第5話

二○一六年 春




「びっくりした、文一がこの町にいるなんて」

 私はカウンターで、文一が作ってくれたスプモーニを飲んでいる。店の奥から顔を出した、「店長」と呼ばれた男性は、私と文一が旧知の仲だと知ると、「ごゆっくり、僕は裏にいますから、何か注文があれば呼んでください、お邪魔は致しませんので」と、いたずらっぽく笑って引っ込んでしまった。お茶目なんだ、あの人、と文一は笑った。

「東京の大学に行ったんじゃなかったの?」

「うん。でも色々あって辞めた。東京のバーでバイトしてたんだけど、バーテンダーの世界も面白そうだと思ってさ。しばらくそこで働いてたんだけど、そこの店長が、修行するなら俺の友人が最近開いたバーに行ったほうが良い、って。そのバーがたまたまこの町だったんだ。去年の冬くらいかな、この町に越してきて、ここで働くようになったんだ」

「そうだったんだ。じゃあ、この店は新しいんだね」

「わりとね。この町の大学に優が通ってるのは知ってたけど、まさか会えるとは思わなかった」

「私も」

 陳腐な表現だけれど、彼は少し、大人っぽくなったように見えた。大人の匂い、というものが漂っていた。大学を辞めたことに関して、彼は特に気にしている様子はなかった。むしろ、今のバーテンダー生活はとても楽しそうだった。

「優は、どう。大学の方は」

「特に問題も無く、普通に通ってるよ。今はフランス文学を勉強してる」

 優は頭良かったもんなあ、授業休みがちでも、いつの間にか模試の点数、俺より上になってたもんな、と彼は笑った。高校卒業以来、彼とは会っていなかったし一切連絡を取ることもなかったのに、こうして普通に話しているのは少し不思議な感じがした。高校のあの教室に引き戻されたような感覚だった。昨日まで、私は制服を着て、ベクトルの授業を受けていたような気さえした。

 けれど私たちは、高校時代の話はあまりしなかった。彼は、東京で働いていたバーのこと、このバーに来てからのこと、お茶目な店長のこと、おしゃれなカクテルの名前のことなどを、あの頃のように、面白おかしく話してくれた。私は、彼に聞かれるままに、この町で一人暮らしをしていること、大学の講義のこと、読んで面白かったフランス文学のことなどを話した。話しながら、私はスプモーニを飲み干し、サラミの盛り合わせとレゲエパンチを注文した。彼は慣れた手つきでカクテルを作り、厨房からサラミの皿を運んできてくれた。心地よいジャズと彼の話に耳を傾け、ゆっくりと自分のことを話し、サラミをつまみながらカクテルを飲む時間は、とても気持ちよいものだった。お茶目な店長は、サービス、と言って、イギリスの郷土料理だというフィッシュ・パイを出してくれた。イギリスのパブで働いていたという店長の料理は美味しく、お酒によく合った。今日が誕生日だということを話すと、それはいけない、と厨房に引っ込み、出てきた時にはケーキの皿を持っていた。チョコレートで、「二十歳おめでとう」と書かれている。あんなに邪魔はしないと言っておきながら、いいところだけ持ってくんだからずるいですよ、と文一は苦笑した。そんな二人の掛け合いは、息の合った漫才のようで、アルコールのおかげもあってか、私はよく笑った。

「恋人はいるの?」

 私は尋ねた。彼はグラスを磨きながら苦笑した。

「生憎、バーテンダーはもてないんだよ」

 僕はいますよ、恋人の一人や二人、ちなみに三人目も募集中、と、厨房から顔を出して店長が言った。先月振られたばかりの癖に、と文一は笑った。店長は私にウインクを飛ばした。私は笑ってそれを受け取った。

「優は」

 文一は聞いた。いくらか、心配そうな眼差しだった。それもそうだ。彼は私の高校時代を、知っているのだから。

「いる、よ」

 くぐもった声で、私は答えた。はっきりと答えられなかったことに、少し罪悪感を覚えた。その罪悪感を拭うように、私は続けた。

「今日、婚約しようって、言われた」

 私はしばらく、顔を上げられなかった。文一がどういう表情をしているのか、見ることが出来なかった。空になったグラスの底に溜まった氷を見つめている私に、彼は静かな声で、おめでとう、と言った。

 私はそれには答えず、ジン・トニックを注文した。私の一番好きなお酒。彼はかしこまりました、と答え、小気味良い音を立てながら、それを作り始めた。その音に耳を傾けながら、でもね、と私は言った。

「返事は、出来なかった。そんな将来の約束なんて、私には出来ない気がしてる」

 目の前に、透き通った色をしたカクテルが差し出された。私はそれを一口飲んだ。身体にすっと染みていく、爽やかな夏の味。繊細で美しくて、今にも壊れそうだった、あの夏の日の味。

「そっか」

 文一は私を見つめていた。その瞳は相変わらず長い前髪に隠れ、彼の表情を隠していた。

「埋まらない、んだね」

 私は頷いた。文一が作ってくれたジン・トニックは、ミントの香りが強かった。

「優が、苦しくない判断をすれば良いよ。俺は優の心を埋められないけど、背中ならいつでもさするから」

 彼の瞳は真剣な色をしていた。かつてこの瞳に、私は涙を流させてしまったのだな、と思った。

「あ、別にその、変な意味じゃないからね」

 彼は慌てたように付け加えた。私は思わず吹き出してしまった。

「ありがとう、文一」

 素直に、私はそう思った。昼、誠と別れてから、まっすぐ家に帰らなくて良かったと思った。大分、心が落ち着いていた。私はジン・トニックを飲み干し、立ち上がった。

「今日は帰るね、とても美味しかった、ご馳走様」

 会計をしようとすると、彼は店長と目配せし、大分まけてくれた。遠慮はいらないよ、可愛い子にはサービス、誕生日だしね、と店長は笑った。

ありがとうございます、と私は頭を下げた。今日は、ご馳走になってばかりだ、と思った。

「また来てよ」

 帰り際、店の外まで送ってくれた文一は言った。

「俺の修行の成果見て欲しいし、あの頃は話せなかったことも、今なら話せるかもしれないしさ」

 そうだね、と私は答えた。もう私は既に、「Bar Yoru」のことが好きになっていた。

「また来る」

 私はそう言って、店を後にした。ほどよく酔っていて、町の明かりが幻想的に揺れていた。夜風が心地よかった。夕方買ったチョコレートはきっと溶けているだろう、と思った。どこかから、陽気な歌声が聞こえた。皆それぞれの夜を迎えているのだ。その事実に私は少し寂しいような、救われるような気持ちを抱いた。私はゆっくりと町を歩き、客の少ない電車に揺られて帰った。




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