第10話 ジェレミー先生
月曜日の二時間目は英語の授業だ。
先週休んでいたことをネタにネチネチいびられていたところに救いのチャイムが鳴り、小川先生が入って来た。
「おーい、みんな、席につけー」
いつもの緩い声。僕はやっと解放された気分でのろのろと英語の教科書を出した。
「えー、今日は、みんなに新しい先生を紹介します。先生、プリーズ・カム・イン」
小川先生がそう言ってドアの方に向かって手招きした。何だと思って顔を上げると、ドアからひとりの人間が入って来て教壇の前に立った。
途端にざわざわしていた教室が静まり返った。
入って来たのは三十歳ぐらいの白人の男だった。百九十センチはあろうかという大男で、身長よりも横幅の方が大きいんじゃないかってぐらい恰幅がよかった。
暑苦しそうにまくり上げた袖から見える腕は毛むくじゃらで、一番緩い穴に通したベルトの上には、はち切れそうな肉がシャツに隠れて乗っかっていた。髪は赤毛で、あごの周りを覆ったひげも同じ色だった。つやのいいピンクの頬の上には、奥まった小さな目が並んでいる。僕は一瞬、巨大なクマのぬいぐるみを思った。
「今日から授業に加わって下さる、ジェレミー・ランバート先生です」
白人の先生はひげもじゃの口を思いっきり引き上げて微笑み、黒板に、
『 Jeremie Lambert 』
と大胆な筆記体で綴った。
「GOOD MORNING, EVERYONE!」
ものすごくよく通る声でそう言って生徒たちを眺めまわした。
「I'M VEEERY GLAAAD TO MEEET YOU!!」
オオカミを、いや、クマを目の前にした羊の群れ。僕たちはちょうどそんな感じだった。誰も笑ったりからかったりできなかった。そんなことをしたら一発でぺちゃんこにされそうな迫力があった。
それから先生は僕たちに教科書の音読をさせた。
何もかもが豪快だった。体も、身振りも、声も、全てがデカく、スケールがひとまわり違った。久しぶりに授業で笑った。僕は心の隅で、挨拶ひとつでみんなをひと呑みにできる先生をうらやましいと思った。
放課後は部活に行く生徒に紛れて逃げるように遠い方の階段を降りる。ちょっと不便だけど、その方がクラスメートに見つかりにくいし、使う人が少ないからだ。今日はこれ以上いびられる前にさっさと帰りたい。
一番下まで降りて急いで下駄箱へ向かおうとしたところで、いきなり後ろから声をかけられた。
「C’est toi qui viens de France?(フランスから来た子ってのは君だろ?)」
飛び上がりそうになって振り返ると、目の前にランバート先生が立っていた。大きな体を折り曲げるように僕を覗き込んで、同じ質問を繰り返した。
「C’est toi qui viens de France?」
「…Oui … Monsieur …(はい……先生)」
目を丸くしてしどろもどろに頷くと、ランバート先生はニカッと満面の笑顔になった。
「Ah, voilà ! J’en étais sûr! Quand je t’ai entendu lire tout à l’heure, je me suis demandé pourquoi tu avais un accent français ──やっぱりね、そうだと思ったんだ。さっき君の音読を聞いて、おかしいなと思ったんだよ。フランス語訛りだからさ。それで小川先生に訊いたら、君がパリに住んでたっていうもんだからね。これは面白い偶然だと思って──」
僕は硬直したまま、先生を見つめていた。
先生は秘密を明かすみたいにちょっと声を潜めた。
「Moi, je suis originaire du Québec ── 僕はね、カナダのケベック州の出身なんだ。だから英語よりもむしろフランス語の方が母国語でね。ご先祖さまもフランス系だから、ランバートじゃなくてランベールってのが本当の読み方。名前もね、家族の間じゃフランス語読みの
先生は勢いづいて続ける。
「日本に来てからフランス語なんて話す機会がなかったもんでね、ちょっと喋りたくなっちゃった。いやあ、こんなところで同士に会えるとは光栄だ。──しかし、さっきの君の英語はひどいなあ。訛りだらけ。フランス人が英語喋ってるのかと思った。僕は教科書で顔を隠して笑わないように必死だったんだよ。フフ、気づかなかったろ? まさか日本の中学に来てフランス語訛りの発音を聞くことになるなんて思いもよらなかったから──」
先生はクスクス思い出し笑いをしながら僕を覗き込み、
「──おい、どうしたの?」
小さな目でパチパチと瞬きした。
「どうしたの? どうして泣いてるの?」
分からない。一緒に笑ったつもりだったのに、なんで泣いてるんだろう。ただ、先生の口から出る音を聞いてるうちに勝手に涙が出てきたんだ。
この音。
僕のよく知っている言葉。
母に使ってはいけないと言われた言葉。
失笑された言葉。
もう聞くことはないはずだった言葉。
懐かしい、懐かしい、この言葉。
「Mais qu’est-ce qu'il y a… ? Dis-moi.(いったいどうしたの? 言ってごらん)」
もうこらえきれない。押さえつけていた何かが心の中で吹き出して、涙になってこぼれていく。ボロボロ、ボロボロ、こぼれていく。
「Dis-moi … qu’est-ce qu'il y a… ?」
うすい水色の目が心配そうに僕を覗き込む。何も答えられない。ただ懐かしくて、苦しくて、先生の言葉が耳に沁み込むほどに涙が止まらなくなる。
「Rien … rien …(なんでもないんです……なんでも……)」
冷たい廊下の隅で背中を丸め、先生の大きな体に隠れるようにしたまま、僕はいつまでも泣き止むことができずにいた。
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