第21話
「Bar Yoru」は午後六時に開店する。小さな看板を表に出し、今日流すジャズを選び、カウンターでグラスを磨いてお客さんを待つ。
もう少し休んで良いぞ、という店長は言った。けれど僕は、こうしてカウンターに立っている。いつも通りの夜を送る。今の自分には、それが必要だった。
優が死んだと聞いたとき感じたのは、息苦しくなるほど嫌な懐かしさだった。あいつが死んだと聞いたときと同じ感覚。世界から隔絶されたような感覚。
優の姿を見たのは、あの夜が最後になった。またお越し下さいと言えなかったことを後悔した。店を出ていく優の後ろ姿が、あの日からずっと離れない。紫色のワンピース、黒色のカーディガン。
けれど不思議と、心は落ち着いていた。どこかで、いつか優は遠くに行ってしまうのだと感じていたのかもしれない。きっと、藍を引き留められなかったのと同じように、優のことも、引き留めることはできないのだと。優はいつも一人で戦っていて、いつも自分が入る余地などなかった。
それでも、とグラスを磨きながら思う。優のことが好きだった。寂しそうに少し陰った瞳も、脆そうな細い肩も、小さな唇も、何かを言う前に少し考えるところも、全部。
ドアの開く音がして、いらっしゃいませ、と声を出した。入ってきたのは同い年くらいの男性で、ウイスキーロックを、と言ってイスに腰掛けた。
優が冷たい水の中から発見された時、彼女はあいつからの手紙をしっかり握りしめていたという。水性ペンで書かれた文字は驚くほど見えなくなっていて、あいつの気持ちを大切に抱えたまま、優はいったのだなと思った。
「店員さん」
ウイスキーを差し出すと、お客さんから声をかけられた。
「俺、大事な人を失っちゃったんです。すごく愛してたのに」
顔を見ると、ほのかに顔が赤い。既に少し酔っているようだった。
「奇遇ですね、僕もなんです」
そう言うと、彼は少し驚いたように目を開き、それから寂しげに微笑んだ。
「辛いっすね、お互い」
何か飲んで下さい、と彼に言われ、自分の分のジン・トニックを作った。優が最後に飲んでいたお酒。
「俺の恋人も、ジン・トニックが好きでした」
彼は物思いに耽るように言った。
生き残った奴だけが生きていくんだ。いつか、あいつが言っていたことを思い出す。何の会話の中だったかは忘れてしまったが、彼は確かにそう言っていた。当たり前のこと言うなよ、とその時皆で笑った気がする。
本当にその通りだよ、藍。
生き残った俺はこうして名前も知らない人とカウンター越しに向き合っている。いつまで生き残るかは分からないけど、お前も優もいなくなった世界で、今の俺は生きている。
思わず苦笑した。次会ったら、俺はまた二人に嫉妬するんだろうな。
「二人の失恋に」
乾杯、と掲げられた二つのグラスは、カン、と小気味良い音を立てた。
完
夜辺―よるべ― 夕空心月 @m_o__o_n
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
カクヨムを使い始めて思うこと ――六年目の手習い――/烏川 ハル
★215 エッセイ・ノンフィクション 連載中 312話
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます