第17話
ホテルに備え付けられていたネグリジェは、私の身体には少し大きかった。彼が着たパジャマは彼の身体にぴったり合っていたので、私は自分だけが子供っぽく見えて少し恥ずかしかった。
ジン・トニックを飲もう、と彼は言った。冷蔵庫に入っていた冷えたグラスを取り出し、彼は透明な液体を二つ混ぜてその中に入れた。作ったことあるの、と私が尋ねると、どこかの本で見ただけ、と彼は笑った。
私も彼も、お酒を飲むのは初めてだった。乾杯、とグラスを合わせ、同時に一口飲んだ。今まで感じたことのない、ぴりぴりする苦みが口の中に広がった。飲み込むと喉がきゅっとなり、液体が流れた所が熱くなった。ほんの少し甘い香りが鼻からぬけた。
「こんな味なんだ、お酒って」
呟くように私は言った。彼は舌を出しながら、少し刺激が強いね、と言って笑った。私たちはちびちびとその液体を飲んだ。部屋が暑かったので窓を開けると、夜の匂いが狭い部屋をすぐに満たしてしまった。ジン・トニックは、夜の匂いと一緒に味わう方が美味しい、と思った。
私はグラス越しに、何度も彼に目をやった。夜を映し出した窓を背景にし、ゆっくりとグラスを傾ける姿は、昔どこかで見た外国の絵画のようだった。柔らかそうな髪は月光に照らされ、確かに目の前にいるのに、手を伸ばしたら掴めないのではないかと思うほどの透明感が漂っていた。
「今日は月が眩しいね」
彼はぽつりと言った。私たちは灯りをつけていなかったが、窓から差し込む月光だけで十分明るかった。その方が幻想的で良いな、と思ったけれど、気恥ずかしくて何も言わなかった。
時刻は零時を回ろうとしていた。アルコールのせいか、慣れないことをした疲れのせいか、少し世界が揺らいでいた。
「眠い?」
彼は尋ねた。彼の瞳は夜と同じ色をしていて、そのまま夜に溶けていってしまうのではないかと感じた。
「寝るのがもったいない、気がする」
私は言った。言ってから、変な意味に捉えられないか不安になった。けれど彼は優しく微笑んでくれた。
「じゃあ、横になって話そうか」
私たちはジン・トニックをグラス半分残したまま、ベッドに入った。私は少し躊躇した。男女でベッドに入る、なんて。彼が「そういうこと」をするとは思えなかったし、私もそれを望んでいるわけではなかったけれど、状況が状況なだけに、私の心臓は変に駆け足になった。
彼は特に動揺している様子は見せなかった。パジャマを着たままベッドの中に身体を入れて、隣を私のために開けてくれた。私は少し躊躇った後、ゆっくりとそこに身体を入れた。
意図しなくても、彼の身体と触れる距離。少し動く度に、彼の体温が私の身体に直接伝わってくるのがわかった。彼の匂いと夜の匂いが混ざり合って私の鼻をくすぐった。彼の方に身体を向けると、喉仏と綺麗な首筋が見えた。彼は夜の方をじっと見つめていて、時折長いまつげが瞬きと共に動いていた。
なんて美しいのだろう。私は恥じらいも忘れて、彼の横顔に魅入った。微かに触れている肌を通して、私の鼓動の音が伝わらないか心配だった。私たちだけが、世界の片隅に取り残されてしまったかのように感じた。それこそ、いつか河原で話した、世界の終わりを二人きりで待っているようだった。
彼はその夜、いつもよりもよく喋った。私は彼の言葉一つ一つに、静かに耳を傾けていた。彼の言葉は、優しさと哀しみと、幾分かの危うさを帯びていた。私はそれらを一つも逃すまいとした。そうしていれば、今にも夜に溶けて消えてしまいそうな彼を繋ぎ止めておける気がした。
どれくらい時が経っただろう。そろそろ夜の色が薄くなり始めた頃、彼は不意に言った。
「若月さんは、キスをしたことある?」
私は少し間を置いて、ない、と答えた。
彼は、私の方に身体を向けた。私の重くなり始めていた瞼は、急にはっと開かれた。
「したいと、思う?」
私は彼の瞳をじっと見つめた。心臓が破けて、中から彼への思いが洪水のように流れ出してしまいそうだった。目を逸らそうとしたが、出来なかった。彼の瞳はあまりに美しくて、私を逃してはくれなかった。
「人にも、よるかもしれないけれど」
声は掠れていた。けれど、私は続けて言った。
「藍くんとなら、してもいい、と思う」
これが、私の精一杯だった。今すぐ気を失ってしまえたらどんなに楽だろう、と思った。私たちは随分長い間、黙ったまま見つめ合っていた。時が止まったかのようだったし、止まったままでも良いと思った。夜だけが私たちの目撃者だった。
彼はゆっくりと口を開いた。
「若月さん、一度だけ、下の名前で呼んでもいい?」
唐突だった。私は頷き、いいよ、と答えた。
彼の唇が少し震えているのがわかった。それでも彼は視線をまっすぐ私に向けていた。彼は私の名前を口にした。ゆっくりと、噛みしめるように、何かを確かめるように。
「優」
自分の名前を聞いて、こんなに心地良い感覚を覚えたのは初めてだった。何千回と呼ばれたはずのその名は、ひどく神秘的な響きで空間を漂った。消えないで、と私は願った。この響きをこのまま、結晶のように固めてしまえたらどんなに綺麗だろうと思った。
「藍」
彼の言葉に答えるように、私は彼の名を呼んだ。彼は私をじっと見つめ、そして微笑んだ。
「ありがとう、それだけで十分だよ」
寝ようか、彼は言った。私は夢なのか現実なのか分からない、ふわふわした感覚に浸ったまま、うん、と頷いた。私たちは毛布を被り直した。東の空がじんわりと明るさを滲ませていた。
「寒くない?」
彼は聞いた。私は黙って頷いた。
身体が熱かった。いつの間にか涼しくなった風が心地よかった。夜の匂いはいつしか朝の匂いに変わりかけていた。眠れない、と思ったのも束の間、気づくと私は寝息を立てていた。
目を覚ますと、明るい日差しが部屋に差し込んでいた。彼は既に起きていて、おはよう、とわたしに微笑んだ。
「もう、帰らなきゃね」
「そうだね」
私たちは十時にホテルを出た。コンビニで珈琲とサンドイッチを買い、昨日と比べて随分人の多いバスに乗り、電車に乗った。今日から夏期講習だね、一日目からサボっちゃったね、彼は笑った。彼の纏う空気は、もう夜の色をしていなかった。そうだね、と私は笑った。彼の髪には寝癖がついていて、電車の揺れと共にぴょこぴょこ揺れていた。
彼の最寄り駅に着いた。彼は、放課後別れるときのように、微笑んで片手を上げた。
「じゃあね、若月さん」
私もいつも通り、答えた。
「じゃあね、藍くん」
彼は電車を降りた。私はいつも通り、彼の後ろ姿を見送った。しかし彼はこの日、いつものようにもう一度振り返って手を振らなかった。
彼が自殺したのは、その日の夜のことだった。
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