余韻に浸っていたので、口数が少なかった。彼が映画をどのように観ていたかなんてその時には分からなかった。映画館を出て、彼は「夕焼けを見に行こう」と言った。丁度、夕刻にさしかかっていた。彼は私を連れて、小高い丘にある公園まで車を走らせた。着いた頃には、丁度西の空が夕焼け色に染まっていた。

「綺麗」

 私は呟いた。と同時に、ひどく苦しくなった。私は夕焼けを見ると、いつも言いようのない苦しさを感じるのだ。しかし、それは決して不快ではないのだ。懐かしさ、愛しさにも似たものなのだが、それらの感情が単色なら、この感情はもっとグラデーションのかかった色をしている。意識だけが、遠い記憶に逃げ出してしまったような、この夕焼けを、夕暮れを、私は知っていると感じるような、柔らかくて大きな、毛布のようなものに抱かれているような、そんな感覚。言葉にして誰かに伝えようとしたことはなかった。どんな言葉を使っても足りないような気がしたから。苦しくて、苦しくて、私は夕方になるとよく泣いていた。そしてこの時もそうだった。バイト先の先輩と一緒にいることも忘れ、気づくと涙を流していた。

 半歩先を歩いていた彼は、振り返り、私が泣いているのを見て驚いていた。当たり前だ。泣くにはあまりにも脈絡がなかった。彼は慌てた。どうしたの、どこか痛いの、俺何かしたかな、とおろおろとしていた。この人は、理由も分からず涙を流した経験がないのだと私は思った。そして、それはとても健全なことだと思った。

 何でもないんです、ごめんなさい、と、私は涙を拭きながら言った。涙越しに映る夕焼けは、幼い頃買ってもらったスノードームの中の世界を思い出させた。その世界が急に揺らいだかと思うと、真っ暗になった。彼に抱きしめられたのだと気づくのに、少し時間がかかった。

「若月さん、大丈夫。何が何だか分からないけど、大丈夫だよ、大丈夫」

 彼は私の肩を、小さな子供をあやすように必死にさすった。大丈夫、大丈夫、と、まるで呪文のように繰り返した。何があったのか、若月さんがどうして泣いているのか分からないし、根拠も何もないけど、大丈夫だよ、大丈夫、大丈夫。彼からは、清涼感のある香水の匂いがしていた。頬に当たる彼のシャツはぱりっとしていた。泣いているのは私なのに、彼の方が泣きたがっているような気がした。彼は思っていたよりも大きくて、私は彼にすっぽりと包まれてしまっていた。

 あんまり彼が大丈夫と繰り返すものだから、私は段々可笑しくなってきた。思わず、彼の腕の中でふふ、と声を漏らしてしまった。彼はそれに気づいて、「笑ったー!」と安心した声を出し、一層強く私を抱きしめた。その時初めて私は、「男性に抱きしめられている」という事実に頬を赤らめた。

「びっくりしたよ、俺。告白しようと思って振り返ったら、優が涙ぼろぼろこぼしてるんだもん」

 二杯目のビールを美味しそうに飲みながら、彼は言った。私はチーズをつまみながら、その後のことを思い出した。泣き止んだ私に、彼はストレートな言葉で告白した。好きです、俺と付き合ってください。漫画みたいな台詞だ、と思った。その時私が彼に恋愛感情を抱いていたのかはわからない。私は人を好きになるということに関してどこか冷めた考えを持っていて、いつか別れるに決まっているのに、この人を好きか否かで悩むのは無駄なことだと思っている節があった。相手に誠実ではないと言われるかもしれないが、私にとってはこの考えが相手への誠意だった。当たり前なのに認めたくない現実から目をそらして、相手と向き合うことのほうが、よっぽど不誠実に思えた。

 だから私はこの時も、自分が彼のことを恋愛対象として好きなのかは考えなかった。普段の私なら、何も考えずに振っていただろう。けれど、その時、夕焼けがひどく綺麗だった。私の首を縦に振らせたのは、たったそれだけの理由だった。もう誰とも付き合わないと思っても、人は誰かと付き合うのだなと、彼の腕の中でぼんやりと思った。彼の髪が、夕焼け色に染まっていた。夕方五時の鐘が響いていた。日が長くなったな、と、明らかに場違いなことを、私は考えていた。

「懐かしいね」

 私は言った。あれが、一年前の五月。もうすぐ私たちは、付き合って一年になる。いつか来る別れは、今のところ来ていない。

 彼はとてもいい人だ。私が付き合うにはもったいないくらい。教育実習が忙しくなり、彼はバイトを辞めたが、時々顔を出しに来て、私を家まで送ってくれる。ラーメン屋さんではなく水族館に連れて行ってくれたり、牛丼屋さんではなく遊園地に連れて行ってくれたりする。一ヶ月記念日の度に小さなケーキを買ってくれる。クリスマスには二人でイルミネーションを見に行き、可愛いデザインの時計をプレゼントしてくれた。私の友人たちは、彼の話をすると「理想の彼氏だね」と言う。世の中の「良い彼氏」のイメージにのっとれば、彼はそれに当てはまる人間だ、と私も思う。

 それなのに、どうして私は、「幸せだね」と言われる度に、苦しくて逃げ出したくなるのだろう。彼と手を繋ぐ度、キスをする度、ごめんなさい、私はここに居てはいけない、と思うのだろう。虚無感。この言葉が、私の感情に最も近いかもしれない。どんなに彼が優しくても、私はいつまでも満たされることはない。喉が渇いて仕方が無くて、ようやく水を見つけて飲んでも、それは夢で、現実は渇きに呻いている、そんな夜を繰り返している気分だ。誰も、そんなことには気づかない。表面的な友人たちも、一年近く付き合っている「良い彼氏」でさえも。

「ねえ、優」

 私が物思いから現実に引き戻されたとき、空のジョッキを置いた彼が、真剣な眼差しを私に向けていた。

「俺、就職が決まったら、優と一緒に暮らしたい」

 店内には賑やかな音楽が流れ、向こうの席では外国語の陽気な会話が飛び交っていた。その空間で、彼の言葉だけが、異質なものとして私の周りを浮遊していた。

 つまり、と彼は言葉を繋いだ。

「俺と、婚約して欲しい」


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