第20話

 愛とは一体何なのだろう。

 愛するとはどういうことなのだろう。

 愛も哀も逢いも遇いもIも藍も、違うものなのだろうか。

 考えても考えても答えは出ない。

 貴方と二人で河原に座って、 

 日が沈むまで、一緒に考えていたかった。




 二○一六年 春




「今、何て言った?」

 目の前で、誠が唖然とした顔で私を見つめている。がやがや騒がしい店内には、ビールと煙草の匂いが充満している。机の上には手つかずの焼き鳥の串と半分も減っていないビール。店長の威勢の良い声。どっと上がる笑い声。

「別れて欲しい、って言ったの」

 私はもう一度、さっきよりもはっきりとした口調で言った。

 今晩会おう、と言ったのは私だった。久々に会った彼の髪は少し伸びていて、お気に入りのストライプのシャツを着ていた。金曜日の夜の居酒屋は混んでいて、私たちは店の奥のテーブル席に座っていた。

「どうして、いきなり」

 彼は動揺を隠せない様子だった。無理もない。彼とはしばらく会ってはいなかったものの、メッセージのやり取りはしていたし、気まずい素振りも一切見せていなかった。彼は必死に、何が私にそう思わせたのかを考えているようだった。あの日、俺の身体を受け入れられなかったことを気にしてるのか?俺が焦って婚約なんていう話を出したのがいけなかった?俺が優の浮気を疑ったせいか?

 私はすべてに首を横に振った。

「誠は何も悪くない。これは、私の問題なの」

 私は言った。彼の顔をまっすぐ見ることが出来なかった。

「私はこれ以上、貴方と一緒にいられない」

 ごめんなさい、と私は頭を下げた。周りに溢れる声と音で、彼の気配は何も伝わってこなかった。長い沈黙の後、彼は深く溜息をついた。

「意味が分からない」

 呟くように、吐き捨てるように彼は言った。

「俺には優の考えていることが、何も分からないよ」

 当たり前だ、と思った。

 だって私と貴方は、全く違う人生を生きているのだから。

 私の考えていることは、私にしか分からない。貴方が今どんな思いで私を見ているのか、私には分からないのと同じように。

 お客様お帰りでーす、と遠くで店員の声が聞こえた。




 ***




「いらっしゃいませ」

「Bar Yoru」には、今日はお客さんが一人もいなかった。私が入っていくと、グラスを磨いていた文一がにこやかに出迎えてくれた。

「ジン・トニックを」

 私はそれだけ言って、イスに腰掛けた。奥から顔を出した店長に会釈し、私は目を閉じてジャズに耳を澄ませた。

 文一の、何か聞きたげで遠慮がちな視線を感じた。彼に聞かれる前に、話さなければならないことは分かっていた。私の中で、既に覚悟はできていた。

「藍くんのお母さんに会ってきたよ」

 コースターの上にジン・トニックのグラスが置かれた。私はそれを一口飲む。苦くて甘い。

「藍くんの家に向かう道は、何も変わっていないような、ひどく何かが変わってしまったような、不思議な感じがした。藍くんのお母さんの微笑み方は藍くんにそっくりだった。高そうなケーキを出してくれたけど、私は一口も食べられなかった」

 文一が聞きたいのはこんな話ではないと分かっていた。けれど、一つ一つのことを順序立てて話すことが、私にとってはとても重要なことに思えた。

「藍くんからの手紙、読んだよ」

 文一と目が合った。彼の目は静かに私を見つめ、次の言葉を待っていた。

「久しぶりに、藍くんと会話した」

 からん、と氷が音を立てた。

「藍くんは、優しすぎただけ。息がしやすい場所に、還っただけなんだって思った。今あの頃に戻って、藍くんにどんな言葉をかけても、きっと藍くんは一人でいってしまうんだと思う」

 グラスについた水滴を手でなぞりながら、私は言葉を継ぐ。

「分かったのは、私は藍くんを愛してたということ。これから先も、ずっとそれは変わらないということ」

 ぐい、と私は透明な液体を喉に流し込み、立ち上がった。

「ありがとう、文一」

 私は言った。言わなければならない、と思ったから。

 彼は少し私を見つめ、そしてゆっくりと微笑んだ。

「かなわないなあ、あいつには」

 泣きそうな、でもどこか安心したような微笑みだった。ごめんなさい、と言いかけたが、やめた。私も微笑んだ。

「美味しかった。ご馳走様」

 お代はいいよ、俺の気持ち、と彼は言った。でも、と私が言うと、彼はそれを遮るように言った。

「優が幸せであることを願っての、俺の気持ち」

 私は少し間を置き、ありがとう、と口にした。吐く息にジンの香りが混じっているのがわかった。

「素敵なバーテンダーさんだね」

 私はそう言って、もう振り返らなかった。ありがとうございました、という彼の声が、ドアの閉まる音の中に消えていった。

 もう、夜の色が濃かった。




 ***




 その日の帰り、大学のそばに流れている川に足を伸ばした。

 藍くんと並んで眺めた川とは違う名前の川。違う景色が見える河原。それなのに、ここを通る度、あの頃の私たちの後ろ姿が見える気がしていた。藍くんの声に、私は目を閉じて耳を傾けている。若くて勇敢で、どこにも行けなかった私たち。

 夜の河原に人はいなかった。水の流れる音が、暗闇の中に響いていた。誰にも見られていないのにもかかわらず、絶えることなく川は流れ続けていた。

 人生は川の流れのよう、そう歌ったのは誰だっただろう。もしそうだとしたら、私はずっと、岸辺で立ち止まったままだ。あの夏に流れ着いた岸辺から、何年経った今も、そのまま動けずにいる。目の前の川の流れは止まってはくれない。あの人もあの人も皆、流れて遠くの方に消えていく。

 もう川の流れの中に、藍くんはいない。

 居酒屋で飲んだビールと、「BarYoru」で飲んだジン・トニックが私の中で混ざり合って、視界をゆらゆらさせる。川面を覗き込むと、藍色の空にちらちら光る星が、不安定なリズムで揺れていた。

 藍くん、世界の終わりは綺麗でしたか。

 私はここにいない藍くんに呼びかける。。

 

 貴方が永遠に誰のことも愛せなくても、そんな貴方を、私は永遠に愛しています。




 ***




『続いてのニュースです。今日未明、○○川の中で一人の女性が倒れているのが発見されました。警察によると、女性の身元は○○大学二年生の若月優さんであることが分かっており、死因は凍死であるとのことです。住んでいたアパートに遺書らしきものはなく、また彼女は飲酒していたということで、自殺なのか事故なのか、現在捜査中とのことです。では次のニュースです・・・・・・』


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