第19話

 彼の遺書はひどく簡素なものだった。

『今まで育ててくれた両親、そばにいてくれた友人達、お世話になった先生方、僕とか関わってくださったすべての方々に、感謝しています。そして、ごめんなさい』

 それだけ書かれた紙が、彼の勉強机の上に置いてあったという。

 彼が川に入ったと推定されるのは午後十一時。発見されたのは翌日の早朝五時だった。彼の身体は冷たくなっていたが、顔つきは穏やかで、まるで昼寝でもしているみたいだった、と第一発見者のおばさんは語ったらしい。

 彼の葬儀は親族だけでひっそりと行われた。クラスメートは一人一枚彼に手紙を書くよう言われた。真夏だというのに教室の温度は低く、すすり泣く声があちこちから聞こえた。皆、彼にどんな言葉を送るのだろう。ありがとう、楽しかった、何も気づいてあげられなくてごめん。そんなありきたりな言葉が、死んでしまった彼にとって何になるのだろう。彼にはどんな言葉が必要だったのだろう。あの瞳で、彼は何を見て、何を考えていたのだろう。そばにいたと感じていたのは私だけで、彼は本当はずっと遠くにいたのかもしれない。

 私は白紙で手紙を出した。どんな言葉も薄っぺらくて、彼にかけるものではないような気がした。

 彼がいなくなってから、クラスの雰囲気は暗く、ひどく湿っぽくなった。夏期講習は一週間ほどだったが、どの教科の先生も、どういう調子で授業を行えば良いのか分からない様子だった。授業中すすり泣きが聞こえてきても、誰もそれを咎めたりはしなかった。彼の机には味気ない花が飾られ、それが逆に彼が死んだことを強調させていた。

 彼が亡くなる前夜、私が彼と一緒にいたことは誰にも知られなかった。聞かれなかったから私は黙っていたし、知られたくないという思いもあった。あの夜は、私と彼の二人だけのものだと思いたかった。なんてわがままなのだろう。私は自分のことしか考えていなかったのだ。だから、彼を救うことができなかった。彼は確かに、私の隣にいたのに。

 私はしばらくの間泣かなかった。彼の死を聞いたときも、クラスメートから彼との関係を聞かれた時も、誰かが泣いているのを見た時も、全校集会が開かれた時も。堪えていたわけではなく、ただ泣き方を忘れてしまったかのように。

 私は休むことなく学校に通い続けた。気遣う友人たちに、私は平気だよと笑ってみせ、授業を受け、もう彼が乗り込んでくることのない電車に乗った。もう、休日の夕方に河原に行くこともなくなった。

 時間はゆっくりと、しかし確実に、彼の自殺を過去にしていった。教室の空気はいつしか元の温度を取り戻し、笑い声が増え、教師達もいつもの調子を取り戻していった。彼の名が呼ばれることは減り、皆それぞれの日常を取り戻していった。

 それが、私には耐えられなかった。

 彼の存在が薄くなっていくことが、彼が思い出になっていくのが怖かった。彼のいない教室には圧倒的な何かが欠落しているのに、毎日が元通りに流れていくことが怖かった。そのうち、彼の微笑み方も、あの瞳の色も、私を呼ぶ声も、全部全部忘れてしまうのではないか、そう思うと、私は狂いそうになった。毎朝起きる度に、彼の一つ一つを思い浮かべた。そのうちに、思い出せることが減っていくかもしれない恐怖に襲われた。私は布団の中で一人、声を押し殺して泣いた。彼がいなくなったことよりも、彼を忘れていってしまうことの方が悲しかった。

 月日は流れた。私は段々、人との接触を避けるようになった。グループの皆から距離を置くようになり、学校をしばしば休むようになった。私は自分の中の時間を、進めたくはなかった。部屋にかかったカレンダーは、七月のまま変えることが出来なかった。

 後悔、寂しさ、哀しさ、やり切れなさ。どんな感情の名前も、私には当てはまらない気がした。何度も同じ夢を見た。あの夜の夢。あの時一度だけ彼が呼んでくれた、私の名前。夢の中でどれほど手を伸ばしても、彼に触れることは出来なかった。この夢を見た朝は、決まって涙を流していた。

 愛していたのだ、と私は今更気づいた。彼のことを愛していた。そばにいたかった。触れていたかった。彼の言葉に耳を傾けていたかった。最期まで、彼に好きだと伝えることは出来なかった。

 彼をあの夏に置き去りにしたまま、私たちは高校三年生になった。私は、始業式に参加しなかった。桜が嫌になるほど綺麗で、止まってくれない季節が憎くて、私は一人、部屋の中で泣いた。




二○一六年 春




『拝啓若月優さん

 

 僕は今、河原でこの手紙を書いています。

 誰かに手紙を書くなんて、初めてのような気がします。

 この手紙は若月さんの所に届くのか、届くとしたら何年後になるのか、永遠に届かないままなのか、今の僕にはわかりません。でも、僕が最期に何かを話したいと思った人が、若月さんでした。だから、勝手にこうして手紙を書いています。僕のわがままです。ごめんなさい。

 もしかしたら、これが僕にとっての本当の遺書なのかもしれません。

 僕には秘密がありました。誰にも、親にも話したことがありません。ここでなら、言える気がしました。

 僕は、人を愛することが出来ない人間でした。生まれてから一度も、人を愛することが出来ませんでした。

 無性愛、という言葉があるそうですが、そういう学術的なことは僕にはわかりません。ただ分かることは、恋愛感情だとか愛情だとか、そういった所謂「愛」と呼ばれるものが、僕には全く分からなかった、ということです。

 両親は僕を大切に育ててくれたし、友人も素敵な人ばかりでした。けれど、周りからの愛を感じれば感じるほど、自分がそれを周りに与えられないことを実感しました。僕は女性に対しても男性に対しても、愛という感情を持つことが出来ませんでした。両親のことも友人のことも大切でしたが、それは愛とはまた違った感情でした。そうやって周りの人と付き合うことが、生きる上で義務なのだと思っていました。

 人を愛せない僕は、人間として大事なものが大きく欠けていたので、それを埋め合わせるには、周りに迷惑をかけないように、そして何かしらの利益を与えられるような人間でいなければならないと思っていました。そうでなければ、僕は生きることを許されない気がしました。

 時々、ひどい虚無感に襲われることがありました。道端で寄り添い合う恋人や、夕方手を繋いで歩く親子を目にした時など、僕は自分の心が氷のように冷えていくのを感じました。僕は一生、「ああいう」ことは出来ない。僕のことを好きだと言ってくれる人がいても、僕は一生それに応えられない。愛を「知らない」のではなく、愛が「永遠に分からない」僕は、これから先誰のことも幸せには出来ない。年を重ねるごとに、その思いは強くなりました。皆で恋愛藩話をしているなど、不意に消えてしまいたくなることがよくありました。

 僕の心はいつも、周りから離れたところにありました。しかしそんなことは、周りには知られてはいけないことでした。

 けれど、若月さんには、きっとばれていました。

 皆の中にいる僕とは違う僕に、若月さんは気がついていたのだと思います。

 僕が若月さんの瞳を見ると、そこに映る僕は、皆に隠していた「僕」の顔をしていました。若月さんはそんな僕を見ても、何も言いませんでした。ただ、そんな「僕」を見つめ返してくれました。僕はそれに安心してしまい、若月さんの前では普段の僕らしくない姿を見せてしまいました。どこかで、誰かに知って欲しかったのかもしれません。

 僕が突然持ち出した変な計画に、若月さんが乗ってくれた時。嬉しかったけれど、内心とても焦っていました。僕は何をしているのだろう。けれど、死ぬ前に一度だけ、羽目を外してみたかったのです。

 昨日のことを今思い返すと、本当に夢でも見ていたような、不思議な感覚に陥ります。でも確かに僕の隣には若月さんがいて、一緒にお酒を飲んで、夜空を眺めながらお話をしました。僕は最期まで、若月さんにキスをすることは出来ませんでした。若月さんの唇はすごく繊細で、僕なんかのかさついた唇が触れたら壊れてしまう気がしました。誰のことも愛せない人間からのキスの味なんて、感じさせたくなかった。それなのにどうして、キスしようとしたのか、自分でもよく分かりません。あんな行為をしてしまって、本当にごめんなさい。でもあの時、若月さんにキスをしたいと思ったのは、紛れもなく僕の本心でした。

 僕は若月さんの名前がとても好きです。一度、僕の声で呼んでみたかった。呼ばせてくれて、ありがとう。きっと、僕はもう呼ぶことは出来ないけれど。若月さんのことを愛してくれる人から、これから沢山、その名前を呼んでもらって下さい。

 僕は自分の名前を呼ばれる度に、言いようのない苦しさに襲われました。愛することができない僕が、「あい」という名前で呼ばれるなんて、なんて皮肉なのだろうと思っていました。そんな名前で呼ばれる資格なんかないのに。笑顔で答える度、自分の心が少しずつ、死んでいくのが分かりました。

 けれど、昨日一度だけ、若月さんが呼んでくれた「あい」という名前、その響きは、驚くほど心地よかったのです。ああ、これが僕の名前なんだ、と感じました。変かもしれないけれど、僕という存在を見つけてもらったような気がしました。ありがとう、ともう一度お礼を言いたかった。言えそうにないから、ここで言わせてください。ありがとう。

 世界の終わりというものを、僕はこれから自分の目で見てきます。夢で見たような綺麗なものなのか、地獄のような有様なのか、はたまた僕の想像なんか及ばないようなものなのか。また会えたら、その時は、僕が見た世界の終わりの話を聞いて欲しいです。

 若月さんと過ごす夕暮れが好きでした。

 僕のそばにいてくれてありがとう。

 あの時、傘を貸してくれてありがとう。

 泣いていることに気づかせてくれてありがとう。

 先に僕はいきます。

 今日もここから眺める夕空は綺麗です。嫌になるくらい綺麗です。

                                  深海藍』

                                                           






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