第6話

二○一二年 春




 高校一年生の春。真新しい制服を着るだけで、少し背伸びしたくなるような、少し大人になったような気がした、あの春。

 その頃の私は、ハリネズミのように周りを警戒して生きていた。親も友人も学校の先生も、すれ違うおじさんも名前も知らないおばさんも、誰がいつどこで牙をむいてきても立ち向かえるように。けれど実際に針をむき出しにすることはなく、いつも周りの顔色をうかがい、牙をむかれないようにしていた。つまり、私は自分を強いと思い込もうとしているだけの、ただの小さな臆病者だった。

 周りから浮かない。それだけを心に刻んで、私は高校生活に挑もうとしていた。そうすれば、大丈夫。皆と同じようにしていれば良いだけだ。私の針は、周りに向けられることはなく、いつもちくちくと自分の胸を刺していた。

 そして私はこの年に、「彼」と出逢った。彼は真新しい制服に身を包み、袖を少し余らせていた。柔らかそうな栗色の髪の毛が、春の日差しを浴びて穏やかに光っていた。肌は白く、まつげがとても長かった。瞳は深い湖のような色をしていて、笑うと流れ星のようにすっと細くなった。

 深海藍。

 それが、「彼」の名前だった。




二○一六年 春




「ねえ聞いてよ、一昨日、ちょっと良い感じになってた人とデートしたんだけどさ」

 大学の食堂で、私は二人の友人と昼食を食べている。ご飯と味噌汁と、チキン南蛮。昼時の食堂はとても混んでいて騒がしく、友人はいつもより声を張り上げて喋っていた。

「彼の家に泊まる流れになったのね。もう夜も遅いしって。当然、私は期待するわけよ、その夜彼とどういうことになるのか。でも彼、いざその雰囲気になった時なんて言ったと思う?“ごめん、僕まだしたことないんだ、怖くて今日は出来ない”って言ったのよ。シャワーまで浴びさせた後で、よ?」

 えー、そこでびびっちゃうの、情けなくないー?もう一人の友人が、サラダを口に運びながら言った。彼女に咀嚼されたレタスが、しゃく、と音を立てる。

「でしょ?だったら期待なんかさせるなっつーの。どきどきしながらシャワー浴びてた時間を返してよね。私はもうそこで萎えちゃって。気まずかったわよ。別々の布団で、お互い何も話さずに眠って。翌日は朝食なんか出される前に、とっとと帰ってやったわよ」

「それで、その後彼と連絡は取ってないの?」

「取るわけないじゃない、もう気持ち冷めちゃった」

 彼女はそう言って、ちゅー、と音を立てて野菜ジュースをすすった。私はその話を、鶏肉の皮を箸ではがしながら聞いていた。

「ねえ、優はどう思う、そういう男性のこと」

 そう聞かれて、私は箸を止めた。適当に首をかしげながら、ちょっと、ないかもね、と、思ってもない答えを返しておいた。

 こういう話は苦手だ、と、私は無残に皮をはがされた鶏肉に目を落として思う。男性は必ず、性行為において女性をリードしなければならないという考えとか、男女が同じ部屋に泊まったら性行為に及ぶのが当然だという風潮とか。所謂、「大学生の恋バナ」という奴が、どうしても好きになれなかった。私にそういう考えは一切なかった。別に、同じ夜を同じ空間で過ごしたからと言って、性行為をする義務はない。そうしないことが不自然だとも、そうすることが幸せだとも思わない。どんなに強く抱き合っても、一人は一人だ。満たされることなどないのだ。結局夜は、ひとりぼっちを強く感じさせるものなのだ。

 私が幸福だった夜は、あの夏の日のものだけだ、と思う。今でも、こんな食堂の中でさえも、ありありと、あの夜を思い描くことが出来る。ふ、と意識が遠くなり、私は過去へと引き戻される。17の夏、何にも怖くなかった、あのひどく暑い夜に。

「優、優、聞いてるの?」

 友人の声で、私は我に返った。先ほどから、私に話を振っていたらしい。ごめん、ぼーっとしてた、と私は意識を無理矢理現在の食堂に引き戻した。

 もうー、優ったら、疲れてるんじゃない、友人はそう言って笑った。

「で、年上の彼氏とはどうなの。もうすぐ一年なんでしょ?」

 ああ、まあ、それなりにうまくいってるよ、と私は答えた。私は彼女たちに自分から誠の話をしないが、彼女たちはしきりに私たちの近況を聞きたがる。私は誕生日の話をした。彼女たちは、いいなー、とか、やっぱり年上の余裕があるよねー、とかなんとか言いながら、羨望と嫉妬が混ざった視線を私に向けた。私は後ろめたいような逃げ出したいような気持ちに駆られながら、適当に頷き適当に話していた。

「やっぱりさ、結婚とか、将来のこととか考える?」

 友人が聞いた。私は頭の中で、「婚約して欲しい」という彼の言葉を反芻した。婚約、こんやく、コンヤク。繰り返すほど、遠い国の、知らない単語のように聞こえた。

「まだ、わからない」

 婚約の話は、彼女たちにはしないでおこう、と思った。誠の真剣な眼差しを裏切ってしまったような気がして、ちくりと胸が痛んだ。私はやっぱり、残酷な人間だ、と思った。

 彼女たちの話題は、次のことへと移っていった。西洋史のレポートのことや、最近出たリップの色のこと。私は適当に相づちを打ちながら、誠の顔を思い浮かべようとした。私と一年近く付き合ってくれた、「良い彼氏」のことを。けれどうまくいかなかった。私の頭に浮かぶのは、寂しそうに笑う「彼」の姿だけだった。

 チキン南蛮は、半分しか食べられなかった。



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