第14話
二○一六年 春
パスタ屋さんで夕ご飯を食べた日以来、誠とは会っていない。
彼はゼミが忙しそうだったし、私は私でレポートに追われていた。けれど、それだけが理由ではないことは確かだった。
悪いのは圧倒的に私だ。彼は何も悪くない。
彼から他愛もないメッセージが届く度、私は泣きそうになった。一生懸命自然に振る舞おうとしてくれているのが、痛いほど伝わってきた。私はどうしたら良いのだろう。表面的な会話しかしない友人には、何も話すことが出来なかった。
彼とは別れた方がいいのかもしれない。
私は結局、誰といても相手を傷つけるだけだ。
けれど、『別れ』という言葉を、どうしても彼に向けることが出来なかった。
そんな時、文一からメッセージが届いた。それを受け取ったのは深夜二時で、私は眠れないまま布団の中にいた。
『話したいことがあります。明日、会えないかな』
断った方がいい、と私は思った。私に「その気」がなくても、文一と一緒にいれば誠が傷つく。例え、彼がそのことを知らなくても、これ以上彼が悲しむことをしたら、自分が許せなくなる。
しかし、そのメッセ―ジには続きがあった。最後まで読んで、私は心臓が止まったかと思うほどの衝撃を受けた。思わず布団を払いのけた。止まったかと思った心臓は、ばくばくと音を立てていた。手が震えた。呼吸が苦しくなった。水道に走り、蛇口から直接水を飲んだ。夜の匂いが、開いた窓から漂っていた。
『藍の親御さんから連絡があった。彼の新しい遺書が見つかったらしい』
二○一三年 冬
「ねえ、優は藍にバレンタインチョコあげないの?」
年が明け、慌ただしく二月を迎えたある日、友人の一人が私に言った。どくん、と胸が鳴った。バレンタインデーなど、私は今まで意識したことがなかった。
「どうして」
「好きなんじゃないの、藍のこと」
「藍くんのことは、皆好きでしょ」
「もー、優は鈍いなあ」
彼女は笑った。
「あいつの彼女になりたくないのか、って話だよ」
彼女。そんな言葉は、私にとって遠い国の見知らぬ単語に等しかった。その慣れない響きに、私は絵に描いたように動揺してしまった。可愛いなあ、優は、と彼女はまた笑った。
「あげなよ、チョコ。きっとあいつ喜ぶよ」
私と彼が時々二人で会っていることは、誰も知らなかった。けれど、私が彼ばかり見つめていることは、よく指摘された。自分でも気づいてはいたけれど、どうしようもなかった。呼吸をするように、自然に彼の姿を目で追ってしまう。そんな自分に、内心戸惑っていた。
バレンタインデーには、好きな人にチョコレートをあげる。そんなイベントに自分が関わることなどないと思っていた。けれど、その日が近づくにつれ、私は落ち着きを失っていった。彼の彼女になりたい、という思い上がった願いが私の中にあったわけではない。いや、私がそういう表現を認めたくなかっただけで、その時私が彼に抱いていた感情は、皆の言葉を借りればそういう願いで合っていたのかもしれない。
私は、彼と河原で話すあの時間がずっと続くことを願っていたのだった。季節が移り変わっても、これからもああして彼と二人で「心の会話」をしていたかった。彼のそばで、彼の瞳が何を見ているのか、彼が何を考えているのか、彼が纏う空気を感じながら、そんなことを考える時間が、私にとってはとても大切な時間になっていた。
それは、彼を私だけのものにしたい、ということと同義なのだろうか。
考えているうちに、せっかちなバレンタインデーがやって来た。私は結局、友人に勧められた手作りチョコなどというものは作らなかった。けれど密かに、家の近くのケーキ屋さんで小さなチョコレートを買っていた。彼に渡そう、と決意して買ったわけではなかった。ただ、「もしかしたら渡すこともあるかもしれない」と、自分自身に照れ隠しをするように、こっそりと買って学校に持って行った。
その日は一日中中落ち着かなかった。クラスのあいつがあいつに告ったらしい、という話を、私は上の空で聞いていた。
結局、彼に渡さないまま帰路に着いたとき、思わず溜息がこぼれた。安堵。これは安堵なのだ、と必死に言い聞かせている自分にいらいらした。こんな風に感情に左右されるなんて、私らしくもない。ちらちら舞い始めた雪が、私を横目に地面に降りていった。
「若月さん」
電車のホームで声をかけられた時は、息が止まるかと思った。粉雪を振りかけられた彼が、隣で微笑んでいた。私は咄嗟に、持っていた紙袋を隠した。
「雪降り始めたね」
彼はそう言って、マフラーを巻き直した。彼と二人で電車に乗るなんて、もう何度もしていることなのに、いつもよりも脈が速く、顔が熱かった。
「藍くんは、チョコいくつもらった?」
私はいつもと違う自分を悟られまいと必死で、茶化したように彼に言った。藍くんもてるでしょ、虫歯に気をつけるんだよ、などと言葉を重ねた。彼は少し笑って答えた。
「一つも受け取ってないよ」
受け取ってない。それは、彼にチョコを渡そうとした人は何人かいたけれど、それを貰わなかった、というニュアンスだろうか。私は聞きたかったが、そんなことを聞いたらまるで嫉妬みたいだ、と思い、口をつぐんだ。
「僕はチョコなんて貰って良い人間じゃないんだ」
ふ、と彼が言った言葉にはっとして私が彼を見ると、彼を纏う空気が変わっているのが分かった。その言葉の真意をはかりかねているうちに、電車が私たちの前に止まった。彼はすぐに元に戻り、今日は混んでるなあ、と言いながら電車に乗り込んだ。私もその後に続いた。
「若月さんは誰かに渡したの?」
彼は尋ねた。私は一瞬言葉に詰まったけれど、
「誰にも」
と答えることに成功した。
いつも通り彼の後ろ姿を見送った後、私は隠していた紙袋から、チョコレートを取り出した。繊細な模様が描かれた、綺麗なビターチョコレート。私はそれをぽり、と囓った。少し、苦いな。ぽり、ぽり、少しずつ囓り、降りる駅に着く頃には全部無くなっていた。電車を降りると少し気持ちが悪くて、ああ、一気に食べ過ぎたな、と後悔した。舌に残った苦さは、随分長い時間消えてくれなかった。
彼が誰からもチョコレートを受け取らなかった理由は、結局分からないままだった。彼が何を考えて生きているのかは、私がどれほど考えても分からなかった。
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