第13話
二○一二年 秋、そして冬
夏休み最終日のことがあって以来、私と藍くんは、時々河原で会うようになった。会う時間は決まって、休日の夕方だった。
前日の夜、「明日、いつもの場所で会いたいです」というメッセージが届く。「わかった」と私は返信する。基本的に休日は暇だった私は、彼のメッセージに応えられなかったことは一度もなかった。用事がある時は大抵、グループの皆と遊ぶ日だったし、そういう時は彼も私を呼んだりはしなかった。学校でも電車でも彼と話すことはあったが、彼があの瞳を見せるのは、河原で会う時だけだった。
私たちは夕空の下で、色々な話をした。どちらも視線を前に向けたまま、心に浮かんだことをぽつぽつと一人言のように話した。
私たちの会話は、はたから見たらとても奇妙なものだったかもしれない。けれど、少なくともその時間は、私は「素」でいられた。誰かの目を気にすることもなく、こんなことを言ったら変かと気にすることもなく、ありのままの心を、言葉を、さらけ出せた。きっと彼にとってもそうであると、いや、あってほしいと私は思っていた。
ある時は、生まれ変わったら何になりたいかという話をした。私はクラゲ、彼は酸素と答えた。
「どうしてクラゲ?」
「昔、水族館でクラゲを見た時思ったの。ああ、この生き物は、“ただ存在している”ことが許されるんだなって。何も考えなくても、周りに気を遣わなくても、それを咎められたりしない。ただ生きているだけで許されるのが羨ましいと思った。藍くんは、どうして酸素になりたいの」
「僕は、生まれ変わったら、誰にも認知されない存在になりたいんだ。酸素は当たり前のようにあるけど、生き物はそれをいちいち気に留めない。誰にも気づかれず、ただ消費されて、感謝も何もされない。そういう存在でいい。僕もきっと、周りになんか興味を抱かずに、ただ当てもなく漂える」
ある時は、地球最後の日の過ごし方について話した。
「私は、可能なら、その日は過去に戻って過ごしたい」
「過去。いつに戻りたいの」
「ずっと昔。私の一番古い記憶に。私はハイハイをしていて、それをお父さんがビデオで撮っているの。私はその大きなレンズが不思議で、手を伸ばして触ろうとしている。そうするとお父さんは嬉しそうに笑うの。そばでお母さんも笑ってる。私はよく分からないけれど、悪くない気分なんだ。これが本当の記憶か、私が作り出した幻かは分からないけれど、私はこの時に戻りたい。よく分からない幸せに包まれながら、よく分からないまま死んでいきたい。藍くんは?」
「僕は、世界が終わる瞬間を見られる場所に、一人で行きたい。隕石が落ちる場所でも、何かが爆発する場所でも。どんな生き物も近づかない場所に一人で行って、一人で世界が終わるのを待つ。楽しみにしていたドラマが始まる前みたいに、まだかな、なんて思いながらお菓子を食べたりして。世界が終わる瞬間を一番早く見て、ああ、一番乗りだ、と思いながら、それを誰にも知られることなく死にたい」
ある時、私は自分の過去の話をした。誰かにその話をするのは初めてだった。誰にも言わないと決めていたはずなのに、気づくと私は話していた。
小学生になった時、両親が離婚した。私は母親と手を繋ぎ、遠くなっていく父親の背中を見送った。当時、その理由は分からなかったが、父が浮気をしたのだと、後に母から聞いた。
母はいつも仕事に追われていた。元々専業主婦だった母は、私を育てるために必死だったのだと思う。運動会にも音楽会にも母は来なかった。学習発表会で、親へ感謝の手紙を書いて発表した時も、母の姿はなかった。私はその場にいない母に、いつもありがとう、という題の作文を読んだ。家に帰り、私は原稿用紙をびりびり破いて捨てた。その日も母が帰ってきたのは、私が布団に入ってからだった。
期待するから悲しくなるんだ、と気づいたのはこの頃だった。それなら、始めから、何も期待しなければいい。そうすれば傷つくことも、寂しくて夜眠れないこともなくなる。私は、心を殺す方法を覚えた。私は始めから一人なのだと思い込むことで、自分を守ろうとした。友達にも先生にも心を許さず、いつもガラスの壁を貼って生きていた。
中学校に入った私は、「暗い」という理由から目立つ女子に目をつけられ、いじめられるようになった。中学校など所詮子供の集まりで、「皆があの子をいじめるなら私もいじめる」のが当たり前だった。私はただ、自分を守るために一人で生きようとしていただけだ。何も悪いことはしていない。なのに、私はクラスメート全員からいじめられた。机への悪質な落書き、聞こえよがしの悪口、ゴミ箱に捨てられる教科書。どのいじめも、教師にばれないように巧みに計算されていた。トイレで水をかけられるとか、体育館裏で殴られるとか、明らかに目立ついじめはなかった。彼らは頭が良く、どうすればばれずに私にダメージを与えられるかに、日々精を出していたのだ。
私はここで、心を殺す術を貫いた。机の上の落書きは黙って消し、ゴミにまみれた教科書を黙って拾い、悪口は無表情で聞いていた。私は平気、私は所詮一人、寂しさも悲しさも感じない。けれど夜になると、耳元で昼間聞いた悪口ががんがん響いた。キモイ、ウザイ、キエロ、オマエナンカイラナイ。耳を塞いでも、声は消えてはくれなかった。仕事で疲れて帰ってくる母に迷惑をかけたくなくて、私は学校でのことを一言も話さなかった。私の反応が悪かったのも、彼らに飽きがきたのもあり、次第にいじめはなくなっていった。それなのに、私の中から彼らの言葉は消えてはくれなかった。
人と変わった姿を見せてはいけない。中学三年間で、私は深く学んだ。心を殺していれば、皆と合わせるのなんて簡単だ。高校では気をつけよう。そうすれば、きっともっと楽に生きられる。
そうして私は、地元の高校ではなく、電車で通う少し遠い今の高校を受験したのだった。
一気に話して、私はふう、と息を吐いた。夕陽がやけに眩しかった。こんなことは、誰にも話すことはないと思っていたのに。
「ごめんね、今日は私ばかり話しちゃったね」
私は呟くように言った。なんとなく気まずくなり、私は立ち上がって、川の方に歩いて行った。川面が夕陽を映し出して、オレンジ色に染まっていた。
「若月さん」
気づくと、彼が私の隣に立っていた。私の影と彼の影が、寄り添うように伸びていた。
「頑張って生き残ったんだね」
彼は一言、そう言った。
その言葉を聞いて、目から涙が止まらなくなったのが何故なのか、私には分からなかった。私の知っている小説の中では、こういう時は辛かったね、とか、寂しかったね、とか、そういう言葉をかけられて涙するものだと思っていた。けれど、私を涙させたのはそんなありきたりな言葉ではなかった。涙は止まり方を忘れてしまったように、止めどなく流れ続けた。
「濡れてる」
彼は自分の手で、私の涙を拭ってくれた。そして、私が泣き止むまで、ずっと隣にいてくれた。
ごめん、と私は言った。誰かの前でこんなに感情を出したのは初めてだった。私が泣いたのは、あの日、父の後ろ姿を見送った日以来だった。どんなに寂しくてもどんなに悪口を言われても、泣いたことなどなかったのに。
「何も悪いことしてないのに、謝っちゃ駄目だよ」
彼はそう言って微笑んだ。
「アイス買って、帰ろう」
彼は、多くは語らなかった。帰り道、自販機で彼はアイスを二つ買い、一つを私に差し出した。私の好きな、チョコレートアイス。私はその、あまりにもさりげない彼の優しさに、間違いなく救われた。彼はいつものように、私を駅まで送ってくれた。この日は電車を一本見送り、何もない駅で、私たちは他愛もないことを話した。
「これは僕の一人言だけど」
別れ際に、彼はふと言った。
「若月さんが生き残ってくれて嬉しいよ」
その言葉に、私はどれほど救われたか。彼はいつもより長く私を見送ってくれた。彼の姿が見えなくなるまで、私も彼の姿を見つめていた。
そんな彼を、私は救うことが出来なかった。
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