第12話 オムライスの味
「ねえ、君にひとつ訊きたいことがあるんだけど」
オムライスを半分ほど食べたところでジェレミー先生が言った。
「月曜日さ……僕が話しかけた時、どうして君は泣いたの?」
ストレートに投げかけられた質問にドキンとした。僕はスプーンを持つ手を止めた。
「それは……」
ためらったけど、この場所でなら、この言葉でなら、この先生になら、正直に打ち明けてもいい気がした。僕は喫茶店の隅っこの席でポツポツと話した。フランス語を母に禁止されていること、クラスメートのこと、あだ名のこと、学校に行ったら何が起こるか、それから、(本当は知られたくなかった)モグラの穴のことも──。
先生は食べるのをやめて僕の話をじっと聞いていた。水色の瞳が曇っていく。モグラの穴を見せたら眉間の皺がぐっときつくなった。
「……小川先生には話したのか」
僕は首を振った。
「僕から話してあげようか」
「ダメだよ、それは絶対ダメ。そんなことしたら、チクったっていって、また……」
僕は言い淀んでうつむいた。
先生はため息をついた。
「……僕は、とてもいいクラスだと思ってたんだけどね。みんな明るいし、僕のこともジェレミー先生って、すごく親しくしてくれるし……」
「それは先生が白人だからだよ」
「うん?」
「先生は白人だから、みんな優しくするんだ。外国語を喋っても許される。オムライスも特別大盛りにしてもらえる。僕は……」
言葉がつまった。
「……僕は、日本人なのに、ううん、日本人だから、許してもらえない。なのに、僕は、うまく日本人になれない。どうしたらなれるのかも分からない。それに、どうせもう、手遅れだし……。みんな、何も見ないふりをしてる。僕に声をかけたりなんかしたら、自分にも火の粉がふりかかるから、だから、教室の隅で何があっても、みんな、知らん顔だよ。……誰も、僕に手を差し伸べようなんて勇気のある奴はいない……」
そう言ったら、目がじわっとしてきた。
「先生……誰も話しかけてくれないのって、結構、きついね……。友達がいないって、想像してたより、ずっと、ずっと、淋しいんだね……」
声に涙が混じった。僕はあわてて鼻をすすった。こんなところでまた泣いてしまうなんて恥ずかしい。
「分かるよ」
静かな声で先生が言った。
「君は僕が白人だからいいなんて言ったけど、この国で生活するのはそんな簡単なことじゃない。どんなに溶け込もうとしても僕はガイジンだ。日本に二十年住んでるっていう友達がいるんだけどね、彼も言ってたよ。心から話のできる日本人の友達はいないって。どんなに親切にしてくれてもね、所詮僕たちはガイジンだから」
ガイジン。ガイジン。いやな響きだ。そこには目に見えない確固たる線引きがある。内側と外側を隔てるくっきりとした線がある。
「先生も、友達がいないの?」
「ううん、ひとりできたよ」
「……そう」
「目の前にいる」
「え?」
僕は目を上げた。先生の小さな瞳が笑っている。
「僕たちは今日から友達。同じ言葉で話せる友達。つらいことがあったら僕に言え。誰にも言えないのなら、せめて僕だけに話せばいい」
こらえようとしたけどやっぱり無理だった。それを聞いた途端にふわあっといっぺんに涙が出てきて、僕は顔を歪めて子どもみたいに泣き出した。
先生は僕の手に自分の手を重ねた。大きくて温かくて弾力があって、指にまで赤い毛が生えていた。
「僕も嬉しいんだよ。言ったろ。フランス語の通じる人間に会えるとは思わなかったって」
「……うん……」
「それは君の特技なんだよ、コーイチ。笑われたからってなんだ。君は色んな人間とコミュニケーションを取れる、素晴らしいツールを持ってるんだ。スイス人とも、ベルギー人とも、モロッコ人とも、チュニジア人とも、イヴォワール人とも、セネガル人とも、それから……カナダ人とも」
「……うん……」
目の前のオムライスが涙でかすんで見えない。僕の手をガシッと掴んで握りしめてくれる、大きな毛むくじゃらの手。その時、僕はこの手をどれほど心強いと思ったことか。青臭い友情シーンだと笑えばいい。でも、ひとりだけ取り残された時に誰かが振り返ってくれるありがたさが分かるか。つまづいて転んだ時に誰かが差し出してくれる手のぬくもりを知っているか。僕は嬉しかったんだ。嬉しくて嬉しくてたまらなくて、救われた気がしたんだ。僕は何も言えなくて、ただうつむいて、ジーンズの上にポタポタと涙をこぼした。
「もう泣くなよ。さあ、食べよう。ここのオムライスは冷めても美味いから」
「うん」
僕は涙をぬぐってスプーンを握り直し、冷めたオムライスを小さく崩した。
「……ねえ、これを食べ終わったら、先生の家に行ってもいい?」
「え?」
「行ってもいい? 僕、先生の家を見てみたい」
ああ、どうしてフランス語だとこんなわがままがスラスラと出てくるんだろう。
先生は一瞬戸惑ったような顔をした。でも、すぐに大きく微笑んで、いいよ、と答えた。
「……やったあ」
それから僕たちは黙々と残りのオムライスを片づけた。
僕は、この時のオムライスの味を一生忘れない。少しケチャップがきつめで、ちょっと焼きすぎたぐらいの卵で、そして、ほんのりと涙の味がする。
先生の言うとおり、それは日本一のオムライスだった。
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