第18話

二○一六年 春




 彼の家の中に入るのは初めてだった。クリーム色を基調とした、穏やかな雰囲気の家で、綺麗に整頓されていた。通されたリビングもきっちりと掃除がされていて、無駄なものが何もない。生活感が薄い、とさえ感じた。

 彼のお母さんに、買ってきたお菓子を渡した。あらあら、わざわざありがとう、と彼女はそれを受け取った。出されたケーキと紅茶はとても美味しそうだったが、一口も食べられる気がしなかった。

「今日は遠いところから、わざわざありがとうね」

 彼女は私の向かいに座り、申し訳なさそうな微笑みを浮かべた。それは彼の寂しそうな微笑みとそっくりで、私は少しどきりとした。

 彼女は、しばらく当たり障りのないことを話していた。私の今住んでいる場所のこと、大学のこと、新しい引っ越し先のこと。私は終始落ち着かなかったが、平静でいる努力をした。あんなに近くにいた頃は来たこともなかった彼の家に、遠く離れてしまった今、自分がいるのはとても変な気がした。

「あの子の部屋に、行きましょうか」

 私がケーキに手をつけるつもりがないのを見て、彼女は言った。大分片付けてしまったけれど、それでも良かったら。私は頷いた。彼の部屋。きっと彼が長い間過ごし、色々なことを考えていたであろう、部屋。

 私は彼女の後について、階段を上がった。二階に入ってすぐの所に、彼の部屋はあった。

「お邪魔します」

 私は彼女に、そして彼に向かって言った。

 部屋の中は確かに既に片付けが始まっているようだったが、それでもまだ部屋としての形は残っていた。勉強机とベッド、本や漫画の並んだ本棚。男性の部屋、という場所に入ったのは初めてだったが、こんなにこざっぱりしているものなのか、と思った。整理したからなのか、元々なのかは分からないが、あまりに片付きすぎていて、それこそ生活感が感じられなかった。いや、もう彼はここで生活してはいないのだけれど。

「あの子ね、趣味らしい趣味がなかったのよ。部屋にも必要最低限のものしか置いていなくて。少し片付けはしたけど、元々こんな感じだったのよ」

 私の心を見透かしたように、彼女は言った。確かに、彼から「特別これが好き」という話を聞いたことはなかった。彼はどんなグループのどんな話にも入っていけたけれど、それは彼のコミュニケ―ション能力が高かった、そして彼が周りの空気を読んで場をうまく運ばせていたからだったのかもしれない、と思った。彼の纏う寂しげな空気を思った。彼は誰とでも馴染むのに、いつも一人だったのかもしれない。

「これ、あの子の机の引き出しの奥から見つかったの」

 その言葉で、私は我に返った。彼の母親が、私に白い封筒を差し出していた。そこには紛れもない彼の字で、「若月優さんへ」と書かれていた。

「貴方に、あの子が遺したものよ」

 私は震える手で、それを受け取った。彼女は心配そうに私を見て、辛かったら、無理しなくて良いのよと言った。

「大丈夫です」

 声が震えないように努めた。私はゆっくりと、ずっと隠れていた彼の手紙を開いた。




 二○一三年 夏




 彼が死んだことを私が知ったのは、彼と別れた翌日のことだった。まだ、彼に手を振ってから二十四時間も経っていなかった。

 夏期講習二日目の朝だった。友人たちに、昨日サボっただろ、藍と二人で、と冷やかされた。たまたまだよ、と私は笑って返した。夏休みの教室はいつもより少し温度が高かった。あいつ、今日もサボりかな、という友人の言葉に彼の席に目をやると、彼の姿はそこにはなかった。

 一コマ目は数学の予定だった。けれど、教室に入ってきたのは数学の教師ではなく、張り詰めた顔をした担任と、難しい顔をした教頭だった。不吉な空気が教室に流れた。私は嫌な胸騒ぎを覚えた。

「深海藍くんが亡くなりました」

 その言葉は、今も私の耳にこびりついて離れない。

 私は咄嗟に、言葉の意味を理解することが出来なかった。ざわめき出すクラスの空気、震える声で静かにと注意する担任の声、そのすべての外側に私はいた。世界が一瞬固まり、そしてゆっくりと、がらがら音を立てて崩れていくのが分かった。藍くんが死んだ、あいくんがしんだ、アイクンガシンダ?

 嘘だ、これは夢だ、だって昨日まで私は彼と一緒にいたじゃないか。ちゃんと、彼の体温は温かかった。ジン・トニックを飲んだ。彼は私の名前を呼んだ。夏期講習、明日から頑張らないとねと言った私に、そうだねと答えてくれた。

 分からない、分からない、分からない。何が何だか、私には分からなかった。遠くのほうで、教頭の声が聞こえた。

「今朝、彼が自宅近くの川の中で倒れているのが発見されました。もう既に身体は冷たかったそうです。彼の部屋から遺書が見つかりました。自殺だったようです」

 ぐにゃん、と世界が歪んだ。世界の色がぐしゃぐしゃに混ざり合い、奇妙な色合いになってどろどろと溶けた。がたん、という音が聞こえた。何人もが私の名前を呼んでいた。けれど、その中に彼の声はなかった。遠のいていく意識の中で、昨日彼と別れたとき、どうして「また明日」と言わなかったのだろう、とぼんやり考えていた。




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