第7話
夜、バイト先のコンビニに誠が来た。
缶チューハイを二本とさきいかをレジに通す私に、外で待ってるから、と彼は言った。ちらと時計を見ると、あと十分ほどで十時になる頃だった。わかった、と私は頷き、店を出て行く彼に頭を下げた。
バイトが終わり外に出ると、彼は言ったとおり、店の外で私を待っていた。夕食、まだだろ、俺の家で食べていかないかという彼の言葉に、私は頷いた。頷きながら、昼間の友人たちの話を思い出した。今夜、私たちは「そういうこと」をするのだろうか。ぼんやりと考えながら、差し出された彼の右手をなんとなく握り、私は歩いた。
彼の家は、コンビニから歩いて十分ほどのところにあるアパートの二階だ。開いたドアの向こうから、カレーの匂いが漂っていた。腹減ったろ、いま温め直す、と彼はキッチンに駆けていく。家庭的な人。私は彼の後ろ姿を見て思った。
こうしてバイト帰りに彼の家に来るのは、さほど珍しいことではなかった。私は自分の部屋に誰かを入れることが苦手なので、彼が私の家に来たことは数えるほどしかない。彼は私とは逆で、誰かを家に招待することが好きだった。彼の部屋にはよく、飲み会の名残と思われるウイスキーの瓶や、半分ほど減ったジュースのペットボトルなどが転がっていた。
具がごろごろ入ったカレーを、私たちは向き合って食べた。私は自炊をほとんどしないので、彼の家に来て彼の作ったご飯を食べると「ああ、これが手料理というやつか」と感じる。簡単なものしか作れないよ、というわりに、彼の料理はとても美味しい。味が少し濃くて美味しさがわかりやすくて、「皆に好まれそうな味」がする。
「優、前話した、その、婚約のことだけど」
食後に缶チューハイを飲みながら、彼は切り出した。あの日以来、私たちはその話をしていなかった。私からは何も言えなかったし、彼もタイミングを中々はかれないでいるようだった。
「少し、考えてくれた?」
私はさきいかをかみながらうつむいた。まだ、よくわからない。か細い声になった。
「婚約とか、先のことは、まだ、わからない」
しばらく沈黙があった。その後に、そっか、と彼は呟いた。
「ごめん、俺、もう四年生でさ、色々将来のこと考えることが多くて。急かしている訳じゃないんだ。でも、優はどういう気持ちなのかなって。優にはまだ学生期間があるし、俺は来年には教師になる予定だし、お互いの気持ちを把握しておかないと、生活も気持ちも離れていってしまいそうで、なんか不安でさ」
「ごめんなさい」
私は思わず呟いた。彼は今年22歳で、就職のことも、恋人との将来のことも、考えることはきっと自然なことなのに。彼に、「ごめん」と言わせてしまったことに心が痛んだ。けれど私は、彼への同情から「コンヤク」という単語を飲み込むことは不可能だと思った。
「嫌なわけじゃないの」
明らかに肩を落としている彼に、私は言った。
「私はまだ未熟で、すぐ自分のことで一杯になってしまうから、誠と婚約するということが、うまく想像できないの。だから、こんな状態で、承諾の返事をすることが出来ないだけなの」
半分本当で、半分嘘だった。本当は、私は誰とも将来の約束をするつもりはなかった。けれど、正直に話すということが、必ずしも良いこととは限らないことを知っていた。「良い彼氏」を、これ以上傷つけることは、許されない気がした。
いや、いっそ、言ってしまったほうが彼のためなのだろうか。いつか別れることになるのなら、それは早いほうがきっと――ぐるぐると一人で考えている私を、彼は急に抱きしめた。
「大丈夫、優の気持ち、ちゃんとわかってるよ」
ああ、この人は何も知らないのだ、と私は思った。彼の言う「大丈夫」には、いつだって根拠がない。だから一種の呪文のようなもので、時に救われもするが、時に跳ね返したくなる。
彼は私にキスをした。抵抗できないまま、私は床に押し倒された。彼の息が顔にかかる。熱い。人間の温度だった。彼の口からは、ブドウ味のチューハイの匂いがした。
私は大学一年の夏、処女を捨てた。「良い彼氏」の手によって私は裸にされ、気づいたらベッドの上にいた。彼の欲求に応えることが、私の心の中に「彼」がいることの罪滅ぼしになる気がした。本当はこんなことは、したくなかった。行為の最中、私は意識をあの夏に飛ばすことに集中した。狭くて暑かった、あのホテルの一室に。それは案外簡単なことだった。彼は初めての私を、優しく抱いた。勝手に口から声が漏れた。自分の声が、得体の知れない生き物のように聞こえた。私は行為中に、彼の名前を呼ぶことは一切しなかった。違う人の名前を呼んでしまいそうだったから。最低だな。熱いものを下腹部に感じながら、私は思った。
それから彼とは何度も性行為をしたが、求められて応えないことはなかった。応えよう、という気が働けば、私の身体は持ち主に従順に反応してくれたし、彼を拒むことは、小さく残っていた私の良心が許さなかった。
けれどこの日、私の身体は反応してくれなかった。彼はそれに気づいて、必死にどうにかしようとしたが、どうしてもうまくいかなかった。結局、彼は諦めた。手でしようか、と私は言ったけれど、いや、大丈夫、と彼は答えた。
「少し、疲れてるみたい」
言い訳のように、私は言った。気にしないで、そういう日もあるよ、彼はそう言って笑ったが、やはり寂しさを隠しきれてはいなかった。
「水、飲む?」
彼の差し出したペットボトルの水を、私は黙って受け取った。そうして一気にごくごくと音を立てて飲んだ。飲んでも飲んでも、渇きは消えてはくれなかった。無性に私は泣きたくなった。息が苦しい。どうしてこんなに辛いのだろう。どうして満たされないのだろう。どうして。
私は過呼吸を起こした。今まで、誠の前で過呼吸になったことはなかったから、彼はかなり慌てていた。けれど彼はきちんと処置を施してくれたようで、気づくと私は布団に寝かされていた。
「ごめんね、優。悩ませてしまったみたいで」
彼は申し訳なさと心配と困惑を滲ませた顔で、私を見ていた。
「誠が謝ることじゃない」
また泣きそうになる私の頭を、彼はそっと撫でた。
「今日は休んで。婚約のことも、しばらく考えるのやめよう。俺はちゃんと、優のそばにいるから」
でもね、私は貴方のそばにはいないの。言えなかった言葉は胸の奥に深く沈んでいき、重しのように私の中に残ってしまった。
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