第12話

二○一六年 春




『昨日は大丈夫だった?二日酔いにはラムネが効くよ、今日はあんまり無理しないで下さい』

 朝、起きて最初に目に入ってきたのは、文一からのそんなメッセージだった。私は自室の布団の中にいた。枕元には、ポカリスエットとお菓子のラムネが転がっていた。

 私は目をこすり、重い体を持ち上げる。昨晩のことを思い出そうとすると、ひどく頭が痛んだ。二日酔い、と私は掠れた声で呟いた。

 文一は、酔ってふらふらだった私を、駅のベンチまで連れて行ってくれた。近くのコンビニで、ポカリや何やらを買ってきてくれて、私に飲ませてくれた。そんなに飲んでないのに、と言う私に、疲れも酔いに影響するからね、と彼は言った。

 電車が来るまでの十五分間、彼は私のそばにいてくれた。何を話すわけでもなく。私は、彼が先ほど口にした言葉を、ぼんやりともやがかかった頭の中で反芻していた。

「さっき言ったこと、気にしないで」

 別れ際に、彼はそう言った。

「言いたかっただけだから。今度はゆっくり飲みにでも行こう」

 大分酔いが醒めてきた私は、うん、そうだねと頷いた。そこで私たちは、高校卒業以来、お互いの連絡先を知らなかったことに気づき、慌てて連絡先を交換して別れたのだった。

 その後の記憶は曖昧だが、こうして布団で目が覚めたということは、無事に一人で家に帰って来られたということか、と思った。時計を見ると、もう昼前だった。一限も二限もすっぽかしてしまったな。午後からは大学に行かなければ、と思った。

 眠い目をこすり、ラムネを三粒ほど口に入れる。懐かしい味がした。大分、長い夢を見ていた気がするのに、内容はよく思い出せなかった。けれど、彼の夢だったような気がする。そう思いたかった、だけかもしれないけれど。

 メッセージはもう一つ来ていた。誠から、今晩一緒に夕ご飯を食べないか、という誘いだった。いいよ、と短く返信した後、文一のメッセージにも返信をした。

『昨日はありがとう、迷惑かけました。ラムネは良く効きそうです』




***




 その夜、私は誠と、大学のそばにあるパスタ屋さんに行った。ここは学生向けの店で、量が多くて安い。私たちも外食するとき、よく来る店だった。私はナポリタンを、彼はカルボナーラを注文した。

「体調は大丈夫か」

 彼は聞いた。そういえば、あれから彼と会っていなかった。

「うん、大丈夫、ありがとね。疲れてたみたい」

「それなら良かった。あんまり無理するなよ」

 ラムネのおかげか、プラシーボ効果なのか分からないが、私は二日酔いからすっかり回復していた。一日まともに食べていなかったので、パスタはとても美味しかった。けれど彼は、あまり食欲がないように見えた。いつもならぺろりと間食するのに、パスタをフォークに巻くばかりで、一向に減っていかないのだった。

「誠、具合悪い?」

 私は尋ねた。いや、そうじゃないんだけどね、と彼は口を濁した。そしてフォークを置き、少し思い切ったように口を開いた。

「優、聞きたいことがあるんだけど」

「何?」

「昨日、駅前で男の人と一緒にいた?」

 私はパスタを巻く手を止めた。心臓が少しずつ、冷えていくのがわかった。顔を上げると、彼と目が合った。その目には、疑惑と悲しみの色が同時に滲んでいた。

「俺が見たわけじゃないんだ。俺の友達が、昨日駅前で飲んでたらしくて、ほら、優も知ってる、俺と同じゼミの奴。そいつが、優と知らない男性が、その、抱き合ってるのを見たって言うんだ」

 見られていたのだ。あの時、私が文一の腕の中に身を任せていたのを、どこかで見られていたのだ。こういう時、どうすれば良いか分からなかった。普段から友人と、「彼氏に浮気を疑われた時の対処法」について、話しておけば良かった、と変な後悔をした。

 嘘はつけない。私は、正直に話そうと思い、口を開いた。

「それは、事実」

 そう言った瞬間、彼が大きく深呼吸するのがわかった。でも、と私は続けた。

「その人は、私が飲んでたバーの店員さんだったの。昨日、私があまりに酔っ払ってたから、心配して駅まで送ってくれたの。抱き合ってたって言うのは、私がふらふらしちゃって、彼がそれを支えてくれてたっていう、それだけのことなの」

 言いながら、ああ、なんて言い訳ったらしいんだろうと思った。嘘は一つもついていない。けれど、彼が高校の時の元彼だということは伏せた。私の脳裏に、昨日の彼の「告白」が浮かんだ。私は必死でそれを振り払った。

 彼はにわかには信じられないようだった。けれど、必死で私の話を、私は浮気などしていないということを、信じようとしていた。私はこれ以上、何も言えなかった。私が好きなのは貴方だけよ、安心して、と気の利いた一言でも言えれば、彼を安心させてあげられるかもしれないのに、どうしても言えなかった。それは、「嘘」になってしまうから。けれど、彼に悲しい顔をさせていることは、ひどく私の心を痛めた。

「ごめんなさい。誤解されるようなことして。無神経だった。ごめんなさい」

 私は頭を下げた。彼の顔を見ることが出来なかった。

 浮気、というのは、どこからが浮気なのだろう。私が文一に会うことは、浮気に入るのだろうか。誰かと付き合っていながら、別の人を愛してしまうことが浮気なのだろうか。

 だとしたら。私は文一のことも、誠のことも、裏切ったことになる。私は、「彼」以外の人を、愛したことはないのだから。彼のことを忘れることはないし、これからも記憶の中の彼を私は愛し続けるだろう。それなら私は誰と付き合っても、「浮気女」になってしまうのか。哀しいような虚しいような、けれど当たり前の報いのような、そんな気がした。

「優、顔上げてよ」

 彼は言った。ゆっくり顔を上げると、彼は困ったような笑顔を浮かべていた。

「心配になっちゃっただけなんだ。優のこと疑いたくなんかなかったけど、ほら、前のこともあるし、色々考えちゃって。他に好きな人ができたのかなとか、色々」

 ごめんな、俺女々しいな、彼は言った。また私は、無実の彼に謝罪させてしまった。こんな「良い彼氏」を。私は絶対に、「良い彼女」ではないのに。

 でも、と私は思う。貴方と付き合うことを決めた時も、初めてキスをした時も、身体を重ねたときも、今も、私が好きなのは貴方ではないの。駅前で抱き合っていた男性でもないの。

 私が好きなのは、彼ただ一人。あの夏の夜を共に過ごした、彼一人だけ。今までも、今も、これから先も。

 私はナポリタンを残した。



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