第20話 崩壊

「紘一、ちょっとここに座りなさい」


 ダイニングに戻った親父が僕を促した。僕は涙を拭き、のっそりとソファから立ち上がって、下を向きながら親父の前に座った。


「……どうして、今まで何も言わなかった?」

 親父が大きなため息をついた。

「いじめに遭ってたなんて、父さん知らなかったぞ」

「……言えなかった」


 目を伏せたまま小さく呟いた。そうとしか答えられない。まだ大丈夫、ここまでなら大丈夫と思っているうちに、沼に呑み込まれるように、ズブズブといつの間にか抜け出せなくなっている。息ができないと思ったその時は、もう遅い。


「このことに関しては学校とちゃんと話し合わなきゃいけないな」

 親父は結論づけるようにそう言った。それから僕を上目遣いに見上げて、遠慮がちな声で訊いた。


「で、その……ナントカ先生とは……?」

「ジェレミー先生は、僕を慰めてくれた。ケベックの人で、フランス語で話ができて……それで、日曜はいつも先生の家に行ってた」


 母がキュッと眉をひそめた。


「それでお前、本当に、アレなのか……その……」

 親父が口の中でもごもご言う。

「さっき、小川先生に言ったこと。お前がその……ホ、ホ……」

「ホモかってこと?」


 僕は険しい顔で親父を見返した。親父は妙な苦笑いをして僕を見た。


「それはお前の勘違いじゃないのか。フランス語の通じる先生にちょっと優しくされて、それでそういう風に思い込んだだけじゃないのか」

「年上の男の人に憧れただけなのよ」

 横から母が口をはさんだ。なにを分かった風に。僕は憎らしくなってつい言い返した。

「違うよ。僕は男が好きだ。自分で分かってる。んだから」


 空気が止まった。


「は?」

 親父が目を丸くした。

「今何て言った?」

 全身に鳥肌が立った。もう引き返せない。


「……経験があるって言ったんだよ。エミールと。コレージュの時の。あいつとセックスしてた。あいつの部屋で、引っ越すまでずっと。だから僕はだよ。知らなかったでしょ。知るわけないよ。だって、これは僕の、ひみつの──」

「セックスってなに?」

 諒二が幼い声で母に訊いた。その途端、


 パン!

 今日二度目の平手打ちが飛んだ。


「お前は……親に隠れてコソコソと……そんな……!」

「あんたって子は……!」


 僕は唇をかんでうなだれた。

 おしまいだ。僕はもうペシャンコだ。

 

 親父はイライラとため息をついた。


「なんでこんなことになるんだ。学校のことにしろ、その先生のことにしろ、お前は何でもそうやってコソコソ隠してばかり……そんな風だから、お前が何も話そうとしないから、後でこんな大ごとになるんだろう」

「……どうして僕を責めるの?」


 ふつふつとくすぶっていた感情にまた火がつき始めた。僕は濡れた目で親父を睨んだ。


「僕は悪くない。何も悪くない。悪いのはあいつらの方だろう! だいたいいつ話せるんだよ。誰に話せるんだよ! あんたは家にいないし、この人は日本の悪口なんか聞きたくないんじゃないか!」

「親に向かって何です、その口のきき方は!」

 声を荒げる母に向かって吐き捨てた。

「あんたはフランスを振りかざして得意そうだもんな。パリ帰りでございますって。あんたみたいなのがいるから僕がおフランスだなんて言われるんだよ!」


 僕は母を指さした。

「この人はさ、フランスにいた時はこれっぽちもフランス語を喋れなかったんだよ。知ってんだろ。全部僕に通訳させてさ、フランス人の悪口ばかり言ってさ。それで日本に来たらいかにもパリ帰りの気取ったマダムだよ。ふざけんな。それで僕には日本語をちゃんと勉強しろだと? 笑わせんなよ。てめえがフランス語喋れるようになってから言えよ!」

「紘一!」

 親父が怒鳴った。


 僕は親父に向き直った。


「あんたはなんだよ。郷に入れば郷に従え? あんたのその妙な哲学のせいでこっちはいい迷惑なんだよ。そんなにあっちにもこっちにも従えるか! 帰国子女なんてな、国際人なんかじゃねえんだよ。そんないいもんじゃねえんだよ。自分の言葉がなにかも、自分がなに人かも分からなくなるんだよ! あんたはそんなことも知らないで、僕がどんな色にでも染まると思ってる。僕はカメレオンじゃないんだよ。そんな簡単にどこにでも棲みつけるか!」


 怒りに任せてテーブルの湯呑みを食器棚に投げつけた。ガシャーンと派手な音がしてガラス戸が砕け散った。


「やめなさい、紘一!」

 母が震えあがって叫んだ。

「お兄ちゃんこわいー」

 諒二がまた泣き出した。

「何するんだ! ひとが心配してればいい気になりやがって! そんな風だから学校で嫌われるんだ」

「僕のせいかよ! また僕のせいかよ!」


 ガシャーン! ガシャーン!

 手当たり次第にテーブルの上のものを食器棚に投げつけた。母が悲鳴を上げる。諒二は火がついたように泣いている。


「やめなさい、紘一! やめろ!」


 やめるもんか。僕ひとりを裸にして、さらし者にして、何もかも暴露させて、それで自分たちだけ安全なところで傍観して非難するなんて、許せない。壊してやる。自分と一緒に何もかも全部ぶっ壊してやる。

 テーブルをひっくり返し、椅子を窓に投げつけ、戸棚のガラスを割った。親父はやめないかと繰り返しながら僕が家を破壊するのをただ手をこまねいて見ていた。


 向かいの家に電気がついて玄関のベルが鳴った。

 ──佐伯さん、どうしました?

 ピンポンピンポン。

 ──どうしました? 警察呼びましょうか?

 母が玄関にすっ飛んでいった。

 ──ごめんなさい。息子がちょっと……あの、何とかしますから、どうか、警察は……。



 結局警察が来た。僕は今日二度も警察の厄介になった。

 両親が玄関先で厳しく注意され、近所の人たちが好奇心まる出しで家庭内暴力の残骸を眺めているのを、僕は割れたガラス窓からぼんやりと見ていた。


 これは何年もあとに諒二に聞いた話だが、両親が警察を帰して部屋に戻って来ると、家の中をめちゃくちゃにした僕は気を失ったようにソファにぶっ倒れて、死んだように眠ってしまったらしい。

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