第11話
河原には先客がいた。それが、藍くんだった。
自転車を止め、彼の名前を呼ぼうとして、私ははっと立ち止まった。私が立っている場所からは、彼の横顔しか見えなかったが、それだけでも、彼がいつもの彼とは違う空気を纏っていることがわかった。
彼は、夕陽に光る川面の、さらに遠くを見つめていた。夏の終わりの夕暮れ、という世界の中で、彼だけが別世界に生きているような雰囲気を漂わせていた。今見ているのは夏が私に見せている幻で、声をかけたら彼の姿はほろほろと崩れて、光のように消えてしまうのではないか、そんな気さえした。
かさ、という私が草を踏む音で、彼は振り向いた。彼の瞳は、「あの」瞳だった。私の姿を見ても、この時彼は「いつもの」彼には戻らなかった。遠くを見つめたまま、彼は私を見た。
「藍くん」
私は彼の元に歩み寄った。心臓がばくばく音を立てていた。怖かった。彼がこのまま消えてしまったらどうしよう、と、私は本気で怖かった。
「ごめんね、驚かせたよね」
春の雨の日、彼が駆け込み乗車をしてまで私に財布を届けに来てくれた時と同じような台詞を、私は口にした。何か言っていないと、ひどく不安だった。
「あのね、さっき、藍くんの家にお邪魔してきたんだ。皆から、お菓子とか色々、藍くんに渡してって預かってきたの。本当は皆でお見舞いに来たかったんだけど、大勢で行くと迷惑だよねって話になって。私、一応課題一通り終わってたから、皆の代表としてお見舞いに来たんだ。それで、帰りに少し河原で涼んでいこうと思って、それで・・・・・・」
聞かれてもいないのに、私は何を話しているのだろう、と思った。けれど、そうでもしないと、藍くんを「ここ」に繋ぎ止めていられない気がした。漠然とした、それでいてあまりにも大きな不安が、私を支配していた。
彼はそっか、と一言呟いた。ごめんね、わざわざ、ありがとうね、とか細い声で言った。そのまま、彼は視線を遠くにやった。私は黙って彼の隣に腰掛け、彼と同じ方向に視線を向けた。
視線の先の空は、柔らかな夕焼け色に染まっていた。ピンクとクリーム色とオレンジ色が混ざり、神秘的なグラデーションが浮かんでいた。甘いミックスジュースみたいな画用紙に、鳥の影と、五線譜のような電線が模様を作っているようだった。風が私たちの頬を撫でて通り過ぎていった。そよそよと静かな川のせせらぎが聞こえた。
「熱は大丈夫?」
私は視線を前に向けたまま言った。うん、と、彼も視線を前に向けたまま答えた。よかった、と私は言った。ありがとう、と彼は答えた。
夕方五時の鐘の音が響いた。皆、課題は終わっただろうか。今頃図書館を出て、アイスを買いに行っているだろうか。そんな夏休みももう終わりなんだな、と思った。
「たまに、ここに来るんだ」
彼が口を開いた。私は空を眺めながら、注意深く彼の声に耳を澄ませた。
「一人きりになりたい時に」
彼は確かに隣にいるはずなのに、私には手の届かないくらい、遠くにいるように感じた。
「消えたくなるんだ」
彼は静かに言った。
「このまま、あの夕空に溶けて、消えてしまえたらいいのにって思うんだ。死んだら、周りに迷惑がかかる。だから僕は、消えて、元から僕の存在なんてなかったことにしたい。誰の記憶からも、静かに消えて、この身体も意識も全部、消してしまいたい」
まるで、天気の話でもしているような口調だった。けれど、そこには切迫した何かがあった。普段の彼とは全く違う、そう思いかけて、ふと、普段の、って何だと思った。教室での彼、皆の中にいる時の彼、優しくて明るい彼、それを勝手に私は「普段の」彼と形容していた。けれどそれは私の勝手な考えで、今目の前にいる彼こそが、本当の彼なのではないか。いや、違う。どの彼も彼には違いない。それなのに、全く別人のような気がする。私は、彼の言葉に続けられる言葉が見つけられなかった。彼の発した言葉だけが、ゆらゆらと私たちの間を漂っていた。
「藍くん」
彼の方に視線を移した私は、はっとした。彼の瞳からは、涙が流れていた。しかし彼はそんなことには気がついていないようだった。ただ、その深い藍色の瞳からは静かに、まるで朝露が垂れていくように、涙が流れ続けていた。
「濡れてる」
私はハンカチを取り出して、彼に差し出した。彼は受け取らない。少し迷って私は彼の頬にハンカチを押し当てた。彼は私の方を見た。その時初めて、彼は自分の涙に気がついたようだった。「ごめん」
「私がこうしたいからしてるの」
思わず、むきになったような口調になった。彼の頬は白くて綺麗で、ひどく脆そうだった。私は頬を濡らしていた水滴を拭き取り、彼の瞳を見た。彼の瞳には、泣き出しそうな顔をした私の顔が映っていた。彼はもう、遠くを見つめてはいなかった。
「素敵な考えだと思う」
どうして私はこの時、こんな思い切ったことが言えたのだろう。
「そんな消え方なら、私もしてみたい」
私たちはしばらく見つめ合っていた。ありきたりな表現だけれど、確かにその時、世界には私たち二人しかいなかった。やがて彼は、ふっと微笑んだ。彼を纏う空気は、穏やかな温度に戻っていた。
「このことは、皆には内緒ね」
彼は言った。私は頷いた。誰にも言わない、と私は言った。
「恥ずかしいな、こんな姿、誰にも見せたことなかったのに」
帰ろうか、駅まで送るよ、と彼は立ち上がった。頷きながら私も立ち上がった。歩き出した彼の背中に向かって、私は言った。
「藍くんは藍くんだよ」
彼は足を止めた。
「綺麗な消え方の話、また、聞きたい。実行する前に」
これが、私の精一杯だった。彼は振り返った。その瞬間、夕陽が彼を照らして、その姿が光の中に隠れた。そのまま消えてしまうのではないか、と私は怖くなり、彼に駆け寄った。そんなはずはなかった。彼はちゃんとそこにいて、よろけた私を支えてくれた。
「若月さん、また、ここで会えるかな」
彼は言った。その言葉が「どちらの」彼のものなのか、私にはわからなかった。けれど私は、迷わず頷いた。彼はまた、微笑んだ。
夕空の上には、もう夜のヴェールが下りてきていて、気の早い月が所在なげに佇んでいた。私たちの約束を見ていたのは、夏に飽き飽きしていた、そんな彼らだけだった。
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