第15話

二○一六年 春



 

 駅前のイタリアン・バーで、私は文一と待ち合わせた。私服姿の彼はとても新鮮で、一瞬別人に見えた。急にごめんね、と彼は言った。大丈夫、と私は答え、二人で中に入った。

 中はカジュアルな雰囲気で、ワインのボトルがずらりと並んでいた。「Bar Yoru」と比べると大分広く、耳にしたことのある洋楽が流れていた。彼は赤を、私はロゼを注文した。

 「彼」についての話を、私たちは中々持ち出すことが出来なかった。チーズをつまみながら、お互いグラスを空けたところで、ようやく文一が切り出した。

「あいつの遺書の話なんだけど」

 遺書、という言葉に、どくん、と心臓が鳴った。 

「あいつの親御さんから、俺のところに連絡が来たんだ。何でも、引っ越すことになったそうで、最近あいつの部屋を整理し始めたらしい。その時に、引き出しの奥に隠れていた遺書が見つかったそうだ。あの時の遺書よりも、何て言うか、もっと個人的な遺書らしい」

「個人的な、遺書」

「手紙、だそうだ。それも、その」

 彼は少し躊躇いがちに言った。

「優への」

 がちゃん、と音を立てて、右手に持っていたグラスが床に落ちた。その音が遠くで聞こえた。店員さんが慌ただしくやって来て、大丈夫ですか、と言っている。文一が、すみません、ありがとうございます、と答えている。そのすべてが、私には隔てられた場所、まるでスクリーンの向こうで起こっていることのように感じられた。

 藍くんが、私に手紙を遺していた?

 藍くんのそばにいる幸せを一人で勝手に味わっておきながら、彼の苦しみには何も気づくことが出来なかった、この私に?

「優、大丈夫か」

 文一の声で我に返った。それでも私の意識は、どこか遠くにあるような気がした。

「藍の親御さん、優に連絡しようとしたんだって。でも、あいつが死んだ後優がどういう状態だったか知っているから、直接連絡する前に、俺に連絡をくれたんだ。俺の口から話した方が、優の衝撃は和らげられるかもしれないって」

 私は黙って、呼吸を落ち着ける努力をしながら文一の言葉に耳を傾けた。

「もし優がよければ、その手紙を渡したいそうだ。来週の休日とか。優に宛てたものだから、親御さんは自分たちでは開けられないと言ってる。もちろん、優を苦しめるつもりはないし、無理しなくてもいい。ただ、あいつが伝えたかったことが、何かわかるかもしれない。だから」

「行く」

 私は答えた。

「受け取りに、行く」

 彼は私をしばらく見つめた後、わかった、と頷いた。

「藍の親御さんの連絡先、教えとく」

 携帯を持つ手が震えているのが自分でも分かった。けれど、受け取らなければいけない、と思った。彼が私に伝えたかったのはどんなことだったのか、最期まで分からなかったその答えを、私は知りたいと思った。それが私に出来る、彼への償いだと思った。

「あまり、思い詰めるなよ」

 店を出る時、文一は言った。

「藍も、優が苦しむことは望んでいないと思うから」

 ありがとう、と私は答えた。そして、まっすぐ文一の目を見つめて言った。

「大丈夫。藍くんが抱えていたことが分かるなら」

 今日はありがとう、じゃあね、私は彼に背を向けた。と同時に、肩をぐいと掴まれた。

「ふみか」

 私の言葉は彼の唇に塞がれた。一瞬のことだった。彼はすぐに唇を離した。その顔は、微笑んでいるようでもあり、泣いているようでもあった。

「行ってらっしゃい、優」

 そう言って彼は、人工的な光の中に消えていった。

 私はその後ろ姿を眺めながら、唇に手を当てた。温かく、湿っていた。今のキスは、何を伝えたかったのだろう。それを受けることは、許されることだったのだろうか。私はその場に立ち尽くした。このままここにいれば、いずれ消えていくネオンの灯りと共に、私も消えていけるのだろうか、とぼんやり考えていた。

 



 二○一三年 春、そしてあの夏




 気づくと私は高校二年生になっていた。

 毎日は特に変わったこともなく過ぎた。授業を受け、グループの皆と遊び、本を読みながら電車に乗り、時々藍くんと河原で会う。それが私の日常だった。私には似つかわしくないほど、穏やかな毎日だった。

 藍と付き合わないのか、という問いには、付き合わない、と答えていたけれど、藍と付き合いたくないのか、という問いには言葉を詰まらせてしまうことが多かった。付き合いたいと言っても、付き合いたくないと言っても、何かが違う気がした。

「もう高校二年生だって。青春も大分過ぎちゃったね」

 ある日の夕方、河原で彼といる時、私はふと口にした。そうだね、と答える彼の前髪が、風にゆらゆらと揺れていた。

「青春の後には、何があるんだろうね」 

 彼はぽつりと言った。

「人生青春、なんて言う人もいるけどね」

 私もぽつりと答えた。 

 しばらく、お互い何も言わない時間が流れた。彼との沈黙に気まずさはなく、寧ろ永遠に続いてもいいと思える何か不思議なものがあった。私は夕空を眺めながら、大分日が長くなったな、と思った。また、夏が来る。

「僕がやってみたい冒険の話をしていいかな」

 彼は言った。私は頷き、彼の次の言葉を待った。

「悪いことかもしれないけれど」

 彼の口調は穏やかだった。

「夜、家を抜け出して駆け落ちする。遠く、誰も僕たちを知らない町へ行く。そこでお酒を飲む。その夜は家には帰らない。二人きりで夜を過ごす。僕たちはその夜だけは二十歳で、どこにでも行けるし何でも出来る」

 彼は不意に、私の方に向き直った。

「若月さん、駆け落ちの相手になってくれって言われたら、なってくれる?」

 彼の瞳は真剣だった。その瞳にはしっかりと、動揺している私の顔が映っていた。彼の話は、とてもロマンチックで、あまりにも非日常な気がした。少し怖くもあり、ひどく輝きを帯びていた。胸の高鳴りの原因が、興奮なのか不安なのか恐怖なのか嬉しさなのか、私には判断が出来なかった。

「いいよ」

 気づくと私は頷いていた。

「その冒険、乗った」

 彼は微笑んだ。柔らかくて、壊れてしまいそうな笑顔。彼は静かな声で、ありがとう、と言った。

「どうせなら、とびきりロマンチックにしてやろうよ」

 私は変に茶化して見せた。

「下駄箱の中に、今夜どこで会おう、みたいな手紙を入れるとか。親には一切何も伝えずに飛び出すとか」

「大胆なこと言うね、若月さんは」

 彼は笑った。でも、いいかもね、と言いながら。

「じゃあ、僕は忘れた頃に、若月さんに冒険の誘いの手紙を出すよ」

「こんなこと、忘れられるかな」

「案外、ふと忘れちゃうものだよ」

「ううん、忘れないよ」

 むきになったように私は言った。そっか、と彼はまた笑った。

「じゃあ、その時まで楽しみに待ってて」

 幸せと言う言葉が何を定義するのか、私には分からないけれど。確かにこの時私が感じたのは、「幸せ」だった、と思う。多くのことは考えなかった。彼が本心から言っているのか、本当にそんなことが出来るのか、許されるのか。けれど、そんなことはどうでも良かった。彼と一緒に、未来の約束をした。二人だけの、あまりに幻想的で美しい約束を。その事実だけで、十分だった。夕焼けがいつもより輝いて見えた。向こう岸を歩く中学生のカップルや、ランドセルを光らせながら走って行く小学生や、夕空に影絵を作っているカラスたち、目に映る何もかもが愛しかった。私はどこにでも行ける気がした。それは、どこにも行けないということと同義だった。けれどそんなことはどうでも良かった。彼と一緒にいられるなら。

 私と彼は指切りをした。彼の指の感触を、私は今も鮮明に覚えている。


 そして彼が、約束通り私の下駄箱に手紙を入れたのは、一学期の終業式の日のことだった。


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