第16話

二○一六年 春




 土曜日は朝から雨が降っていた。

 講義の日よりも私は早起きして、きちんとした服装をして家を出た。人の少ない駅で新幹線の切符と箱に入った銘菓を買う。地元に帰るのはかなり久々だった。ましてや、あの駅で降りるのなんて、一体いつぶりだろう。数年前のことなのに、途方もなく遠い場所に来てしまったような気がするのは何故だろう。

 数時間新幹線に揺られ、目を覚ますと見覚えのある駅に着いていた。ここから電車で三十分。彼の家の最寄り駅だ。

 時刻は正午に近かった。朝から何も食べていないのに、全くお腹がすかなかった。駅を降り、深呼吸すると、懐かしい匂いが鼻につんと染みた。

 駅から彼の家に向かって歩きながら、景色が少しずつ変わっていることに気がついた。薬局だった建物がコンビニになっていたり、建設途中だった家が完成していたり。いつも前を通ると吠えてきた犬はいなくなっていて、よく見かけた野良猫には出会わなかった。

 何かが大きく変わった訳ではないのに、決定的な何かが変わってしまったような気がした。景色の中にはあちこちに思い出の破片が散りばめられていて、あのころの私たちの気配がまだ残っているような気がした。それでも、時は確かに進んでいて、私と彼が過ごした日々は過去になっていた。彼と二人で歩いた道を一人で歩きながら、私だけがあの頃のままのような気がした。景色が怪訝そうに、あるいは懐かしそうに、私を眺めている、と感じた。

 彼の家は、あの頃と同じ場所にちゃんとあった。深海という表札も、彼の乗っていた自転車も。私が彼の家に来るのは二度目だった。高校一年生の夏、お見舞いに来た時以来。私は不意に、あの頃の私が今の私の意識を乗っ取ったような感覚に襲われた。私は今から、彼のお見舞いに行くのだ。彼は今日熱を出していて、私は皆からお菓子を預かっていて――。

 そんなはずは、なかった。家の中から出てきた、記憶よりも少し年を取った彼のお母さんは、私を見て少し微笑んで言った。

「来てくれてありがとう。きっとあの子、喜んでると思うわ」




 二○一三年 夏




 その夜、私はいつもより早めに食事と風呂を済ませた。母親は夜勤で家におらず、私は初めてそれを寂しいと感じなかった。

 普段乗らない時間の電車に乗った。ちらほらと降りてくる、疲れた顔をしたサラリーマンや学生を横目に、私は終点まで行く切符を買った。鼓動がいつもよりも駆け足なのがわかった。なけなしのお小遣いをすべて入れた財布を握りしめて、私は車窓から見える闇を眺めた。

 彼の最寄り駅から乗ってきたのは、彼一人だった。彼は私の姿を見つけると、少年のようなはにかみを浮かべて歩いてきた。

「本当に来てくれたんだね」

「約束は破らない主義だから」

 私たちは顔を見合わせて、こっそり笑った。共犯者。その言葉が、今の私たちによく当てはまる気がした。

 普段降りる駅を過ぎ、映画館のある駅を過ぎ、乗客がすっかり減った頃、終点の駅に着いた。私たちはそこから更にバスに乗った。遠く、もっと遠くへ。何かから逃れるように、何かに背中を押されるように、私たちはひたすら遠くを目指した。

 夜の色が濃くなっていくにつれ、私も彼も口数が少なくなった。私は彼の横顔を盗み見た。彼は夜と同じ空気を纏い、藍色の瞳を藍色の景色に向けていた。

 バスの終着駅に着いた時には、もう十時を回っていた。生ぬるい夜風が肌を撫でる。私たちが住んでいる場所よりも少し都会のその町は、不思議そうな顔で若い侵入者を見つめていた。

「お酒を買おう」

 彼は言った。私たちは閉店時間間近のスーパーに入った。未成年なのにお酒買えるのかな、と呟く私に彼は、飲み慣れてる雰囲気を出せば大丈夫だよ、と言った。その後、僕も買ったことないけどね、と付け足した。

 彼はジンとトニックウォーターを選んだ。私はその時、ジン・トニックというお酒を知らなかった。慣れてるように見えるでしょ、と彼は私に囁いた。彼の纏う雰囲気が大人びていたこともあってか、私たちは年齢確認をされずにお酒を買うことが出来た。

 外に出て、私たちは「泊まる所」を探した。場所はどこでもいい、この時間から、若い男女二人を黙って止めてくれるような所。夜になっても光が溢れている方向へ、私たちは歩いて行った。

 彼は不意に、私の手を握った。彼と手を繋いだのは、この時が初めてだった。私は何も言えなかった。彼の手はひんやりと冷たかった。私はぎゅっとその手を握り返し、彼もしっかり私の手を握って離さなかった。

 私たちが辿り着いたのは、繁華街から少し離れた所に佇む、古いラブホテルだった。こういう所に入るの初めて、と呟く私に、僕もだよ、と彼は答えた。彼は私の方を見た。私は黙って頷いた。彼はゆっくりと、扉を押した。

 受付にはおばさんが一人、気だるげな顔をして座っていた。彼が大人二名、一泊で、と言うと、おばさんは黙って鍵を差し出し、エレベーターを指で示した。私たちはエレベーターに乗り込み、ほっとしたように顔を見合わせて笑った。隠れていたずらをする時の、幼い感覚に似たものを感じた。不安も大きかったが、それを越えるくらい、私はこの状況にわくわくしていた。

 部屋はこぢんまりとしていた。大きなベッドが一つ、テーブルが一つ、椅子が二つ。目立つ家具はそれくらいだった。小さなシャンデリアが申し訳なさそうに、それでもムードを出そうと頑張っていた。窓からは灯りの消えたビルと、それに切り取られた夜の闇が見えた。

 部屋に入ると、張り詰めた糸が切れたように、ふう、と力が抜けるのが分かった。彼も、少しほっとしたように椅子に腰を下ろした。

 もう夜は大分深かった。昼間、教室で夏期講習の説明を受けていたのが信じられないくらい、遠い所にきてしまったな、と感じた。

 私たちは順番にシャワーを浴びた。まず私、その次に彼。熱いお湯を浴びながら、これからどうなるのだろう、と思った。彼はどうするつもりなのだろう、私はどうしたら良いのだろう。冷静に考えると、私たちは突拍子もないことをしている。もしかしたら、全部夢なのではないかとさえ思えた。

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