第8話

二○一二年 春




 深海藍という人物の私の第一印象は、「誰からも嫌われない人」だった。

 入学式を終え、当然のようにクラスはいくつかのグループに分かれた。私も、四人ほどの女子グループに属すようになった。日が経つにつれ、グループの順位というものもはっきりしてきた。私の属するグループは、一番上ではないものの中の上くらいの位置を有していて、私はグループからはじかれないように、興味の無いドラマを見たり雑誌を買ったりして、話題を合わせるようにしていた。窮屈だとは感じていたが、それは狭い教室で潰されないための「義務」だと割り切った。グループを越えた交流はあまりせず、教室移動や昼食も、幾分かの息苦しさは感じつつ、いつもグループの人たちと一緒にいた。

 彼もまた、男子における中の上の位置を有するグループに属していた。同じグループには文一もいた。けれど彼は、どのグループの人間とも平気で関わることができた。分け隔て無い、とは彼のためにある言葉のようだった。どのグループも、彼を必要としているように見えるほど、彼はどこにいても誰といても「馴染んだ」。運動部の男子たちに囲まれてサッカーの話をしていることもあれば、文一のギターを聴いていることもあれば、アニメの話に花を咲かせていることもあった。そして彼は男子にとどまらず、女子グループにも必要とされていた。と言っても、「王子様キャラ」などという扱いではなく、「親しみやすい従兄弟のお兄ちゃん」というような扱いを受けていた。彼は上位グループと接していても周りに威圧感を与えることはなく、所謂下位グループと接していても、同情ではなく友情を感じさせた。そして、それは偽善などではなく、天然のものなのが彼のすごいところだった。彼を嫌う人は恐らくいなかったし、誰からも必要とされていた。私はそんな彼を遠目から眺めているだけだったけれど、優しい瞳で人を見る人だな、と思っていた。

 彼は下の名前で呼ばれていた。あい、という美しい響きを持った彼の名前が、私は好きだった。

 彼と初めて二人で話したのは、高校生活にも大分慣れてきた、ある雨の日だった。私は電車通学だった。高校の最寄り駅から自宅の最寄り駅までの二十分間、私はぼんやりと車窓を眺めるか、本を読むか、居眠りをするかして時間を潰していた。この二十分間は、外で唯一私が気を抜ける時間だった。同じ方向に帰るグループの友人は一人もおらず、私はいつも電車に乗る度に「ああ、自由になった」と感じていた。

 その日も私は、電車に乗り込むと同時にほっと息を吐いた。発車を知らせるベルを聞きながら傘をたたんでいると、一人の男性が息を切らせて駆け込んできた。それが深海藍だった。

「危なかった」

 彼はそう言って私のほうを見て笑った。柔らかな笑顔だった。彼が私の存在を認知していると思っていなかった私は、少し驚いた。

「若月さん、だよね」

 彼の髪は雨に濡れてしっとりとしていた。傘を差さずに走ってきたのだろう。確かにこの田舎では、電車を一本逃すと帰りの時間は大分遅くなるから、急いできたのも無理はない、と思った。同時に、まだちゃんと話したことのない私の名前を、この人は間違いなく呼んだ、と思った。

「えっと、藍、くん」

 この時、私は咄嗟に彼を下の名前で呼んでいた。皆そう呼んでいたとはいえ、言ってしまってから妙に恥ずかしくなった。

 彼は少し息を整えてから、はい、と私に何かを手渡した。それは私の財布だった。はっとして鞄の中を探ると、そこにあるはずの財布がなかった。今まで全く、気づいていなかった。

「教室に落ちてたんだ。聞いたら、若月さんのだって教えてもらって。いつもこの時間の、下りの電車に乗るって聞いて、僕も同じ方面だから、もしかしたら追いつくかも、と思ったんだ。ごめんね、突然こんなことして」

 はい、中身、確認してみて、と彼は言った。青地に花柄のその財布は、紛れもなく私のものだった。中身も今朝と変わらず、変わっていたのは、人肌に温かくなっていたことだけだった。

「うん、私のだ、中身も平気。ごめん、わざわざ、これだけのために走ってきてくれた、の?」

 つっかえながら、私は言った。久しぶりに、一対一で異性と話した、と思った。

「ごめんね、ありがとう、申し訳ない・・・・・・」

「なんで謝るの。僕、今日は学校に用事があるわけでもなかったし、暇だったし、若月さんが気にすることは何もないよ。僕が勝手にしたことだから。びっくりしたよね、突然こんな奴が駆け込み乗車してきて」

 彼はそう言って笑った。私もつられて、少し頬を緩ませた。綺麗な瞳をしている、と私は思った。こんなに近くで「皆」の彼と向き合っていると思うと、申し訳ないような、秘密にしたくなるような、不思議な感じがした。

「若月さん、何か部活は?」

 彼が聞いた。私は首を横に振った。

「何も。藍、くんは?」

「僕も、何も」

 それは少し意外だった。何かしらの部活を兼部しているものだと、私は勝手に思っていた。

「一人になるのが、割と好きなんだ」

 そう言った時、彼の纏う温度が一瞬だけ、下がった気がした。気のせいだったのかもしれない。雨が、そう見せただけかもしれない。けれど、私はなんとなく、教室で皆に囲まれている時とは違う雰囲気を、一瞬だけ感じた。

「私も、一人が好き」

 私は呟いた。その声が、彼に届いたかはわからない。次の駅名のアナウンスが流れたからだ。

「僕、この駅で降りるね」

 彼は言った。うん、と頷きながら、私は思い出して言った。

「藍くん、傘は」

「え?ああ、いいよ。どうせ濡れてるし」

「だめだよ、だったら尚更」

 私は、自分の傘を、彼に差し出した。

「これ、その、良かったら。お礼にもならないかもしれないけど・・・・・・私の家、駅から近いし、気にしないで」

「いいよそんな、若月さんが濡れちゃうよ」

「藍くんのほうが、濡れてる」

 私は傘を、彼の手に握らせた。どうしてそんなことが出来たのか、今でも分からない。けれどその時私は、これ以上この人を濡らしたくない、と強く思ったのだ。これ以上、濡らしては、いけないと。

「あ、でも、女子用の傘が嫌だったら、無理しないでいいけど・・・・・・」

 私が言うと、彼は笑った。

「優しい人だね、若月さんは」

 丁度、電車が止まった。乗客の何人かが、ぞろぞろと出て行く。彼は私の傘を、そっと受け取った。

「ありがとう、借りるね」

 うん、と私は頷いた。彼は車両から出た。ドアが閉まった。

 発車する時、彼は振り返って、手を振った。またね、と口が動いていた。そして、黒地にドット柄の傘を開き、彼はゆっくりと歩いて行った。

 財布は冷たい皮の温度に戻っていた。彼が立っていた場所には、イヤホンをした女性が立っていた。私の手に傘はなかった。藍くんのほうが濡れてる、と言った時の彼の表情が浮かんだ。彼は少しだけ、驚いた顔をしていた。まるで、そんなことには気づいていなかった、というように。そして、傘を受け取った時の表情を思った。彼は優しい顔をしていた。けれどそれ、どこか寂しそうにも見えた。それも、ただの雨のせいだったのかもしれないけれど。

 私は、電車内での残りの十五分間、何もすることが出来なかった。雨粒が窓を流れていくのを、ぼんやりと眺めていた。

 自宅の最寄り駅に着くと、雨は止んでいた。水溜まりに視線を落とすと、私の傘と共に消えていった彼の姿が浮かんだ。

 たった五分。それなのに、この出来事は私の心に深く刻み込まれてしまった。帰り道、藍くん、とひとりごちてみた。すぐに変な気持ちになり、私は急ぐわけでもないのに、早足で帰った。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る