第8話 モグラの穴

 年が明けて三学期が始まると思うと、またキリキリと胃が痛み始めた。


 その日も僕は明るい長男を演じながら朝飯を食べていた。食欲はない。でもご飯は二杯食べるし味噌汁もおかわりする。給食が食べられるとは限らないから。だからこうやって美味くもない食事を無理やり詰め込んで行く。


 卵焼きを口に突っ込んでいると母が「あれ?」と言って僕の頭を覗き込んだ。


「どうしたの、紘一、それ」

「なにが?」

「そこ……毛が抜けてるわよ」


 そう言って母は僕の頭皮を触った。水仕事をした後の冷たい指がじかに皮膚に触れた。


「冷たい!」

「やだ、これ円形脱毛症かしら? ちょっと鏡で見てごらんなさい」


 言われるままに洗面所で鏡を覗き込んだ。触られたところを見ると、親指の先ぐらいの大きさで髪がなくなっていた。そこだけ裸みたいに頭皮がむき出しになっている。僕はぞわっと背筋が寒くなった。


「何これ? 気持ち悪い」

「お医者さんに行きましょ。お母さん今日は用事あるから明日にでも。今日は学校行きなさい。髪の毛で隠せば分からないから」

「うん……」

 本当はすぐにでも医者に行きたかったんだけど。


「うわあ、お兄ちゃん、ハゲてる!」

 いつの間にか洗面所に入って来た諒二が僕を鏡越しに見て声を上げた。


「モグラの穴みたい!」


 無邪気な顔で笑った。僕は一瞬弟を殺してやりたいと思った。

「そんなこと言うんじゃないの!」

 母が怖い顔でたしなめる。それからちょっと心配そうな声を出して僕に訊いた。


「紘一……あんた、なんかストレスでもあるんじゃないの? 何かつらいことでもある?」


 その時、僕は母に何もかも打ち明けてしまいたい気持ちに駆られた。今ここで本当のことを言ったら、母は分かってくれるだろうか。明日と言わず今日病院へ連れて行ってくれるだろうか。そして、母は小川先生に電話をして──。


 玄関のベルが鳴った。

「佐伯さーん、回覧板でーす」

「はーい」

 母は明るい声を出して玄関に向かった。向かいのおばさんの声が聞こえる。

「寒いですわねえ」

「いいええ、パリではこんなもんじゃありませんでしたよ。底冷えって言うんですか、芯から冷えるっていうか。それに比べたらここなんて暖かいほう……」


 気持ちがそげた。


「いってきます」

 玄関でまだパリの話をしている母の横で靴を履き、おばさんにお早うございますと会釈した。

「お兄ちゃん学校はどう?」

「ええ、まあなんとか頑張ってるみたいよ」

「少し痩せたんじゃないの?」

「そうねえ、でも男の子はこれからどんどん変わるから」


 オホホホと口に手を当てて笑うおばさんたちをすり抜けて外へ出た。得体の知れない大きな大きな不安と、諒二の言った「モグラの穴」という言葉が頭に貼りついて離れなかった。

 

 案の定、エスカルゴにハゲがあることはクラス中に広まった。

「十円ハゲだ。うつるぞ。逃げろ」

 その時まで十円ハゲなんて言葉は聞いたことがなかった。確かに十円ぐらいの大きさ。ユーロだったら五十セントぐらいの大きさだな。どうせなら五十セントハゲと言ってもらった方がいいや。その方が値打ちがあるだろ。


「ハーゲ。ハーゲ。十円ハーゲ」

 小学生みたいにふしをつけて囃し立てる馬鹿な連中。こいつらみんな殺してやりたい。でも僕はへらへらと笑って、「やめてよー」なんて、調子を合わせたりして。ついでに自分も殺してやりたい。

 


 親父は僕の頭を吟味して、確かに円形脱毛症かもな、と言った。

「紘一、学校の勉強はそんなに大変か?」

 僕は曖昧な笑い方をして、そりゃあ大変だよ、と答えた。

「こないだも和仏辞典を買い替えたろう。そんなに辞書が必要なほど日本語は難しいか?」

 そうじゃない。前のは踏みつぶされて破られたから使い物にならなくなっただけだ。


「塾に行ってみるか?」

 僕は大あわてで首を振った。

「嫌だ。それは嫌だ」

「なんでそんなに塾を嫌がるんだ。学校の友達にも会えるし、いいじゃないか」

 どうして友達がいるなんて決めつけられるんだろう。


「大丈夫だから、勉強は慣れるから。こんなの、すぐ治るから。ねえお父さん、諒二がこれ見てなんて言ったか知ってる? モグラの穴だってさ。失礼しちゃうよなあ」


 なんでもないことみたいにそう言って、馬鹿みたいに笑った。勉強のせいだと思い込んでる親父に僕は何も言えなかった。この人は、担任の名前すら覚えてない。

 

 翌日目を覚ますと枕に何本も髪の毛がついていた。

 母は僕を皮膚科へ連れて行った。飲み薬と塗り薬を処方されて、僕は途中から学校へ行った。


 本当は母と一緒に家に帰りたかった。

 そして、母のひざまくらに甘えて思う存分泣いてみたかった。

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