第10話

二○一二年 春、そして夏




 財布と傘の一件の後も、私と藍くんは時々同じ時間の電車で帰ることがあった。彼は友人と一緒のこともあれば一人の時もあった。私は専ら一人だったので、彼と電車内で話すのはお互い一人の時だった。彼が最寄り駅に着くまでの、たった五分間。

話すのは他愛もないことだった。古典の小テストのこと、癖の強い物理の先生のこと、その日の天気のこと。

 ある日彼は、私が電車の中でいつも本を読んでいるのを見て、私がどんな本を好きなのか尋ねた。私は基本的に、読んでいる本を人に見せない。けれどその時は、ブックカバーを取り背表紙を彼に見せた。読むのは圧倒的に、太宰治が多かった。この日読んでいたのは「人間失格」だった。

「人間失格、僕も読んだことある」

 彼がそう言った時、私は少し驚いた。その時の私は彼について表面的なことしか知らず、教室内の彼の印象だけで「意外だ」と思ってしまった。けれど、私の愛読書を、彼も読んだことがあるという事実は、私の胸を少し高鳴らせた。

「好きなんだ、人間失格。共感、という言葉が正しいかわからないけれど、一度は感じたことがあっても、言葉にできなかった行き場のない感情たちが、救われるような、そんな気がする」

 私が言うと、彼は頷いた。

「若月さんの言いたいこと、わかるな」

 その後で、ふっと瞳が陰った。あ、まただ、と私は思った。彼が、二人で電車に乗るときにたまに見せるその瞳を、私は注意深く見つめた。

「僕は、許された気がしたんだ」

 彼は言った。

「人間失格と人間合格の線引きが何を以てされるのかはわからないけれど、どんなに不幸でも、その状況を許していいんだって、無理に幸せになろうとしなくてもいいんだって、耐えられなくなったら逃げていいんだって、感動したんだ」

 その時の彼の言葉と瞳は、私の心に深く刻まれた。彼の、深い藍色の瞳は、私ではない遠くを見つめていた。彼の纏う温度は夜のようにひんやりとしていて、それでいて消えてしまいそうな柔らかさを帯びていた。教室では見せたことのない表情だった。私は何と返したらいいか分からず、ひたすら彼を見つめた。目が合った。もしかしたら私の表情も、教室では見せたことのないものだったのかもしれない。お互いに、秘密を知ってしまったような、静かな空気が流れた。それは不快ではなかった。私と彼だけが、電車に乗って夜の中を旅しているような錯覚さえ起こした。彼がどう感じていたかはわからないけれど、彼もまた、私の目を見つめたまま動かなかった。

 その時、彼の最寄り駅の名を告げるアナウンスが鳴った。彼ははっとしたように、足下に置いていた鞄を手に取った。もう、「いつもの」彼に戻っていた。

「行かなきゃだ」

 そう言って笑う彼に、私は言った。

「またしよう、人間失格の話」

 彼は私を見つめて、優しく微笑んだ。

「是非。楽しみ」

 そう言って彼は電車を降りていった。いつものように、一度振り返って手を振ってから、歩いて行った。

 翌日学校へ行くと、彼はいつも通りだった。昨日の電車内で見た彼は、もしかしたら別人だったのではないかとさえ思った。それから何度か電車で一緒に帰ったが、人間失格の話をすることはなかった。

 高校生活は、思いの外足早に過ぎていった。梅雨が明け、夏の匂いが濃くなってきた頃、私の属するグループに変化があった。グループの一人が、藍くんの属する三人グループの男子と付き合い始めたのだ(藍くんでも文一でもない、もう一人の男子だった)。このことがきっかけで、二つのグループはグループ同士で話したり、遊んだりすることが多くなった。私はこうした男女の付き合いが初めてで、最初はひどく戸惑い、皆の中にいてもおどおどばかりしていたが、段々と慣れてくると、ちゃんと笑えるようになった。ここでも、藍くんの力が大きかったな、と今でも思う。彼は自然に私に話題を振ってくれたし、たどたどしい私の話にも優しく相づちを打ってくれた。ああ、この人が分け隔て無いと形容されるのがよくわかる、と私は思った。

 待ち望んだ夏休み、私たちは色々な所に出かけた。映画館、動物園、遊園地。河原でバーベキューをし、花火をした。絵に描いたような青春だった。私は、自分がその中にいるのが信じられなかった。長い夏の夢に取り込まれてしまったのではないかと感じた。今まで私は、こんな大勢の友人と、こんなに多くの時間を過ごしたことがなかった。自分がこんなきらきらした場所にいることに恐怖を覚えることもあった。けれどそれは、藍くんの笑顔を見る度に一瞬で消えた。柄にもない、と思いながら、私は夏を楽しんだ。後にも先にも、この時ほどの「青春らしい青春」はないだろう。

 そして、夏休みはあっという間に過ぎた。遊びすぎた私たちは、揃って課題に追われることになった。残り一週間になって、皆で図書館で課題を片付けよう、ということになり、私たちは問題集を抱えて町立図書館に通うことになった。開館と同時に席を取り、皆して難しい顔をして課題を進め、昼はコンビニでおにぎりやらお菓子やらを買って、図書館の庭で食べた。そして午後も図書館にこもり、夕方五時の鐘が鳴ると私たちは外に出た。好きなアイスを買って食べながら帰るのが、自分たちへのご褒美だった。皆文句を言いながらも、そんな毎日を楽しんでいた。私も、疲労感とアイスと共に、夕暮れの道を皆で歩いていると、「ああ、今日も楽しかった」と思えた。素直に。

 課題ウィーク最終日、藍くんから熱を出して参加できない、というメッセージが皆に届いた。えー、最後なのに、と皆残念がった。私も、正直残念だった。と同時に、家で一人寝込んでいる彼が、最近はあまり見せないあの瞳をしているのではないかと思うと、心がざわざわして落ち着かなかった。

 昼過ぎ、少し休憩しよう、という友人の一言で、私たちは図書館の庭に出た。そこで、一人の友人が思いついたように言った。

「優、お見舞い行ってあげなよ」

 突然の発言に、私は困惑した。

「え、どうして」

「あいつも夏休み最終日に一人じゃ寂しいじゃん?それに、この中だったら優が一番、課題終わってるし。あいつの家、この近くなんでしょ?」

「ああ、割とな」

「でも、それなら皆で」

「こんなに大勢わらわら行っても、逆に迷惑だって」

 それに、と彼女は私に耳打ちした。

「会いたいでしょ、藍に」

 私は顔が熱くなるのを感じた。彼女はにやにやしながら私を見ていた。他の皆も、彼女ほどではなかったが、口元を緩めて私を見ていた。

 私はこの時、彼に恋愛感情を抱いているという認識はなかった。確かに、私はこの夏、ずっと彼を目で追っていた。それに周りは気づいていて、私が彼に好意を寄せていると思ったのかもしれない。しかし私は、彼を思うときに感じる気持ちがどういう名前のものなのか、まだ分からないでいた。ただ、彼が自然に振りまく分け隔てない優しさや、はっとするほど柔らかな視線、そして時折見せる壊れそうな雰囲気とあの瞳が、私の中に深く刻み込まれていることは確かだった。それを恋と呼ぶには、あまりにも単純すぎるようにも感じた。しかし、皆の前でそんなことを言えるはずもなく、無理に否定するのも不自然だと思い、私はその日の夕方、一人で彼の家に行くことになったのだった。

 彼の家は、町立図書館から自転車で十分ほどのところだと、文一が道順を教えてくれた。私は、皆から託されたお菓子やゼリーの袋を籠に入れ、彼の家に向かって自転車を走らせた。とても暑い日で、少し自転車に乗るだけでも結構な汗をかいた。途中の自販機でポカリスエットを二本買い、一つをがぶがぶ飲んだ。もう一つは、袋の中に入れた。

 彼の家は、静かな住宅街の中にあった。深海、と書かれた表札の前で、私は息を整え、乱れた髪を直した。誰かの家にお見舞いに来るのは、初めてのことだった。私は少し震える手で、インターフォンを押した。

「はい、どちら様です?」

 ドアから出てきたのは、母親と思われる女性だった。私はえっと、あの、と言葉を詰まらせながら、深海くんの友人の代表として、お見舞いに来たことを告げた。

「あらあら、わざわざありがとう」

 彼女は微笑んだ。優しげな目元が、彼にそっくりだった。

「藍ね、さっき散歩に出かけてくるって行って、出て行っちゃったのよ。多分、そんなに遠くまでは行っていないと思うんだけれど」

「あ、じゃあこれ、藍くんに渡しておいて下さい。友人たちからです」

 私がぱんぱんの袋を差し出すと、彼女はあらあら、こんなに、と微笑みながら受け取った。

「ありがとう、藍に伝えておくわね」

 私は頭を下げた。藍くんに会えなかったのは残念な気もしたし、少しほっとしている自分もいた。

 時刻は夕方だった。まだ少し暑さは残っているけれど、風は涼しく、既に秋が潜んでいるような気がした。遠くでカナカナカナ、とヒグラシが鳴いていた。夏が終わる匂いがした。私は深呼吸した。鼻がつんとした。

 ふと、河原まで行ってみよう、と思った。次乗る電車までは時間があるし、なんとなく、まだ夏休みに浸っていたかった。この近くには川が流れていて、皆でバーベキューをした河原があった。私は軽くなった自転車に乗り、夕方の匂いのする道を走り出した。

 今思うと、私の運命を「あの夜」に導いたのは、この時河原に行こうと決めた瞬間だったのかもしれない。



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