第11話 日曜日のこと

 日曜日、僕は駅の反対側の本屋へ行った。ここは学区外だから同じ中学の生徒に会うリスクが少ない。

 漢字ドリルを探してうろうろする。二学期の通知表に漢字が弱いと書かれてから母は僕に毎日これをやらせる。いい迷惑だ。あーあ、こんなものを買うぐらいならマンガーコーナーに行って表紙だけでもいいからベルサイユのばらを拝みたい。


 さんざん悩んでから屈辱的な気持ちで「小学生からの復習」ってのを手に取ったその時、隣の人にボンとぶつかった。


「Tiens, c'est toi!(やあ、君か!)」

 顔を上げたらジェレミー先生だった。

「Be… Bonjour …(こ、こんにちは……)」

 僕は小さな声で気まずく挨拶した。こないだの放課後に先生の前で泣いてしまったことを思い出したからだ。


 先生は僕が持っている漢字ドリルを見てニヤッとした。

「君も日本語の勉強?」

「ええ……まあ……」

「僕も同じ。ほら」

 先生は別の漢字ドリルを見せた。

「お互い苦労するねえ、日本語には」

 同情するような顔で笑った。先生は長袖のTシャツを着て、大きなスポーツバッグを担いでいる。学校でのスーツ姿と違って若々しく見えるけど、それでもTシャツを着たぬいぐるみのクマには違いない。


「ああ、僕はね、道場の帰り。毎週日曜日は柔道に通ってるんだ」

 僕の視線に気づいて先生がスポーツバッグを見せた。僕は思わず吹き出した。柔道ってよりかむしろ相撲だ。こんな大男に投げ飛ばされちゃ相手もたまらないだろう。

「笑ったな。僕には相撲の方が似合ってると思っただろ」

 悪戯っぽい目で言い当てて、それからふと思いついたように僕に尋ねた。


「ねえ、もう昼飯は食べたのかい?」

「いえ、まだ」

「じゃあさ、オムライス食べに行かないか。この近くに日本一のオムライスを食べさせる店があるんだ」

「いいんですか?」

「もちろん」

 僕は嬉しくなって、Oui! と大きく頷いた。



 その店は馴染みのお客しか来なさそうな、小さくて地味な雰囲気の喫茶店だった。昭和っぽい、っていうんだろうか。先生が入って行くと店のおばさんが、いらっしゃい先生、と声をかけた。僕たちは奥の席に着き、先生は出された水をゴクゴク飲みながらオムライスをふたつ注文した。


「僕はオムライスが大好き。色んなお店を試した結果、ここが一番ってことになったんだ」

 テーブルの水を注ぎ足しながら先生が言う。

「本当は学校の外で生徒に個人的に会うのは禁止なんだよ。でも、ここは学区外だし、何より規則なんて、」

 少し身を乗り出して、

「破るためにある。だろ? フランス流」

 小さな水色の目でウインクした。僕はまた吹き出した。

「そんな人たちばっかりじゃないよ」

「そうか、これはフランス人に対する偏見だな。君は真面目そうだもんね」

 ひげもじゃの顔を崩して豪快に笑った。


「ね、先生はカナダ人なんでしょ。訛らないんだね」

 僕が言うと先生はおやおやおやと呆れた顔をした。


「それはケベック人に対する偏見だな。これでも努力したんだぜ。おーらーが村にゃあー訛りなんてえーねえーよーって」


 鼻にかかったどぎついケベック訛りで発音する。僕がケラケラ笑うと自分でも可笑しくなったのか先生も一緒に笑い出した。


「いや本当。君なんかケベックに行ったら何にも聞き取れないぜ。十二歳の時にフランス旅行をしてね、訛りを笑われてからこれでも必死に矯正したんだよ」

「へーえ」


 お店の人がおまちどうと言ってオムライスをふたつ運んできた。先生のは大盛りどころかラグビーボールみたいな大きさだ。僕が目を丸くしていると先生は得意そうに言った。

「僕のは特注」

 イタダキマスと片言の日本語で言うと、さっそくその大きな卵のかたまりにスプーンを突っ込んだ。

「食べてごらん。これ本当にいけるから」


 そのオムライスは、流行りのトロトロ卵とかドミグラスソースとかじゃなくて、薄い卵に包まれた楕円形の、クラシックというか、ごく普通のオムライスだった。たっぷりかかったケチャップの匂いがツンと鼻に沁みる。

「ああうまい、やっぱりここのオムライスは日本一だ」

 スプーンに山盛りにして心から幸せそうな顔で食べるから、僕も負けじとスプーンを突っ込む。


 それから先生は故郷であるモントリオールの話をした。冬になると気温がマイナス三十度になるから観光客はみんな地下街に潜るとか、冬の買い物にはみんなソリをカート代わりにするんだとか、自転車を停め忘れると雪に埋もれてしまって春まで取りに行けなくなるとか。先生の話は珍しくて可笑しくて、僕は食べながらいっぱい笑った。

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