第9話

二○一六年 春




 誠の前で過呼吸を起こした翌日、私は講義を休んだ。俺の家で寝ていていいよ、と誠は言ったが、私は首を横に振り、誠が学校に行く時間に合わせて彼の部屋を後にした。

「本当に大丈夫?」

 彼は心配そうに尋ねた。私が倒れた後、彼はしばらく眠らず、私のそばにいてくれた。きっと眠いはずなのに、それでも私のことを気遣っている。優しい人だ、と思う。頷きながら、私はまた泣きたくなった。

 彼と別れ、私は一人、家に帰った。食パンを一枚焼いて食べ、牛乳をぐびぐび飲んだ。昨日の渇きはまだ取れず、飲んでも飲んでも私は潤わなかった。そのうちひどく気持ちが悪くなり、トイレに駆け込んで吐いた。吐けばすっきりすると思ったけれど、気持ちはずしんと重いままだった。

 皆が活動している時間に一人で家にいると、高校三年生の頃の日々を思い出す。背徳感、罪悪感、劣等感、そして安心感。感情が入り交じり、その重さに耐えられなくなり、私はよく動けなくなった。かと思えば急に激しく泣き出したり、食べたものをすべて吐いたり、発作的に外に飛び出したりしていた。ひどい不安定さだったな、と思う。あの時、本屋で文一と出会わなければ、私は大学など来られてはいなかったのだろうな、と思った。

 不安定なのは今も変わらないけれど、それをうまく隠しながら生活することは、今のところ出来ている。だから大学で出会った人々は、私のそういう「弱いところ」を知らない。誠にさえ、私は昨日まで、不安定な姿を見せたことはなかった。

結局私は、夕方まで眠った。目が覚めるともう午後五時だった。また、一日を無駄に貪ってしまったな、とぼんやり思った。

 ふと、「Bar Yoru」に行こう、と思った。なんとなく、大人になった文一の姿を見たくなった。私は身支度をし、下校途中の学生たちを横目に、駅に向かった。電車は下校ラッシュで、制服姿が多く見られた。私にもこんな時代があったのだ、と、たった二年前の日々を遠くに感じた。

 「Bar Yoru」は今日も、ぽつんと影に佇んでいた。ドアを開けると、今日は何人かの客がいた。皆、思い思いにお酒を飲んでいる。カウンターに立っていた文一と店長が、同時に視線を私に向けた。

「お、優ちゃん。いらっしゃいませ」

「いらっしゃいませ。どうぞ、好きなところに座って」

「ありがとう」

 私は、カウンター席の一番奥に腰掛けた。一つ空けた席では、髭を生やしたおじさんが煙草をくゆらせていた。私はミント・ジュレップとフィッシュアンドチップスを注文した。店内には今日も、心地よいジャズが流れていた。

 文一は忙しそうだった。グラスを磨き、シェイカーを振り、マドラーで液体を混ぜる。動作の一つ一つが洗練されていて、手際よく美しい色のカクテルが作られていく様子は、まるでマジックショーのようだった。彼は私の方を気にかけてはくれていたが、中々話す時間は取れそうになかった。店長は料理を運びながら、ごめんね、今日あいつ忙しくて、と私に耳打ちした。大丈夫です、と私が言うと、店長はチョコレートの乗った皿を出してくれた。サービス、というウインクと共に。

 私はフィッシュアンドチップスを平らげ、ウイスキーロックを追加で注文した。チョコレートと共にそれをゆっくり味わいながら、私は文一の仕事ぶりを眺めた。二年前、本屋で私に声をかけてきた、寝癖のついた文一はそこにはいなかった。バーテンダーの文一を、客としてカウンター越しに眺めることになると、あの時の私は考えもしなかったな、と思った。あの頃と変わらない長い前髪が揺れるのを眺めながら、私はウイスキーを飲み干した。

「お会計、お願いします」

 私は言った。文一は申し訳なさそうに私を見た。

「ごめん、あまり話す時間取れなくて」

「いいのよ、文一のバーテンダー姿が見たくなっただけだから」

 そのために来たんだから、と言って私が会計をしていると、奥から店長が顔を出した。

「文一、俺がカウンター立つから、駅まで優ちゃん送ってやって」

「え、でも」

「いいから」

 店長はそう言って、文一をカウンター内から押しのけた。だからお前はもてないんだよ、と笑い、私に向かって言った。

「優ちゃん、今日疲れてるでしょ、顔が赤い。こいつにしっかり送らせるからね」

 私は頬に手を当てた。確かにほてっていた。疲れていたのか。でも、そうなのかもしれない。本当は、少し、文一と話が出来ることを望んでいたのかもしれない。店長にそれを見透かされたようで、私はうまく答えることができなかった。けれど、ありがとうございます、と頭だけは下げた。店長は満足げに頷いた。

 私と文一は外に出た。春になったとはいえ、暗くなるとやはり少し空気が冷たい。人工の光が目に眩しい。世界がゆらゆら揺れているのを感じて、確かに酔っているのかもしれない、とぼんやり思った。

「来てくれて、ありがとな」

 駅に向かって歩きながら、文一は言った。文一と並んで歩くのは久しぶりで、少し高校時代に引き戻された感じがした。

「ばたばたしてて、あまり話せなかったけど」

「言ったでしょ、私は文一が働いているのを見に来たかっただけなんだから」

 夜の街は少しだけ浮き足立っているのに、いつもどこか、少し寂しい。すれ違うサラリーマン、寄り添う恋人、足早に歩くメイクの濃い女性。皆、それぞれの夜に、今日も浸っている。

「何かあった?」

 前を向いたまま、彼は不意に言った。

「店に来たとき、少し思い詰めた顔をしているように見えたから」

 遠くで、わっと笑い声が聞こえた。向こうの方では、若い男女何人かの集団が、道端で楽しげに話している。私は彼と同じ方向に視線を向けた。大きな居酒屋の灯りが眩しくて、私は思わず目をそらした。

「恋人とセックスしようとした、でも濡れなかった」

 私は呟くように言葉を吐いていた。

「その後初めて、彼の前で過呼吸を起こした」

 先ほど飲んだウイスキーのせいか、心の中の言葉が、そのまま言葉になって口からこぼれてきた。

「彼は、婚約の話はしばらく考えないようにしようって言った。申し訳なさそうな顔をしてた。彼はすごく良い人なのに、私は何一つ、彼に応えられない。いつまでも満たされない」

 嫌な動悸がして、視界の揺れが増した。水の中にいるみたい、とばんやり思った時には、私は文一の腕の中に倒れていた。

「私といると、皆不幸になる。私には、誰かと一緒にいる資格がない」

彼が私を優しく抱きしめるのがわかった。あの頃のように、黙って彼は私の背中をさすってくれた。羽で撫でられているのかと感じるくらい、彼の手は優しかった。

「文一はどうして、私のことなんか好きになったの」

 彼の腕の中で、私は言った。声が掠れていた。

「私には、人から愛される資格なんてないのに」

「優」

 彼が私を抱く手に力を込めたのがわかった。彼からは、あの頃とは違う香水の香りと、お酒と煙草の匂いがした。

「過去形になんかなってないよ」

 彼の声も、少し掠れていた。けれどはっきりと、彼は言った。

「好きだよ、今でも。嫌いになったことなんか一度もない」

 周りの声も音も、すべて遠くに聞こえた。彼の腕から顔を上げたら、もしかしたらあの頃の景色が広がっているのではないかとさえ思えた。彼は続けた。

「俺はずっと、優を見てた。でも優は、あいつを見てた。俺は二人がくっついてくれるなら、応援しなきゃと思ってた。けど、あいつがいなくなって、優がどんどん壊れていってしまう気がして。いつかいなくなってしまうんじゃないかって考えたら、怖くなった。俺はあいつにはなれないし、優があいつ以外の何かを求めていないのもわかってた。だけど、優がいなくなってしまう方が、俺には怖かった」

 文一があいつ、と言う度に、彼が私の頭をよぎった。分け隔て無く向けられた笑顔、途方もない寂しさを滲ませた瞳、穏やかな眼差し、私を呼ぶ声。こんなにも思い出せるのに、もう彼は、いない。

「なのに俺は未熟で、住む場所が離れたら、俺が耐えられなくなると思った。俺が辛くなる、俺が苦しくなる。自分のことばかり考えて、俺は逃げた。最低だった。優の心を埋められないとわかって、それでも一緒にいたいと思ったのに。後悔してた。この町に来たとき、もしかしたら優に会えるかも、なんて思ってた。それくらい、忘れたことなんてなかった」

 彼がどんな表情をしているか、私は見ることが出来なかった。彼に抱かれたまま、私は彼の言葉が、一つずつ胸の中に落ちていくのを感じた。

「今更、恋人に戻ってほしいなんて、俺には言う資格がないけど」

 私は目を閉じる。薄らいでいく意識の中で、文一の声はそれでもはっきりと聞こえた。

「好きだよ、優。昔も今も」



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