第4話
二○一四年 秋
高校三年生が始まった頃の私の記憶はひどく曖昧で、生きていたという明確な証拠がない。水中に垂らされて不規則に揺れる絵の具のように、当てもなく日々を彷徨っていた。
皆と同じ教室には通えなくなっていた。家にいても心は安まらなかった。皆が大学受験に向けて勉強に精を出し始める中、私は何も持たずにふらふらと町を彷徨い歩いた。かと思えば、家から一歩も出られなくなり、一日中天井を眺め、染みの数を数えて何日も過ごすこともあった。卒業を心配した担任は、私を保健室に通わせるようになった。教室には、時折義務を果たすように足を運んだ。始めこそ、気遣っておそるおそる声をかけてくるクラスメートが何人かいたが、そのうち誰も私に近寄らなくなった。私は空気の一部に溶けてしまったんだ、そう思うようになると少し楽になった。たまに授業を受け、保健室で模試を受け、意味など何も見いだせないカウンセリングを受け、担任から腫れ物に触るような気遣いを受けた。受けるものはすべて無感動で、何の色もついていなかった。砂を食べているような日々だった。
文一は、クラスメートの一人で、「彼」と仲の良い友人の一人だった。いつも、長い前髪で瞳が隠れていた。音楽が好きで、ピアノとギターが出来た。背が高く、彼と並んで歩く後ろ姿は中々絵になった。割と、クラス内でももてていたような気がする。以前までは、私ともよく話す仲だった。物腰は柔らかく、他のクラスメートよりも少し大人びた印象があった。
ある日、私は高校の近くの本屋で立ち読みをしていた。その日は平日で、確か模試がある日だった。私はそれには行かず、さして興味の無い漫画をぱらぱらとめくっていた。
「若月」
上から降ってきた声に顔を上げると、隣に立っていたのが文一だった。グレーのスウェット姿だった。明らかに、もう模試が始まっている時間だった。
「模試、だるくてさぼっちゃった」
何も言っていないのに、彼は笑ってそう言った。クラスメートの誰かに話しかけられるのは久々だった。私はうまく言葉が出せなかったし、話すようなことも見当たらなかった。黙っている私に、彼は構わず色々なことを話してきた。受験は団体戦という文句がどうしても気に入らないこと。勉強の合間にギターを弾き始めると、いつしかそのほうがメインになってしまうこと。夜食を食べるようになって体重が少し増えたので、最近走るようになったこと。クラス内で付き合っていた誰それと誰それが、最近別れたこと。どの話も、ひどく遠い世界の出来事のように感じられた。私はきっと、無表情で彼の話を聞いていた。
「なあ若月」
一通り話し終えた彼は、不意に真面目な顔をして私を見た。前髪の奥から、静かな瞳が私を見つめていた。
「本当の一人には、ならないでくれよ」
彼はそう言って、じゃ、と片手を挙げて店を出て行った。私は立ったまま、遠くなっていく彼の後ろ姿を眺めていた。彼がどんな気持ちで私にその言葉をかけたのか、わからなかった。けれど、担任やカウンセラーの言葉よりも、少しだけ熱を帯びていた。久しぶりに、言葉というものを受け取った気がした。
その夜、彼からメッセージが届いた。模試さぼってたこと、皆には内緒な、頭痛かったことにしてあるから。言う人なんていないよ、と私は返した。それから、時々彼とメッセージのやり取りをするようになった。会話の内容は他愛もないものだったが、深夜でも早朝でも、彼はすぐに返信をしてきた。私が教室に行った日でも、家から出られなくなっている日でも、町を彷徨っている日でも。
「貴方には、支えてくれる人が必要よ」
ある時、カウンセラーは私に言った。
「過去を乗り越えるには、貴方一人では大変でしょう」
過去を乗り越える。馬鹿みたいな言葉だ、と思った。乗り越えるって何だ。忘れることなのか、私にあのことを忘れろと言いたいのか。そんなことできるわけがないのに。過去を生きていたのも、今生きているのも、私に変わりないのだから、この身体から、心から、あのことを消すなど不可能だと思った。今の私は、形式的には「生きている」と見なされるのだろうが、あの時私は死んだのだ。私はゾンビだ。過去の中でしか生きていけない。今も未来もいらない。乗り越えたくなんかない。抱えていなければ、ならないのだ。
そうやって頑なにカウンセラーの言葉には耳を傾けなかったが、「支えてくれる人が必要」という言葉は、悔しいけれど当たっていたのだと思う。私は文一とメッセージのやり取りをするようになってから、学校に通う頻度が増えたし、夜通し泣いて朝を迎えたり、過呼吸で倒れたりする回数も減った。その時の私は認めたくなかったが、私は文一という存在に支えられていた。距離感も丁度良かったのかもしれない。文一は、無理に私の心を開かせようとはしてこなかった。他愛もないことを話し、私は淡々とそれに答える。そうすることで、私は何とか外の世界と繋がっていることが出来た。
メッセージのやり取りはしばらく続いた。教室でも、彼は時々私に話しかけてくるようになった。それを見たクラスメートたちも、ぽつぽつと話しかけてくるようになった。私が彼らに心を開くことは、最後までなかったけれど。文一とだけは、平気だった。彼は私に、休んだ時のノートをいつも貸してくれた。
付き合う、という言葉を彼が私の前で出したのは、秋も深まり、いよいよセンター試験の足音が近くなってきた頃だった。私が保健室に居残って模試の自己採点を終えるのを、彼は下駄箱で待っていた。
「俺、若月と付き合いたい」
前髪の後ろから覗く瞳に、無表情を貼り付けた私の顔が映っていた。
「私と付き合っても、何もしてあげられないよ」
そう言って靴を履き、帰ろうとした私の肩を、彼は掴んだ。
「それでもいい、そんなこと問題じゃない。俺が、若月のそばにいたいんだ、いさせてほしい」
その時の私も、「自分はこの人のことが好きなのか否か」、判断することができなかった。判断する気力も、恋愛をするという選択をする余裕もなかった。けれど、彼がいなければ、私はきっと高校を辞めていただろうと思った。そんな彼がそばにいてくれることを拒むことは、許されない気がした。私の頭の中を、彼とやり取りしたメッセージがぐるぐると回った。思わず倒れそうになった私の瞳に、彼の瞳が映った。彼の瞳には、夕焼けが映っていた。それはとても幻想的で、ステンドグラスのようだった。綺麗だ、と思った。その時も私は、それだけの理由で、首を縦に振ったのだった。
彼と付き合うようになって、少しだけ私の生活は変わった。学校に来る日は、彼と一緒に帰るようになった。休日は彼が図書館に誘ってくれて、一緒に受験勉強をするようになった。遅れ気味な私の勉強を、彼は家庭教師のように見てくれた。俺もそんなに成績が良い方じゃないけどね、と笑いながら。クラス内でも、私と彼が付き合っていることは知れ渡ったが、私を冷やかす男子に、彼は容赦なかった。要するに、私は守られていたのだ。
彼と付き合うようになってからも、私の心は相変わらず不安定だったけれど、彼はそれに対し、病院へ連れて行こうと強いることも、面倒がることもなかった。学校に行けない時は、今日あったことを細かく、面白おかしく私に伝えてくれたし、一緒にいるときに過呼吸になったときは、静かな場所に連れて行き、飲み物を渡し、発作が治まるまでそばにいてくれた。
幾度目かのカウンセリングで、最近何か変わったことはありますか、と聞かれ、恋人と呼べる人が出来たことを話すと、カウンセラーはさも嬉しそうに、笑顔を浮かべて言った。
「良かった。若月さん、ちゃんと、乗り越えられたのね」
まただ。私はこの人に話したことを後悔した。座っていた椅子から立ち上がり、私は声を荒げた。
「私は乗り越えなんかしない、これからも絶対にしない。誰と付き合っても誰と話しても、私の心は埋められない。ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな!」
私はそのまま、面談室を飛び出した。外で待っていた文一にぶつかると、彼の腕の中で声を上げて泣いた。私が先ほど叫んだ言葉は、恐らく聞こえているはずだった。それでも彼は、私を抱きしめ、背中をさすり続けた。彼女を、お願い。遠くで、困ったようなカウンセラーの声が聞こえた。
その日以降も、彼は私に対して何も変わった様子を見せなかった。カウンセリングの話題も出さなかった。私はカウンセリングを受けるのをやめた。もう、センター試験はすぐそこまで迫っていた。
年が明けて、センター試験が終わり、学校が自由登校になると、私と文一が会う時間はぐっと減った。お互いに、自分の志望校の入試に向けた勉強で忙しくなったのだ。彼は一足先に、東京の私立大学に合格した。私が受験したのは地方の国立大学だったため、まだ合格は決まっていなかった。
卒業が迫っていた。教室にもちらちらと生徒たちの姿が増え始めた。皆、意味も無く写真を撮ったり、色紙を回したりしていた。若月さんも一緒に、と言われる度、私はぎこちない笑顔を貼り付けて写真に写った。こういうくだらないものが、彼女たちにとっては青春時代の輝かしい思い出になるのだな、とぼんやり思った。そして、私はそういうものを、あの夏の日にすべて終えてしまったのだな、と感じざるを得なかった。担任は、良かった、皆と一緒に卒業できて、と何度も私に言った。皆、の中に「彼」が含まれていないことなど、気づいていないようだった。
別れを切り出したのは彼だった。卒業式の前日で、私たちは夕陽が差し込む教室の中に残っていた。卒業おめでとう、と書かれた黒板は、哀愁を纏い私たちを眺めていた。私は机を撫で、もう終わるんだ、とぼんやり思っていた。
「優、あいつのことは、忘れられない?」
彼は言った。逆行で、表情がよく見えなかった。
「忘れることはないよ」
私は言った。彼の座っていた席に目をやった。クラスメートが書いた色紙がぽつんと置いてある。私はメッセージを書かなかった。
「そっか」
しばらくの沈黙があった。遠くで誰かの笑い声が聞こえていた。
「優の心を埋めることが出来るのは、あいつだけなんだね」
私は頷いた。と同時に、彼に唇を塞がれた。柔らかい感触と、温かい温度と、彼の匂いを感じた。唇が離れた時、彼は泣いているように見えた。
「ごめん、優。ごめん・・・・・・」
彼は謝っていた。その言葉が、彼の、私と別れるという意思表示だった。
どうして謝るの、謝るのは私のほうだ。私は口を開こうとした。彼はそれを、もう一度唇で塞いだ。
「優は、何も謝らなくていいんだ、ただ」
彼は長い前髪をかき分けた。両目から涙が流れていた。窓から見える夕陽のおかげで、夕焼けの絵画の中に彼が描かれているように見えた。
「本当の一人には、ならないでくれよ」
あの日、本屋で私に言った言葉を、彼はまた、口にした。その時よりも、彼は幾分か背が高くなったように感じた。感じた、だけかもしれない。
彼は教室を出て行った。私と夕暮れは二人きりになった。悲しい、という感情が湧いてくることを、私は願った。けれど私の奥から湧いてきたのは、ああ、終わったんだという安堵感だった。なんて自分は残酷なのだろう、と思った。あんなに優しい人に、こんな私のそばにいたいと言ってくれた人に、ひどく切ない顔をさせた。それなのにどうして涙が出てこないのだろう、そういう理由で、涙が溢れそうだった。
私は「彼」の席に歩いて行った。窓際の、前から四番目。彼はこの場所に、確かに存在していた。皆、明日卒業するのに、彼だけは、永遠に十七のまま。十七の夏からずっと、彼は出られないでいる。
ねえ、私、貴方以外の人とキスをしたんだよ。私は彼の机を指でなぞった。明日、この教室から出て行かなければならないんだって。貴方を置いて。どうしてだろうね。私が貴方を置いていくのに、私が貴方にどんどんおいて行かれるような気がするの。変だよね。
彼への色紙の中心には、笑顔を浮かべた彼の写真が貼ってあった。この笑顔の裏で、彼はどんなものを抱えていたのだろう。彼が二人きりの時に時折見せた、果てしなく寂しげな瞳や、身体に纏っていた夜色をした空気を思い浮かべた。彼はいつも一人で、何かを考えていた。このまま朝靄のように消えていってしまうのではないかという危うさがあった。一度だけ繋いだ手はとても冷たかった。無理して作る笑顔はあまりにも悲しくて、私には泣き顔に見えた。
私はその場に立ち尽くしていた。机の上に染みができて、ああ、泣いているのだ、と思った。文一と別れたからではなかった。こうして「彼」の存在が日々の中で薄くなっていって、彼の温度を、匂いを、眼差しを、段々忘れていってしまうのが怖かった。なんて残酷なのだろう、と私はまた思った。時間に対しても、自分に対しても。
陽が傾きかけていた。見回りの先生が来る前に、帰らなければならなかった。私は最後に、彼の名前を呼んだ。もう、返事が返ってくることはない、私が愛した、彼の名前を。
「藍くん」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます